新横浜 占いの真龍堂です
全国の八幡宮を巡ります
今回は 放生津八幡宮 です
祭 神 應神天皇(品陀和気命(ほむだわけのみこと)
配 祀 仁徳天皇(大鷦鷯命(おおさざきのみこと)
嘉祥元年(848)8月に記された当宮の由緒を要約すると、
「天平18年、越中国守、大伴家持が奈呉の浦を遊船中、
にわかに風が強くなり、波濤高く船の舷に激しくうちつけた。
家持は、掌で潮水を掬い、両手を合わせてひたすらに宇佐八幡神に祈願した。
すると、たちまち順風に変わり、無事国府に帰ることができた。
そこで、家持は、天平19年8月に、本殿、拝殿、七堂伽藍を建立し、
宇佐八幡神を勧請した。・・・」というもの。
家持は、強風で船が転覆しそうになり、
命の危険にさらされたが、宇佐八幡神のご加護により助かったということが
語られている。
当時は、朝廷の宇佐八幡宮への信仰が高まっている時期である。
天平17年(745)に、聖武天皇が病気に罹られ重篤な症状に陥られた。
朝廷では、宇佐八幡宮に聖武天皇の病気平癒祈願を行った。
その甲斐あって聖武天皇の病気が快復した。
文化13年(1816)に建立された
大伴宿禰家持卿顕彰碑(おおとものすくねやかもちきようけんしようひ)による
当宮の由緒は、『天平18年8月のある夜、家持の夢に貴女が現れ、
「私を祀れば、世の中が平和になるあろう。」とのお告げがあった。
家持が貴女に名前を尋ねたところ
「私はこの地域を治める道主貴(みちぬしのむち)」と答えられたという。
このことを家持が国府の館で話したところ、
介内蔵忌寸縄麻呂(すけくらのいみきなわまろ)と
大目秦忌寸八千島(だいさかんはたのいみきやちしま)も同じ夢を見たという。
それで、天平18年8月庚寅(かのえとら)日、祠を建てて祀った。』とある。
この由緒は、当宮の建立に国府の役人達が関わっていたことを
物語っていると考えられる。
大伴家持が越中国守として赴任してきた頃、
聖武天皇の発願により東大寺の大仏建立が国家的事業となっていた。
宇佐八幡宮のご神託があり、宇佐八幡神みずから、
天神地祇を率いて大仏建立に協力するというお告げであった。
天平17年(745)には、東大寺の大仏の建立が始まった。
天平18年(746)に越中に赴任した家持の重要な任務のひとつは、
東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることであった。
正倉院に東大寺墾田地地図(とうだいじこんでんちちず)が保管されている。
24枚のうち、17枚までが越中国のものである。
現存する墾田地地図の中で越中国のものが最も多い。
万葉集によると、家持は、東大寺領の占定と開墾のようすを
視察にやってきた東大寺僧・平栄を丁重に迎え、歌を送り宴を催している。
また、越中の国師の従僧・清見をもてなす宴を催している。
家持ら国府の役人達は、東大寺の墾田地の占定や開墾に
奔走していたと考えられる。
後に、内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)は、
造東大寺司判官に任命されている。
この人事は、越中国での東大寺領の占定作業に携わった実績が
反映しているものと考えられる。
秦忌寸八千島(はたのいみきやちしま)は、秦氏の出身である。
秦氏は、内蔵氏と同様、その先祖が應神天皇の御代に
渡来してきた人々の子孫である。
当時の小目(しようさかん)は、秦忌寸石竹(はたのいみきいわたけ)であり
同じ秦氏の出身である。秦氏は、精銅の技術をもった人々であり
九州の北部に多く定住した。宇佐八幡宮の神職のひとつであった辛島氏は、
秦氏の一支族であるという。
この由緒は、本殿に収められていたものであり、
当宮の由緒とともに家持卿の功績を後世に伝えるために
石碑に刻んだと記されている。
◇所在地
富山県射水市八幡町2-2-27
◇最寄りの駅
万葉線「東新湊駅」から徒歩約5分
<放生津八幡宮 ホームページより >
https://www.houjyoudu.com/
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◇1月は
10(金) 14(火) 17(金)
21(火) 24(金) 28(火) 31(金)
11(土) 15(水) 25(土) 29(水)
☆今月は 12(日) 13(月) 19(日) 鑑定いたします
午後1時より鑑定いたします
真龍堂のHPから予約できます
空き状況を確認して予約してください
※鑑定中の場合やご予約が入っている場合もありますが、
予約システム・お問い合わせフォーム・お電話・メール
