茨城県行方市(旧麻生町)の教育委員会および郷土史研究会が昭和59年に発行した「麻生の文化」第17号に、古文書から見た「島崎氏の滅亡」に関しての論文が掲載されていましたので二回に分けて紹介します。
島崎氏滅亡のことども 古文書研究会 根本義三郎
■小貫大蔵は救世主?
さて、その小貫大蔵とは如何なる人物であったのだろうか?「早くから、宿敵佐竹氏と内通していて、主家を亡ぼし、己が野望を遂げた大悪党」と言われているが、果してそうであったのであろうか?
潮来町の関戸文書(関戸正蔵氏所蔵)の中に、新嶋村争論に係わって、大貫大蔵に関し、次のような記録が残っている。正保三年(1646)の文書である。
『(前略)島崎左衛門殿は、天正十九年辛卯
(1591)極月亡び、関戸玄番丞殿は、文禄三年甲午(1594)七月廿五日に亡び候へば、行方は、佐竹領となり、島崎大台の城には、小貫大蔵と云う人御座候時に、常陸下総の堺あらそい、度々出会い、嶋崎村、上嶋村、西代村斗り出来候時分、牛堀村前へ出会い度々棒打ち候事。行方は小貫大蔵殿の指図、新嶋は西代五郎右衛門罷り出、互に争い、済みかね、双方江戸へ罷り出、常陸下総の境、利根川切りと仰せ付けられ候事。(後略)』
筆者は、関戸玄番之丞の嫡男で、一時下総に難を逃れ、その後帰参した利右衛門(幼名国松)の嫡男関戸庄左衛門である。日付は正保三年丙戌(1646)となっている。島崎氏没落後五十五年、佐竹氏移封後四十四年が経過している。
この頃、既に時代を隔てて、最早権力者としての影響が顕在していないとも思われるこの時期に、尚且、「殿」の敬称も以って語られているのである。果して是れが大悪人に対する対応であろうかと考える。
時の勢いは、佐竹の南進は必然であったろうし、弱小地方政権が、必死の努力を傾注して、難を逃れ、生き残る途を模索したであろう事は想像に難くない。
一方、佐竹方にしても「何とか戦わずして勝ち、而も一日も早く旧敵を己が陣営に引き入れる」べく、あらゆる手段を弄した事は当然であろう。斯くして暗黙の合意が働き、生臭い地下の戦略が続けられ、これらが、島崎氏の存亡に大きく係わったことは否めまい。その故にか、佐竹側は攻城に方って、窮鼠の害を除くとして囲みを解き、決戦を避けたとされている。それのみか、戦後の処理に方って、残党狩り等を行った気配すら見られない。
一方、島崎の重臣達もいち早く近郷に土着してしまい、野に伏し山に潜んで、主家の仇を報ぜんと、必死の抵抗を試みた忠臣烈士のあった話も聞かない。
主家存亡の秋、和戦両派が激しく対立して渦巻く情勢の中に、小貫大蔵は常に冷静に和睦の条件を探り、精力的に和平策の論陣を張ったに違いない。そして、不幸にして主家崩壊の現実に直面するや、いち早く時局を正しく認識して、一部の過激な行動を抑え、それ等家臣団の心身の安泰を図った救世主であったのかも知れない。そうでなければ、如何に小貫大蔵が能弁者であったとしても、幾多俊秀の重臣達を向うに廻して、長期に亘って、戦前、戦中の重大な政・戦略に参画して行く経緯には納得が得られるものではない。
小貫大蔵の、このような生ぬるい戦中、戦後の処理を見聞きするに忍びず、切歯して、ずっと後世の第三者が(或いはひょっとして、島崎氏縁りの者が、為にする読物として)、「島崎盛衰記」なる物を書き起こしたのかも知れない。そして、この物語に起伏抑揚を付けるために、小貫大蔵を大悪人に仕立て上げ、薄幸の佳人、「お里の方」等を登場させたものであろう。
■お里殿は二人?
