玄関先で保育士の方々に出迎えられた後、ドアの向こう側から一人の女性がやってきた。
「遠いところ、本当に有難うございます。本当に、よくおいで下さいました。」そう言われ、深々とお辞儀をされた。園長先生である。玄関で迎えられたわたしたちは、ホール内に設置された円卓のテーブルにある椅子に座らせていただいた。わたしの真向かいには、園長先生が座られ、左には親族、右にはY秘書が座られた。
事務室から保育士の女性がお盆を持ち、テーブルの上にお盆ごと手際よく置かれた。そこには和菓子とお茶、そして「ようこそ、いらっしゃいました」と園児が書いた折り紙で小さなクリスマスツリーを用いた工作が添えられていた。わたしは、それを見た瞬間、ぐっと来てしまった。
「すみません、手作りのこれ、お写真撮らせてもらっても宜しいでしょうか?」
「あ、これですか?どうぞ。」
「ステキな演出ですね。」
「私共はいつもこうしてお越しになられた方にお茶をお出しする時、ちょっとした手作りのものを添えているんです。季節に応じて、例えば春だったら桜とか・・・。」
「素晴らしいですね。」
人を招く側のささやかなる演出。わたしはこうしたささやかなものに弱い。負担にならない何気ない心配りに、感銘を受けていた。
園長先生へは、募金の事はすでに佐藤事務所より連絡を頂いていたため、わざわざ来て下さった事への謝意を、子供達から伝えたいと申し出があった。どうやら寄付金の授受の後、クリスマス行事にちなんだキリスト誕生の劇と歌を披露するとの事だった。壁の向こう側には、園児達が待機をしながら、まだ練習をしている様子だった。
この間、園長先生が衝撃的な話を何気なく話し始めた。
この聖心三育保育園では、65名の園児を被災前には預かっていたが、今は45名に減った事。保育園は、お母さんが働いている人が多いので、避難しなくても避難できない保護者が多いが、同系列の幼稚園では震災によって、4分の1に減り、運営そのものも危機を迎えているそうだ。
今、被災地では、子供を想い福島を離れ、夫婦別々に避難している方々に、離婚が増えていると言う。一人目を預け、二人目を出産したお母さんは、保育園に乳児に母乳をやってもいいのか不安があるそうだ。この保育園は、福島県産の食材は一切使用していないとの事で、園児を想い、母親の不安払拭のための手立てとして早い段階で切り替えたそうだ。しかし、粉ミルクからセシウムが微量に出たらしく、この一件で打つ手立てを苦慮している事を打ち明けられた。
また、園長先生は、NHKのニュースで福島市内で最初に自分の保育園の放射線量が最も高い保育園と報道され、事実関係をニュースで知り衝撃を受けたとも話された。報道の在り方に対しても随分と憤っていらっしゃった。
現在では、放射線量は低くなったものの、それでも園児達が外で遊べる時間は1日のうち、たった15分に留めているそうだ。園児達の体力が他の地域の園児より、数段に落ちているという。Y秘書は、この一件で佐藤議員が、外でも走ったり遊べる巨大な屋外テントを被災地の全幼稚園・保育園へ国が提供するよう、政府に掛け合っているそうだ。その後、Y秘書は押し殺すような声で、「原発事故さえなければ・・・津波だけの被害なら、もっと早く復興できていたのですが。」と仰った。復興への遅れが悔やまれる重たい言葉であった。
最後に、園長先生とY秘書が口を揃えてこう告げた。
先日、政府は原発事故は終息に向かっていると報じたが、どこがだ!と言いたい。何も終息などしていない、福島県民全員が、この報道に対し、本当に怒っていると。
わたしは、お茶を頂き、待っている時間に、ニュースでは知りえなかった被災地の真の声に触れている。だんだんと、被災地に対する手薄な民主党政権の国家の方針に憤りを抱く自分に気づいていた。我慢ならず、思わず膝のスカートをギュっと握ってしまった。
「ご準備が出来ましたので。どうぞ。」
一人の保育士の方が、お声を掛けて下さった。園長先生は席を立ち、わたしたちに向かって、後でご案内しますので、中に入って下さいと告げられ、室内へと入っていった。
その後すぐに、名前が呼ばれ、親族が室内へと入って行った。同行者のわたしも同じように案内され、その後ろをお辞儀をしながら子供達に挨拶して入って行った。
マイクを握る園長先生は、園児に向かってこう挨拶を始めた。
「みんな、今日はね、遠い遠い○○県の○○市というところの○○さんが、みんなのために、一生懸命集めてくれたお金を届けに来てくれました。今から○○さんからお話があるから、ちゃんと聞きましょう。」そう紹介をされ、親族にマイクを手渡した。
「今日は、○○というところから、来ました。聖心三育保育園のみんなが頑張っているというのを聞いて、おじさん応援のために今日は新幹線に乗ってやってきました。そして、もうすぐクリスマスです。おじさんの住んでる街の人が、一生懸命頑張っているみなさんのために、是非、クリスマスプレゼントを買ってあげて下さいと言って、何百人、何千人の人たちが、ちょっとずつお金を寄せてくれました。それで今日は、園長先生に預けて、みなさんのクリスマスプレゼントを買っていただこうと思っています。クリスマスを皆さんで、きちんと迎えて、これからも園長先生の言う事、お父さんお母さんの言う事をよく聞いて、いい子に育って下さいね。分かりましたか?」
「はーーーーい。」
「育っていきます、という子は手を挙げて~。」
「はーーーーい、(大半が手を挙げる)。」
「では、これからクリスマスプレゼントを園長先生に渡します。」
こうして、寄付金を園長先生に手渡した。その後、園長先生は子供達に向かってこう言った。
「はい、みなさん、園長先生は皆さんを代表して、受取りました。皆さんご一緒に御礼を言いましょう。」
「ありがと~ございました!(大きな声)」
こうして無事に寄付金を園長先生に手渡す事が出来、その後園児を代表して、謝意が読み上げられた。5歳児の少女である。細く、色白で、これから行なう劇の衣装を身にまとっていた。この少女は、保育士の先生から手渡されたA3サイズ程のブルーの紙で製本を開き、幼な声で伝えるメッセージを読み始めた。
「今日はお忙しい中、おいで下さいまして、ありがとうございました。
3月11日の地震は、とても怖くて、今でも覚えています。
今は見えない放射能と戦いながら、部屋の中で過ごす事が多くなりました。
お友達とのお別れも多くなりました。
お外でも、遊べなくなりました。
たくさん我慢することも多くなりましたが、みんなで頑張っています。
そして、もう二度と、災害が来ないよう願っています。
皆様から頂いた寄付金は、大切に大切に遣わせて頂きます。
私たちは、たくさんの人に守られていることを、忘れないでいたいと思います。
○○市の皆様に、どうぞ宜しくお伝え下さい。
□□□□、本当に本当にありがとうございました。
学校法人三育学園 聖心三育保育園 園児代表 △△△△」
だめ。
「たくさん我慢することも多くなりましたが、みんなで頑張っています。」
「私たちは、たくさんの人に守られていることを、忘れないでいたいと思います。」
我慢に耐え頑張っていくという気持ちと、支えられている事を忘れないとこころを伝える園児。
ああ、我慢していたものが一気に涙で溢れてしまった。
この5歳児の背中から、我慢を想像し、この子供を育てている母親や父親を想像し、そしてその地域をも想像出来る重たい言葉であった。辛かった日々の長さがそこに感じられた。
親族も、我慢できなかったようで、ほろっと涙を流している。
震災を体験した子供から、「たくさん我慢することも多くなりましたが、みんなで頑張っています。」と告げられれば、被災地以外の大人は、どう想いを受け止めればいいのだろうか。
この保育園では1歳未満の乳児も預かっているが、わたしが一番衝撃を受けたのが、被災前に0歳だった幼児が現在1歳になったぐらいだろうか。親の心理状態をもろに受けた結果、幼児の表情があまりにも無表情であった。泣く事もなく、騒ぐ事もなく、微動だにしない。
この事実は、あまりにも悲しい光景として、わたしの胸に深く深く切り刻まれた。また、1~2歳児ぐらいだろうか、3人ほどがわたしに近づき、手をギュっと握ってくるのである。子供が見知らぬ人の手を握るという心理は、愛情を欲している行為であり、また自分の事をどう思うのかという無意識の確認動作でもある。わたしは、笑みを浮かべ、しっかりとその小さな手を握り返した。
福島の保育園を訪ね、最初の強打な衝撃は、この被災した0~1歳の幼児達に触れた時だった。津波によって海岸部は破壊され、原発事故によって住むところを追われ、一方ではその地に残り、我慢しながら耐え抜いた人々が守ろうとするその着地点に、幼児の表情がある。幼児の表情が全てを集約している。
わたしは、こころの底から、子々孫々へと繋ぐ過程の試練を感じ取っていた。
(つづく)