木曜はラノベ愛を語ります。今回は令和6年6月30日に読了し、どうしても語りたくて仕方ない作品を紹介します。
その作品は、駄犬先生の『誰が勇者を殺したか』です。
この作品、魔王と戦って勝った勇者が二度と戻らなかった…その謎を探る物語として始まります。もっとも中盤辺りで勇者の死の謎は分かるので、そこからは「勇者とは何か」を考えていく内容となります。一応、勇者が主人公っぽいのですが、謎解きをする人は別人ですし、様々な登場人物が絡んでくるので、群像劇っぽい感じもします。
この作品を読みながら私は、あまんきみこ先生の名作絵本『きつねのおきゃくさま』を思い出してしまいました。
主人公のキツネは、ヒヨコやアヒルやウサギを「太らせてから食べよう」と考え、家に招いて世話をします…が、彼らが「親切な」とか「神様みたいな」とか言ってるのを聞いて、徐々に気持ちが変化していきます。「親切な」キツネや「神様みたいな」キツネと言う「役割」を果たそう…と言う変化です。キツネは「役割」に囚われてしまった訳です。
『誰が勇者を殺したか』の勇者も同じです。自分が選んだ「勇者」と言う「役割」を果たすため、彼は尋常ではない努力をします。それは、「役割」に囚われているキツネと極めて似た姿です。つまり、彼もまた「役割」に囚われているのです。
そして、こう言った「役割」に囚われてしまうのは、人間の社会では往々にして見られる事ではないでしょうか。
以前このブログで、『くまクマ熊ベアー』と言うラノベが、私にとって別格なのは何故か…と言う事を書きました。そこに登場する、ドブ泥な性格の下衆校長は、その典型的な例ではないかと思います。自分が選んだ「校長」と言う「役割」に囚われ、「校長は、こうあるべきだ」とか「教務主任は、こうあるべきだ」と言う「べき思考」に陥っているのですから。それを他人にも押しつけてくると、ブログに書いた様な悲劇(私にとっては。第三者から見たら「喜劇」かもしれません)が発生する訳です。
もっとも、そう言っている私だって、自分の「役割」から完全に自由ではありません。「学年主任だから、ここは私が、解決のために動かなきゃならないんだろうなぁ」などと考え、積極的に、あるいは嫌々ながら動いた事もありましたから。
こうやって考えてみると、『誰が勇者を殺したか』と言う作品は、「人間の生き方」を描いた作品だと言えます。ラノベ…特に、私が愛読している転生物や悪役令嬢物ラノベは、「出来事」や「事件」を描く事が中心ですから、これは相当に異色作だと言えるでしょう。「人間の生き方」を描いていると言う点では、むしろ文学作品に近いかもしれません。
作者の駄犬先生は、(本作に限らない様ですが)本屋大賞を受賞したいと考えている様です。これだけ文学の香りを感じるラノベですから、本作が本屋大賞を受賞する事だって、十分に有り得る…いや、是非とも受賞してほしい…私の願いです。
…と言う事で、この最終段落まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。今日または明日、皆様が良い一日を過ごせるよう願ってます。