前記の関戸如水と云うは、所謂「お里由来」及び「稲荷山の由緒」等について、次のように書き残している。
『(前略)お里殿と云うは、丹波守殿室、玄番殿、御母公、嶋崎殿の姉也。丹波殿卒去の後、稲荷山を後にかまえ、閑居屋形を立て、お里殿と号して男女数人を指添へおかれ候由。嶋崎殿、玄番殿は、佐竹の為に亡ずともいへども、お里殿は尼にておわす故にや、何の構いもなく、其後十余年を経ておわり給ふと云ふ。国松流浪の内なれば、此山屋敷は此家に帰りたる様に聞き候へども、山は長勝寺支配に成し候や、御当家御一統の後、慶安年中(1648~51)に御朱印に定ける也。されば此山を古来長勝寺寺山とはいわず、稲荷山と云い伝へたり。此稲荷は、古来関戸家の鎮守として、玄番の丞殿より宮殿・拝殿を建立して、いなり税とて田畑を附け、中田外記という禰宜を附けて、是を守護させ候。(中略)端沢重友は、慶安四年辛卯(1654)ノ春廿四才にて此家を継ぐ。玄番殿没落より五十八年目也。然るに、養母貞林は、五才にて母におくれ、七才にて父にはなれ祖母永寿尼の養育にて人となる。其間、女わらんべの取りはからいにて内証うすく、しとけなき体なれば、鎮守の修理を加へべき力もなく、大破に及ぶ。従って重友来る翌年辰(1655)ノ春、宮殿拝殿を造立する。其後二拾四年を経て延宝年中(1673~80)に、水戸の大軍源義公、御国に、弐拾八万石の内、大寺大社をば御取立て、小寺小社をことごとく破却成られ候。此宮も其列になれば是非に及ばず。其後重友は、稲荷宮を屋敷の内へ観賞して是を祭る。然るに、壱丁目弐丁目の者共は、此いなりの下に生れ、数年氏神としてあがめ奉る所の社を失い、重友方へなげくに付き、ひそかに禰宜勘三郎屋敷の内へ観賞して、いまにおいて、両町の鎮守と是を祭る。
しかりといへ共、壱丁目の者共は、右山の下に住居すれば、たとへ社はなくとも、神霊のおわしますがごとくに志をはこび、破却の節より今において、思い思いに参詣致す事も止むを得ざる事也。
綱正(如水)此家を継ぐ事。貞享元年甲子(1684)二月九日に此家に来る。然るに、お里の畑の西南へ押廻し大きなる土手形あり。畑になにて居り候へども、雨振り候へば水たまり、作毛くさり損ない、依って元禄中に、綱正多くの人足を以って、土手をくぼき所へ切り平の畑となしたり。東北の上手は長勝寺の竹やぶの内に有り。
お里より東の方を向いて町へ出る道有り。此道は、はば四五間も之有るを覚えたる人有り。養父端沢覚えでも、三間斗りも之有り候処、段々左右の畑より、けずりこかし、今は漸く一間斗り也。此土手の行当り、お里殿の泉水の跡とて、くぼき所、畑と成りてあり。(後略)』(関戸本源記)
関戸如水がこの書を書いたのは、宝永五年(1708)正月である。この時代既に、お里殿は地名として定着していたのである。
如水は「地名のお里は、お里殿跡」として筆を進めているが、「お里の方」自害については一言も書いていない。当時としては、城主の美女の自害という最もショッキングな物語である筈が、時代がより近いに拘らず、一言も出て来ないのである。哀れなる落城物語としての「お里の方」が登場してくるのは、少なくとも宝永以前でない事は明白であろう。之を要するに、所謂「お里の方」伝説は、島崎滅亡史をより劇的にするために、後世になって語られ始めた「フィクション」ではないかと、考えては如何であろうか。
若しも、「お里の方」伝説が真実であったとすれば、佐竹氏の採った戦略方針、並びに戦後処理政策にそぐわないし、何よりも、島崎氏遺臣達の「お里の方」の遺跡に対する心やりが些かでも伺われなければならないからである。百歩譲って、前記「盛衰記」に盛られたような事実があったとすれば、島崎家には、ほゞ同時代に二人の「お里殿」が居られたことになり、一人は島崎公(如水は長国公と書いている)の姉君であり、もう一人は義幹公の奥方である。前者の「お里殿」は、前記のとおり、関戸丹波守の室となり、玄番之丞の母として存命し、丹波守なき後に尼となるが、佐竹の侵攻時には尼なるが故にお構いなしの扱いを受けて余生を全うしている。後者の「お里の方」は、島崎落城のみぎり、鹿島の宮居を目指し、落ち延びんとして、敵の重囲に陥り、潮来の近郷に自害して果てるのである。
