平成31年3月3日、潮来市立公民館にて開催された文化講演会にて、日本考古学研究会の間宮正光氏を迎えて、「考古学からみた島崎氏と城郭」についての講演が開催されました。その講演内容についてシリーズ6回に分けて紹介します。
- 初代の高幹氏はどこに住んでいたのか?
資料の図7に「城館跡分布図」の1に島須の「島崎城」があり、その北方5の所に大生の所に「大生城(鳳凰城)」という城があります。そのすぐ側に「新城」というものがあります。潮来市と行方市の境に「鴨山城」という城があり、更に延方に「大平館」というのがあります。また、島崎城の西、正確には北西には「大台城」と一番西端に「大台城西出城」と呼ぶ城があります。さらに北西に進むと3の「長山城」というものがあり、出城を本城に加えますと、だいたい地域で6ケ所、行方との境界に立っている鴨山城をくわえますと7ケ所のお城の跡が知られています。
その内、実際に発掘調査が行われたのは、この島崎城と大台城、そして鴨山城ということです。資料の島崎城の写真は、南側から島崎城の一番大事な部分中心部を撮った写真になります。
島崎城は北から南へ半島状に突き出した台地上に築かれております。城域は宅地とか耕地になっておりますが、全体的には良い保存状態になっています。
根小屋地区とか古宿・芝宿・宿、そういった地名、城下集落を物語る地名が残されています。歴史学はもとより考古学・地理学さらに民俗学多方面に渡って注目される城郭遺跡です。
資料図3の嶋崎城の構造を見ますと、一番の中心部を台地の先端において、堀と土塁を見ることができます。
「土塁」というのは堀を掘ると土が出ます。その土を内側に積むことによって、防御力を高める、そういうものです。
それによって、順次区画をした「曲輪(くるわ)」をつくります。曲輪というのは堀とか土塁によって区画された守りたい空間のことです。それを繋げて行く構造です。
この中心部の中で比較的大きな空間がこの「三の曲輪」です。
この北側には深さが10m位の「大堀」と呼ばれる、大きな堀が今でも確認されています。その地を境として、南側が主な島崎城の住居で、その外側が「外郭」と呼ばれるところです。
ここでは、島崎城の「西出城」という所が構えられています。そういうような全体の構造です。外郭部をみますと、ちょうど外郭部は「古宿」という地名になっています。
「農村集落センター」があって、その裏には高さ2m位の土塁が残っていました。
一方、台地の裾を見ますと小規模なテラスがいくつか確認され、根小屋という地名が残っています。
そこには、家臣団の屋敷に充てられたのだろうと考えられております。
このお城に対して、一番最初に考古学的に調査されたのは、昭和43年の事です。
送電線の鉄塔の部分を調査されております。昭和61年以降、6回ほど歴史考古学者の西ヶ谷恭宏さんが、この中心部で部分的な調査を実施しています。
外郭部の方はと申しますと、道路建設に伴い発掘調査が4回程行われております。
図の内野遺跡は、今から22年前空から撮った写真です。
この部分を内野B遺跡として調査しております。その後、内野遺跡第2次、第3次、第4次として3回調査を進めて参りました。
一方、「大台城」が発掘されております。
牛堀中学校をつくるために、昭和58年にやはり西ヶ谷先生により調査されております。図5の大台城のここの部分がお城の中心になり、江戸時代でいう所の「本丸」にあたります。この城の一番西端の部分に大台城の「西出城」があります。
この西出城を調査したのが私であります。その北に「北出城」があったということが分かってきております。
残念ながら学校の建設とその後の開発により、今は平地になっています。本日は、これらの発掘の成果というものに、文献史料で見ていきたいと思います。
最初のテーマの、初代島崎高幹はいったいどこに住んでいたのか?との疑問です。
あれ島崎城じゃないの?とおっしゃる方もおられると思います。
一般に、お城に領主が住むようになっていくのは、戦が多くなってきて大体15世紀に入る頃からです。
それまでは、館、いわゆる屋敷に住んでいて、有事の時にお城を作って、砦のようなものを作って立て籠る。そういう風にして使用する。つまり「生活」と「軍事」が切り離されていた訳です。
では、最初の頃の館ってどんな形でしょうか?ということですが、茨城県で調査発掘された、館と考えられるものを二つほど持って来てみました。
