サードウェイ(第三の道) ~白井信雄のサスティナブル・スタイル

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岡山県内の銅山:吉岡銅山の繁栄と煙害・鉱毒

2019年05月18日 | 岡山の地域のこと
●公害の原点:明治時代の鉱毒事件

 明治時代、富国強兵・殖産工業は、生産設備、兵器等の輸入によって急ぎ進められたが。その対外支払い手段として、生糸とならび銅が海外に輸出された。この世界有数の銅生産国となった日本を支えたのが、四大銅山と言われた足尾鉱山、別子銅山、日立鉱山、小坂鉱山であった。その中で最大規模の採掘を行っていたのが足尾銅山である。

 足尾銅山は1550年代に発見され、幕領として採掘された。1871年(明治4年)に古川市兵衛が経営権を持ち、新鉱脈を発見し、経営を拡大した。一方、銅精錬の排煙中の硫黄酸化物や重金属類(ヒ素・鉛・カドミウム等)を含む粉塵による大気汚染、銅山排水中の硫酸銅や重金属類・ヒ素・鉛・カドミウムによる水質汚濁が広範囲で生じた。

 大気汚染では足尾銅山周辺の数万ヘクタールの森林が荒廃し、水質汚濁は渡良瀬川流域の数万ヘクタールの農地に影響を与えた。森林の荒廃は洪水を大きなものとし、1890年、1896年、1898年の渡良瀬川大洪水は下流域の洪水被害を深刻なものとした。

 1990年に被害農民と警官隊が衝突する川俣事件が起こり、1901年には栃木県選出議員である田中正造氏は代議士を辞め、天皇直訴を企てた。この事件は、官憲による農民の強制移住、あるいは弾圧によって、決着した。

 足尾事件と同時期に、四国の別子銅山で、銅精練所からの煙による水稲や麦の被害が発生した。日立鉱山、小坂鉱山でも鉱毒事件は発生している。鉱毒事件は、当時において大きな社会問題となり、戦後に深刻化する公害問題の原点といえる。

 

●岡山の銅山ではどうだったのか

 さて、日本の銅山は四大鉱山だけではない。岡山にも地元では日本の三大銅山の一つと呼ばれる吉岡銅山がある。同銅山は、岡山県の西部、高梁川の中流部にある高梁市の成羽町吹屋地区にある。

 吉岡銅山では、他の銅山と同様の公害問題はあったのか。それを確かめるために、資料を検索してみた。西本(1986)、小西(2012)といった限れた資料に基づくが、筆者の関心事項を引用・要約する。

  • 吉岡銅山は、地区の名前から吹屋銅山とも言われる。歴史をさかのぼれば、大深銅山、石塔 銅山、関東銅山等と名前を変えている。
  • 創業時期は平安時代(807年)とも室町前期(1427年)とも言われ、定かではない。江戸時代に天領となり、全国各地の山師が請け負い、800余の坑道を掘ったと言われる(現在はその跡は壊滅している)。
  • 明治6年(1873年)に、吉岡銅山は三菱の経営となる。岩崎弥太郎は、明治3年(1870年)に海運業に進出し、次に手にした最初の金属鉱山が吉岡銅山であった。三菱は長崎の高島炭鉱、長崎造船所を手にいれ、鉱山業と造船業を基盤に財閥を形成していく。
  • 三菱は、吹矢地区に本部をおき、大資本による近代的な採掘が行われるようになった。珪藻土ダイナマイトによる火薬爆破法や洋式掘削技術により、縦坑等がつくられ、大量の採掘が可能となった。
  • 吉岡銅山では、採鉱や選鉱、試練技術の導入により、電力が必要となり、明治36年(1903年)に岡山県初の水力発電所を設置した。これにより、電気による運搬車両と鉱山内の電燈が導入された。
  • 日清・日露戦争の軍需景気により、銅生産が活発化した。輸送路として、銅山専用軌道が整備され、動力も人力から馬力に変更された。明治37年(1904年)から大正8年(1919年)のことである。
  • 生産高が拡大にするにつれ、精錬によって発生する亜硫酸ガス等の煙害が発生した。銅山側は、被害地域への補償や土地買収等を進めたが、明治30年(1897年)には煙害及び鉱毒に対する住民訴訟が起こっている。
  • 対策は、大煙突を築くものであった。精錬所より300m近く高く、1900m近く離れた山頂に、設置した高さ150尺(約45m)の大煙突は、明治31年(1989年)に完成した。しかし、煙害被害の範囲を広げる結果となった。
  • 昭和になると、鉱脈の枯渇や第一次世界大戦後の不況によって、鉱山経緯は行き詰まり、休山となった。その後、昭和17年(1935年)から終戦まで、半官半民の会社により、操業がなされ、昭和25年(1950年)にも別会社が設立されたが、昭和47年(1972年)には閉山となっている。

   概略は以上の通りである。岡山の銅山でも、足尾銅山のような煙害・鉱毒の被害が発生したのである。先日、この地を訪ねると、森林がなく、山肌がむき出しになるような足尾銅山周辺のような景色を目にすることはなかった。地元のお年寄りは、嫁入りしたときに、旧小学校の近くの山がはげ山だったが、煙害のせいだと聞いたことがあると言っていたが、そのような場所は確認できなかった。

   吉岡銅山では森林再生がされていると言えるだろうか。表土が流出するほど、被害が深刻ではなかったのだろうか。

 一方、大煙突をつくるという対策は日立銅山でも行われた。日立ではそれが成功したかのような資料があるが、吉岡銅山では失敗であったという。成否を分けた要因として、地形、設備設計の不十分さが考えらえるが、定かではない。


● 銅山の繁栄の跡:近代化の光と影を学ぶ

 吉岡銅山に関連する周辺の動きを記しておく(主に小西(2012)による)。

  • 吉岡銅山で成功を収めた三菱は、現在の広島県にある青瀧鉱山と倉敷にある帯江鉱山(銅山)にも採掘の範囲を拡大した。このうち、帯江鉱山は坂本金弥氏(のちに中国新報社を設立、紡績会社経営、代議士にもなる)に譲渡され、生産量を拡大した。その際にも、周辺の公害が深刻となり、精錬所を犬島に設けた。
  • 同様に、瀬戸内の島に設置された精錬所としては、住友財閥の経営である別子銅山の四阪島精錬所、水島沖の上水島の精錬所、香川県直島の精錬所がある。四阪島精錬所も別子銅山の煙害のために設置されたものであったが、煙が結局陸側に流れ込み、煙害対策としては不十分だったといわれる。

 吉岡銅山の跡を探しに、吹屋地区にいくと、当時の繁栄の形を残す、吹屋ふるさと村に驚かされた。赤銅色の石州瓦とベンガラ色の外観で統一された町並みは、銅山で栄えた時代の文化遺産である。

 町の塗料に使われているベンガラ(弁柄)は、銅山から産出される硫化鉄鉱を原料とした赤色の着色材である。ベンガラは、伊万里焼や九谷焼などの陶器、輪島塗等の漆器などの塗料として重宝された。近代化とは、経済成長と技術進歩により、環境と生命を損なってきた経験であると同時に、富を蓄積し、文化を発展させてきた歴史であると考えさせられる。

 

【参考文献】

 飯島伸子「環境問題の社会史」有斐閣アルマ(2004)

 宮本憲一「戦後 日本公害史論」岩波書店(2014)

 西本精治「備中吹屋 吉岡銅山資料集」(1986)

 小西伸彦「吉岡銅山の歴史と遺構の概要」『産業考古学』144号・145号(2012)

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