から、まずはお気軽にご連絡ください
電話に出られない時もありますが必ず折り返し連絡しております
※指定曜日(時間)以外でも可能でしたら対応させていただいております
電話 080-6597-7388
メール ma@shinryu-do.com
全国の八幡宮を巡ります
今回は 放生津八幡宮 です
祭 神 應神天皇(品陀和気命(ほむだわけのみこと)
配 祀 仁徳天皇(大鷦鷯命(おおさざきのみこと)
嘉祥元年(848)8月に記された当宮の由緒を要約すると、
「天平18年、越中国守、大伴家持が奈呉の浦を遊船中、
にわかに風が強くなり、波濤高く船の舷に激しくうちつけた。
家持は、掌で潮水を掬い、両手を合わせてひたすらに宇佐八幡神に祈願した。
すると、たちまち順風に変わり、無事国府に帰ることができた。
そこで、家持は、天平19年8月に、本殿、拝殿、七堂伽藍を建立し、
宇佐八幡神を勧請した。・・・」というもの。
家持は、強風で船が転覆しそうになり、
命の危険にさらされたが、宇佐八幡神のご加護により助かったということが
語られている。
当時は、朝廷の宇佐八幡宮への信仰が高まっている時期である。
天平17年(745)に、聖武天皇が病気に罹られ重篤な症状に陥られた。
朝廷では、宇佐八幡宮に聖武天皇の病気平癒祈願を行った。
その甲斐あって聖武天皇の病気が快復した。
文化13年(1816)に建立された
大伴宿禰家持卿顕彰碑(おおとものすくねやかもちきようけんしようひ)による
当宮の由緒は、『天平18年8月のある夜、家持の夢に貴女が現れ、
「私を祀れば、世の中が平和になるあろう。」とのお告げがあった。
家持が貴女に名前を尋ねたところ
「私はこの地域を治める道主貴(みちぬしのむち)」と答えられたという。
このことを家持が国府の館で話したところ、
介内蔵忌寸縄麻呂(すけくらのいみきなわまろ)と
大目秦忌寸八千島(だいさかんはたのいみきやちしま)も同じ夢を見たという。
それで、天平18年8月庚寅(かのえとら)日、祠を建てて祀った。』とある。
この由緒は、当宮の建立に国府の役人達が関わっていたことを
物語っていると考えられる。
大伴家持が越中国守として赴任してきた頃、
聖武天皇の発願により東大寺の大仏建立が国家的事業となっていた。
宇佐八幡宮のご神託があり、宇佐八幡神みずから、
天神地祇を率いて大仏建立に協力するというお告げであった。
天平17年(745)には、東大寺の大仏の建立が始まった。
天平18年(746)に越中に赴任した家持の重要な任務のひとつは、
東大寺の寺領を占定し、開墾を進めることであった。
正倉院に東大寺墾田地地図(とうだいじこんでんちちず)が保管されている。
24枚のうち、17枚までが越中国のものである。
現存する墾田地地図の中で越中国のものが最も多い。
万葉集によると、家持は、東大寺領の占定と開墾のようすを
視察にやってきた東大寺僧・平栄を丁重に迎え、歌を送り宴を催している。
また、越中の国師の従僧・清見をもてなす宴を催している。
家持ら国府の役人達は、東大寺の墾田地の占定や開墾に
奔走していたと考えられる。
後に、内蔵忌寸縄麻呂(くらのいみきなわまろ)は、
造東大寺司判官に任命されている。
この人事は、越中国での東大寺領の占定作業に携わった実績が
反映しているものと考えられる。
秦忌寸八千島(はたのいみきやちしま)は、秦氏の出身である。
秦氏は、内蔵氏と同様、その先祖が應神天皇の御代に
渡来してきた人々の子孫である。
当時の小目(しようさかん)は、秦忌寸石竹(はたのいみきいわたけ)であり
同じ秦氏の出身である。秦氏は、精銅の技術をもった人々であり
九州の北部に多く定住した。宇佐八幡宮の神職のひとつであった辛島氏は、
秦氏の一支族であるという。
この由緒は、本殿に収められていたものであり、
当宮の由緒とともに家持卿の功績を後世に伝えるために
石碑に刻んだと記されている。
◇所在地
富山県射水市八幡町2-2-27
◇最寄りの駅
万葉線「東新湊駅」から徒歩約5分
<放生津八幡宮 ホームページより >
https://www.houjyoudu.com/
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◇1月は
10(金) 14(火) 17(金)
21(火) 24(金) 28(火) 31(金)
11(土) 15(水) 25(土) 29(水)
☆今月は 12(日) 13(月) 19(日) 鑑定いたします
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