ひとつは、水戸市にある「白石遺跡」と龍ヶ崎にある「屋代B遺跡」です。
白石遺跡は東西約77m、南北80mの範囲を深さ20㎝の浅い溝で区画している。
そういう様相が分かっています。鎌倉時代から次の南北朝時代の初めの頃の館という風に考えられています。
一方、屋代B遺跡は、龍ヶ崎ニュータウンを建設する為に調査を行いまして、遺跡のほぼ全域が発掘されています。
つまり、全貌が明らかになっています。調査では「土器」とか国内で焼いた「陶器」とか出土しており、貿易で持ってきた物、海外で作られた物も多数出土しております。
この遺跡は、鎌倉時代から戦国時代の終りまで使われた、という事が分かって来ました。ただ、ずっと同じものを使い続けた訳ではありません。時期毎に姿を変えています。この、一番最初の段階、館の時代とも言えるでしょうか、図8と図9が館の図面です。屋代遺跡の堀の跡を描いているのですが、幅2.5m、深さ1.5mですから白石遺跡よりは、しっかりしたので囲い込まれております。そして規模が、だいたい東西90m、南北100m位になっておりますが、土塁は報告されておりません。
その代わりその側には、墓地が見つかっております。時期については、鎌倉時代の後半から南北朝の初めの頃に位置付けられています。この白石遺跡と屋代B遺跡は、ほぼ同時期に使われた、ということが分かります。お気づきかと思いますけど、上から見ると方形、四角に囲まれているのが特徴として見られます。
この時代の館の特徴として、茨城県ではこの様な特徴の建物が多いです。
では、島崎氏に話を戻しまして、島崎氏の館どこにあったのか?
当初、内野B遺跡を調査する時に、そこの地名は「古宿」と書いてあるんです。
じゃあ、ここにあるのではないの?で発掘しました。そうした所、鎌倉時代13世紀の「梅瓶(めいぴん)」の欠片が出てきました。皆さん、よく分からいのではないのかと思い、参考資料として「梅瓶」の形が分かる写真を持ってきました。
これは、鎌倉の今小路西遺跡という所で出土したものです。いわゆる「酒瓶」です。渦巻の文様がみることができます。ちょうど瓶の肩の部分にあたります。
じゃあ、島崎氏の最初の屋敷は、内野B遺跡の周辺にあったのか、そう簡単に話は進まないのです。出ているのはこれ一点でして、当時の建物の跡は見つかっておりません。また、この様な溝も確認されていません。この「梅瓶」というのは中国の景徳鎮(けいとくちん)という所で焼いた焼き物の可能性が高いのですが、「高級品」です。
鎌倉時代に外国で焼いたにしても、その時代だけではないのです。その後、武士のステイタスシンボル、これを持っていると偉い人物になれるというか、権威の表すものとして、その後の時代にはずっと飾られるものです。
ですから、これ一点発掘されたから鎌倉時代の遺跡だ、ということには残念ながらならない。物は違いますが、同じものが大台城の西出城でも発見されております。
じゃあ、西出城が島崎城の屋敷だと良いんですけど、今度大台城には13世紀の後半には、火葬の「お墓」がつくられています。
骨壺として作られた、常滑焼の甕(かめ)の欠片がでてきました。ですから、鎌倉時代の西出城では、「墓地」になっていた可能性があります。梅瓶というのは、お墓に収められた可能性があります。建物もありませんし、そのような状態です。残念ながら、今の段階で高幹がどこに住んだのか分かりません。そういうと、皆さんの中で「お前どうだろう。いい年をして分からないじゃすまないじゃないか。」と怒られるかもしれません。
これはあくまでも私の推測・想像の世界なのですが、この島崎城の中で気になる所があります。この古屋曲輪(こやくるわ)という今集落があるこの辺の一帯、あるいはその下の平坦な所が多い、「大構」この辺にひょっとしたら眠っていたのではないのか?と想像しています。
当然、地形に制約を受けますから、大きければ一辺が100m程度、小さければ60m程度の範囲を囲いこんだ、何かが最初にあってのではないかと推測します。
ただ、ここで大事な事がいえるのは、この島崎城周辺において、「梅瓶(めいぴん)」という、当時の貿易で持ってきた「高級品」を持てる人物が居た、というのは確実だと思います。⇒つづく
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