YOUTUBEにて「嶋崎城跡」が紹介されています。
【茨城探索】島崎城跡 茨城県潮来市!土塁・井戸跡・大堀・空堀が残る鹿行地方最大のお城です!本丸跡地には「御札神社」が残っています。(島崎城跡 潮来市)
茨城県非公認観光大使 アミ による 【茨城探索】 島崎城跡 茨城県潮来市 の紹介です。 ●アミロハ チャンネル● https://www....
youtube#video
約30年前に茨城県南部地域を中心に発行された地方紙「常陽新聞」に10回シリーズで掲載された記事を紹介します。
【島崎盛衰記その4】
行方の諸氏が呼応 島崎勢の陣形固まる
佐竹と縁組をむすぶこと━
左衛門尉長国が死んで、長子安国が家督を相続、家門はますます繁栄した。安国の妹は、かって常陸北部をおさめ、いままた勢力をましてきた佐竹氏におくり、まずは血縁の間柄となった。引きつづき安幹、氏幹をへて義幹の時代をむかえ、島﨑氏の悲劇がはじまる。
左衛門尉義幹は先祖に劣らぬ無双の勇将。当時、行方の諸氏いずれも小田讃岐守氏治入道天庵の幕下に属していたから、島﨑も自立なりがたく、小田の幕下に合流して天庵の命令にしたがっていた。おもしろくないのは佐竹だ。島崎は旧交の義を捨て、われわれに背いて小田にしたがうとは、なんと不埒な振る舞いであるかといきどおり、ついに、敵味方に分かれることになる。そして天正元年(1573)頃から小田、佐竹両氏の攻防戦が激しくなる。行方の諸氏は小田に加勢するため、それぞれ出陣していった。
ときに、義幹の父氏幹は旧交の佐竹と刃を併せることを本意とせず、出陣は見合わせていたが、義幹はこのような父をいさめ、小田氏への加担をきつく迫ったものの、氏幹はがんとして受けつけなかった。そんなとき、義幹はやまいに倒れた。小田氏からは出陣をうながす書状がひんぱんに届く。義幹はジリジリする数日を過ごし、小田氏が合戦に利あらず土浦城へ敗走したことも、やまいの床で聞いた。
佐竹勢は□丹波守、額田、□井など、大軍をひきいて攻め寄り、小田氏をはじめ、幕下の諸軍を撃破していった。あい次ぐ敗戦におどろいたのは義幹、わが一族、行方の諸氏が味方したにもかかわらず、このありさまはどうしたことだ。他人ごとではない。自分は出陣できないが、加勢の軍勢だけでもおくろうと。父に執拗に食い下がった。氏幹もこの事態に出兵を納得し、家臣の土子、大平を大将として、窪谷四方之助、鴇田兵庫、鴇田伊賀守、今泉将監、大生市正、柏崎隼人、柏崎六左衛門、塙外記、山本玄蕃、佐藤玄蕃□、寺田茂兵衛、大川市之亟、下河辺監物などの勇士二千余騎を玉造ちかくへさしむけた。
対する佐竹勢は早くもこの情報をキャッチ、要害の地に伏兵を置き、島﨑勢を待った。土子、大平の勇将を先頭に佐竹勢へ急いでいた島崎勢は、土浦の落城、小田天庵はゆくえ知れずの報を受けた。佐竹勢は破竹の勢い、無謀な戦いかと思えたが、土子、大平の島崎勢は身命を捨てて佐竹勢にぶちあたった。しかし、すでにペースに乗った佐竹勢のことだから、さしもの島崎勢も敗退、命からがら島崎城に引き下がった。
城主義幹はまったくおだやかでない。美容器が全快さえすればこのうっぷんが晴らせるとばかり、名医を呼んで養生した甲斐もあって、日一日と快方にむかった。とはいうものの、敵は名にしおう佐竹義宣。それも大軍で攻めてくるのだから小勢では無理。こうしてむなしい月日が流れた。大軍には大軍をもってあたるのが兵法の習い。
そこで義幹は、意気あがらぬ日々をおくっている行方勢下の諸氏に呼びかけ、出兵をうながした。佐竹に殺されるも恐ろしいが、島﨑に睨まれるのもうまくないということで、行方の諸氏はみな島崎の呼びかけに応じたから、島﨑勢はにわかに強力な陣形をととのえることになった。こうなっては佐竹勢もみだりに島崎を攻めることはできない。相州の北条氏にも応援方を依頼したが、不発に終り、島﨑の勢力を強固なものにするばかりであった。
その後、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻撃のおり、島﨑も参陣して秀吉に忠誠を誓ったから、その縄張りは安堵、義幹は嶋崎の城へ帰った。
島崎盛衰記 その5につづく。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます