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平成23年12月20日。午前7時半。やまびこは、福島駅に到着した。
新幹線から降りると、体感は寒さが猛烈に感じられた。ひんやりとした構内を歩く。
歩いている脇には、立ち食い処のおそばやうどんがあり、ここで、おそばを頂くことになった。この寒い構内で、調理をするご婦人はかなりの薄着である。福島の人は、寒さに強いのだろうか。調理の際の水も、冷たいだろうと、そのご婦人が気になってしまった。彼女から、お待たせしましたという一言があり、わたしたちは温かいおそばを朝食として頂いた。
今回、募金を直接届ける事に至った前段がある。3月11日以降日本全国、日本赤十字やまたテレビでの個別の募金、さまざまなルートで善意を寄せる窓口が広告されたが、集まった善意が被災地にどのように届けられたのか、という結果はほとんど報じない。この事は以前より疑問をこころに抱いていた為、わたしは親族にご衷心も兼ねて、募金は現地へ直接届ける事を進言していた。親族は、一応耳を傾けてくれたようで、日本赤十字へそのまま渡さず、ある程度の額面に達成するまでと思い、続けながら、またきっかけでもあった被災地の子供達への思いもあり、出来れば、子供の役に立てて欲しいとも言っていた。
そんな中、相談先として、参議院議員の佐藤正久議員の事務所に白羽の矢が立った。佐藤議員は福島県のご出身であり、且つ元自衛官ともあって、これまで、被災地の情報配信は他の議員を寄せ付けない程、真摯に配信をなされていた。本当にふるさと福島を想い、動いている政治家の一人だと言える。
この佐藤正久議員の事務所を通じ、被災地の子供達のために集めた募金の寄付先の相談を行なっていた。そして、佐藤事務所から今回福島事務所の秘書のYさんに、現地をご案内してもらえる事になり、福島の地理が全く分からないだけに、親族にとって本当にありがたいお話だった。ここは地元である佐藤事務所のご厚意に甘えさせて頂き、今回の旅の目的である募金の届け先をご紹介してもらったそうだ。それは、NHKで最初に放射線量が高いと報じられてしまった聖心三育保育園だった。
そのY秘書と、福島駅西口改札前で午前9時47分に待ち合わせをしていた。朝食を摂った後少し時間を持て余すため、駅近くの喫茶店で今日の行程を話し合うことにした。わたしはこの日の午後3時40分の新幹線で帰宅するため、福島駅まで戻る一件を相談していた。Y秘書は駅まで送って頂くスケジュールを組んでいただいていたが、時間的に難しいようであれば、わたしは一人タクシーで駅まで戻るつもりでいた。
この日の行程は、福島駅を出てから、福島市内にある聖心三育保育園へ募金を届け、その後は、飯館村役場及び周辺視察、そして移動後に昼食を摂り、相馬市周辺視察、そして最後に南相馬市周辺視察後、福島駅へ戻るという内容だった。
親族は、その後福島県の温泉街である上湯温泉の宿で一泊し、翌21日に帰宅という行程であった。佐藤事務所側は、福島県の温泉街が被災によってどのような現状かを知ってほしいため、あえて入れたと言う。風評被害は何も食品だけではない。こうした観光地も含めてのものだろう。
正直タイトなスケジュールだ。車で移動しながら、メモを取り、写真を撮影しながら、福島の人の話を聞き、洞察力を駆使する。同行者だと言って、ぼーっとはしていられない。いや、出来ない。ニュースでしか知りえない情報、こことの差異は己の目で耳で確かなものとして知りたい。この意識がコーヒーを飲み、タバコを吸う短時間で強固なものになっていく事を強く感じていた。
待ち合わせの時間になった。
店を出た後、西口改札前で待つ。短く切られた白髪まじりの凛々しい男性が近づいてきた。
「○○様ですか?佐藤事務所のYと申します。この度は、わざわざ遠い所までお越しいただき、有難うございます。」そう言われ、名刺をさっと差し出された。
親族の後にわたしも挨拶をした。その後すぐにわたしの手荷物をさっと持たれ、車へと案内して下さった。機敏な動きと、まっすぐに伸びた背中がとても印象的な人だ。車の後部座席に乗ったわたしが最初に目にしたものは、運転席のメーターの上の台に置かれた線量計の機械である。この表示には、0.23マイクロシーベルトと表示されていた。
聖心三育保育園までの道のりは、福島市役所前を通過し、福島競馬場を通過し、115号線を走るルートだった。移動を始めてから、線量計はどんどん上がっていく。
駅周辺の道沿いは、比較的車も多く、また粉雪交じりの天候の中でも、人通りもあった。福島市内の様相は、被災した事をあまり感じさせない。初めて見る風景に、イメージを抱いていた風景とはどこか異なって感じられた。
福島競馬場前で信号待ちをしている時、Y秘書は「震災直後、ここの競馬場の地下に作った水の貯蔵庫がとても役に立ったんですよ。」と話された。避難場所としても利用されたそうで、水道が出ない世帯を随分と支えたようだ。巨大な競馬場が、凛とした風貌に見えてくる。同時に、馬は、大丈夫だったのだろうかとも胸に去来した。
わたしは黙って、親族とY秘書との会話を聞いていた。Y秘書もまた元自衛官だった。車の中には、日の丸のシールが貼られ、禁煙のシールも貼られていた。目配せしつつ話を聞きながら、線量計の数値の移り変わりを、後部座席でメモをしていた。競馬場を過ぎた時には、0.40マイクロシーベルトに上昇していた。
競馬場の4号線を右折し、115線に入る。聖心三育保育園は、115号線沿いに位置する。115号線は街中とは異なり、右折した瞬間から、静かな風景へと変わって行った。田畑の合間には店舗や住宅がある。そして、三角のとんがった屋根の建物へ車は入って行った。ここが、聖心三育保育園。なんと、ご立派な建物だろう。まず、最初に見た印象がとても被災した様相ではないという印象だった。
この保育園を創設した方は、クリスチャンであり、古くから地元福島で、幼児教育と老人介護を積極的に先駆けて行なった方と説明を受けた。聖心三育保育園もまた、子供達にはキリスト教を主体に教えを行なっている。民間が運営している保育園は、こうしたキリスト教や仏教などの宗教を主体とした教えを軸に子供を預かる施設がたくさんある。こころを養う上で、軸となるもの、それがある保育園である。
わたしは、保育園や幼稚園は自分の経験以外の情報をあまり持っていないため、昨今の子供を預かる環境がどんなものか知らない。好ましくない情報はよく耳に入ってくるが、それらも環境によって、また保育される方によって大きく異なるのだろうと想像していた。
被災地の保育園という歪んだ見方ではなく、この点は、まっすぐに接し、まっすぐに感じたいと想い、車を降りた。
玄関ドアが開くと、保育士の方が3名並び、丁寧に出迎えて下さった。
(つづく)