以上の考察からすれば、何れが現実味をもって迫るかは自明であるが、しかし、我々の胸中には、この哀れなる「お里の方」伝説を、単なる俗説として一概に退け得ないものがある。それには、少なくとも弱者に対する同情、非道に対する抵抗等、根強い庶民感情が籠められていて、それ等が背景となって、この伝説が生れ、流布にされたのであろうからである。
■おわりに
遂に、此物語(島崎盛衰記)の著者、書かれた年代等、分からず仕舞に終わるが、少なくとも、関戸如水翁の亡くなった寛保(1743)以前に書かれた可能性はなく、世の中が落ちついて、諸人の記憶が薄れかけた。ずっと後世になってから、ひょっとすると、明治に近い幕末の頃に書かれたものでは?と一人妄想している次第である。
それにしても、義幹公には名前が幾つもあり、討死場所も所説がある。小貫大蔵の行動は、余りにも非現実的であり、お里殿に至っては、地名を廻って二人の女性が登場すると言う。僅か四百年の歳月が、このような、地方に於ける重大事件を曖昧模糊なものとしている。何れの日か、確証を掲げて真相を証明して頂ける日を待つのみ、と思っている。考えてみれば、天正十九年という年は、佐竹氏にとって、水戸移城一年目であり、而も、各地の占領地経営に謀殺されたる筈の秋であり、わざわざ太田に人を招くというだけでも奇異に感ずるのに、義幹公の討たれた場所が、太田からも、水戸からも可なりの道程の、奥方の郷里たる上小川であり、更には又、義幹公の母公が「里見家」の出であり、奥方の名が「お里」であっては,些か話が出来過ぎていると思われるのだが・・。
いずれにせよ、冒頭の土子書簡、及び関戸如水の記録に見られる限り、島崎氏崩壊の道程には、一部首脳は別として、即戦即決の華々しさは、極めて稀で、地味で陰湿な謀略戦が、執拗に行われた、と思料されるが如何であろうか。
菲才の身をも顧みず、波乱万丈の島崎攻防史の一端に挑み、敢て巷説に対称的な考察を試みた無謀をお許し頂き、諸先生方との御教示を賜わり度く、宜しくお願い致したい。
さて、ここで末筆であるが、関戸如水によって遺された「関戸本源記」の信憑性について附記しなければなるまいと思う。
関戸如水は、前述のとおり、近世潮来村に於いて、最も信頼に足る者の一人、と考えられている人物である。彼は、多くの生証人と古文等を通じて得た情報を駆使して、此「本源記」を書き記している。此書は、関戸氏家系の記録という形は採っているが、単なる家系内の人物の描写書ではなく、彼、関係ある個個人の動静等、万般に及んで、事細かに記録されている世相書でもある。彼自身、「此書は、他の人々に見せるものにあらず」と巻尾に記しているように、此書は、一族以外の第三者に、我家、我祖を誇示するため誇大に、又は真実を曲げて書かれたものでないことは確かであろう。この書は、彼が、自己の信念と己が子孫に対する戒めとを、将来に向けて真摯に示したものと受け止められ、その内容についても、歴史的に十分評価できるものと信じている。
参考のために、その巻尾の一節を紹介して、筆を擱こうと考える。(別紙5)
『(前略)1.綱正(如水此家に来るは、貞享元年子(1684)二月九日也。しかるに、玄番殿没落は文禄三年午(1594)ノ七月也。是を考ふるに九十一年也。先づ、土子氏が一巻、養父是を伝ふるに附いては、折々、昔語りを聞き、末世の咄しのたねにも成れかしと、貞享の初め比より、所縁の人々の子孫の替りたるわけなどを書き添へて指置く物也。然れども、予、一生他見は申すに及ばず、不断の物語りにも指控へ延引致す意は、粗き世間の上を見るに、今幸イなき身がらにて、先祖の系図物語りなどする人はおかしき物也。勿論、公家殿上人の末にても落ちぶれくだりたる時は、却って、先祖の名を汚し、己が不徳をあらはす也。されば、筋なき人にても、其器量を以って高位高官にも上りたる時は、其人々の誉を云い、先祖の名を起す也。願くは、時至り、幸イ有る時節に至り、誤りて未練の振舞、先祖の家名汚すまじき事を思い出す折からの助けともなれかしと、一巻に記して、残し置く物也。
宝永五年戌子正月 日 書之
関戸理(利)左衛門綱正(花押)』
最終になりましたが、この稿を起すに方って、潮来町、関戸家の御当主、関戸正敏殿より、好意ある資料の提出を頂きましたことを、感謝して報告します。(昭和59年6月)
引用 「麻生の文化」第17号 発行 麻生町教育委員会・麻生町郷土史文化研究会
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