「長山城跡」(潮来市)の紹介
島崎城跡から車で約10分の潮来市内の城跡「長山城跡」について紹介します。
「長山城跡」は霞ヶ浦東端のほとりの谷津田に突き出した標高約20mの半島状台地に築かれている。
周囲の水田面からの比高は約12mを測る。三方を台地に囲まれており見晴らしがよいとは言えない。
1200年頃、常陸大掾氏の氏族行方幹平の次子行方与一郎知幹がこの地を領し長山氏を名乗り長山城を築いた。大永2年(1522)10代幹綱の時、隣接する同族の島崎城主島崎安国に攻められて落城した。その際、幹綱は自害したがその子、政幹は佐竹義篤の元つながるへ逃れ保護を受けた。長山城のすぐ東側を夜越川(よろこしがわ)が流れるが、この攻城戦の際、島崎軍がこの川を越えて夜襲をかけてきたのでその名がついてという。
西から東へ延びる半島状台地の先端にⅠ曲輪を設け、その北西にⅡ曲輪、更にその北にⅢ曲輪を配した直線連郭式の丘城である。
Ⅰ曲輪は約40×70mの長方形でほぼ全周を高さ1~2mの土塁に囲まれている。その土塁の外側にはいくつもの腰曲輪が築かれ防備を厳重なものにしている。この主郭には現在明確な虎口が二つ確認されるが、虎口aは内枡形で、城域南端へ続く小径と繋がっているため搦め手口と思われる。虎口bは、Ⅰ曲輪とⅡ曲輪を隔てる大堀切より切岸をスロープ状に登ってくる坂虎口である。
このように堀底からスロープ状に登る坂虎口は、このあたりの大掾氏系城郭によく見られる遺構である。Cにも虎口のような段差があるため、ここからⅡ曲輪へ木橋が架けられていた可能性もある。また、Ⅰ曲輪のすぐ北側にはこれと言った防備はないものの、広大な削平地Ⅳ曲輪があり、Ⅰ曲輪のすぐ下のまとまった空間と言うこともあり、城主の館跡とも考えられる。
Ⅱ曲輪は約20×30mと小振りであるが、ほぼ全周を土塁で囲み北東に腰曲輪を配している。虎口dも内枡形の構造を持ち、葛折りのスロープへを経てⅡ曲輪の西側を周り、更に桝形を経てⅢ曲輪へ至るという巧妙な導入路を備えている。Ⅲ曲輪はⅡ曲輪の北西にあったが「かすみの郷公園」建設の為湮滅した。
在地領主、長山氏の居城であったことは明らかだが、現在残されている遺構は戦国末期の縄張りといってよく、長山氏を滅ぼした島崎氏、もしくは島崎氏を滅ぼした佐竹氏の改修を受けたものでなかろうか。
(岡田武志)
※「牛堀町の昔ばなし」「ふるさと牛堀」
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