京都の五山送り火が昨日、燃えた。被災地の薪は利用せず、地元の薪に被災地の方々の想いを薪に書き写しての点火だった。ニュースでは大文字保存会の松原会長の、無念さがこもったコメントも流れ、現地では被災地で亡くなられた方々への想いを込め、黙祷を奉げられてからの点火だったようだ。
五山送り火の最終的な被災地の薪を利用しないという結論の後、また別のところで、千葉県にある成田山新勝寺が9月の護摩木供養に、被災地の薪を使うというニュースが流れた。
■被災松、成田山新勝寺へ 犠牲者の供養に使用
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201108140158.html
http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011081401000414.html
火が消えかけた後、再び火が灯る。自然の猛威の犠牲になった方々への哀悼を込め、9月25日のおたき上げで燃やす計画を立てた。だが、16日の昼にはこれらに対し、抗議があったようだ。
■高田松原の松の護摩たき、成田山に抗議100件
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110816-OYT1T00377.htm
反対者の多くにある心には、放射性物質に対する恐怖心があるだろう。京都の五山送り火もそうだった。少しでも出たら反対、そんな事を言っていたら、本来なら病気をしてレントゲン写真もやすやすと撮れはしない。しかし、レントゲンは何の疑いもなく安易に撮る。放射能に対し、よく調べもしないで出来る根拠は何だろう。自身が助かりたいがための病気の詳細を知るためなら、微量な放射能を浴びてもよく、亡き人々の御霊に対する哀悼の火を燃やす薪の放射性物質なら反対、この差異を反対者はどう説明するのだろうか。
今回の一件を、わたしは悲しみと憤りを抱えたまま、一連の時系列にまとめ、意見を述べた。それに触れた関東在住の友人も同じ心情を抱き、保存会と京都市に対し、薪を燃やさないという結論に対し、抗議の電話をかけて下さった。五山送り火で出たという放射性物質について、詳細に調べてくれたので、そのまま引用させて頂く。
(以下引用)
▼今回の表皮検査で、1kgあたりセシウム137が588ベクレル、セシウム134が542ベクレル、合計1130ベクレル/kgの放射性セシウムがそれぞれ検出されたとのこと。
▼仮に半減期が約30年のセシウム137に比べ、より強い放射線を出す半減期約2年のセシウム134で大雑把に計算してみると(そんな人間は決していないだろうが)、100日間毎日、この表皮を100gずつ食べ続けても、総被曝量は700-800マイクロシーベールトと、まったく人体に影響のないレベルであり(生物学的半減期を考慮すれば更に安全性は高まる)、ましてや低くても100m前後(大文字山の標高は466m)の山腹で燃やされ、大気中に拡散する灰や煙に含まれる放射性物質の心配をすることは、交通事故に遭うのが恐くて、或いは雷に撃たれるのが嫌で、または隕石に当たるのが恐ろしいといった理由で一生涯外出を控える行為にも似た、実に愚かなものである。
▼今回のことを心配される方は、大気圏内核実験華やかなりし頃はもちろん、チェルノブイリ事故(当然ながら京都にも放射性物質が降下しています)の時も一切外出を控えたことだろう(これももちろん皮肉です)。
(以上終わり)
これまであえて、わたしは反対者の声に対し、意見は述べなかった。しかし、成田山への抗議に対し、やはり踏み込んで言わねばならないだろう。結局のところ、放射性物質への危惧の声とは、自分の生活圏の安全確保の保全であり、自分以外の物事に付随する当事者の心情は無関係であるという反対者のこころの模様が垣間見れる。死者を悼むという真髄も、深くご理解頂けていない様相に、同じ人間としては、哀れみの情をもって接してあげたい。
成田山新勝寺に対し、わたしは世論の見地ではなく、仏教的な見地から、今回の護摩木供養への実施をご判断いただきたいと願っている。生きている人々も大切かもしれないが、亡き人々への供養も等しく大切だという姿勢を、貫いて頂きたい。
五山送り火の最終的な被災地の薪を利用しないという結論の後、また別のところで、千葉県にある成田山新勝寺が9月の護摩木供養に、被災地の薪を使うというニュースが流れた。
■被災松、成田山新勝寺へ 犠牲者の供養に使用
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp201108140158.html
http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011081401000414.html
火が消えかけた後、再び火が灯る。自然の猛威の犠牲になった方々への哀悼を込め、9月25日のおたき上げで燃やす計画を立てた。だが、16日の昼にはこれらに対し、抗議があったようだ。
■高田松原の松の護摩たき、成田山に抗議100件
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20110816-OYT1T00377.htm
反対者の多くにある心には、放射性物質に対する恐怖心があるだろう。京都の五山送り火もそうだった。少しでも出たら反対、そんな事を言っていたら、本来なら病気をしてレントゲン写真もやすやすと撮れはしない。しかし、レントゲンは何の疑いもなく安易に撮る。放射能に対し、よく調べもしないで出来る根拠は何だろう。自身が助かりたいがための病気の詳細を知るためなら、微量な放射能を浴びてもよく、亡き人々の御霊に対する哀悼の火を燃やす薪の放射性物質なら反対、この差異を反対者はどう説明するのだろうか。
今回の一件を、わたしは悲しみと憤りを抱えたまま、一連の時系列にまとめ、意見を述べた。それに触れた関東在住の友人も同じ心情を抱き、保存会と京都市に対し、薪を燃やさないという結論に対し、抗議の電話をかけて下さった。五山送り火で出たという放射性物質について、詳細に調べてくれたので、そのまま引用させて頂く。
(以下引用)
▼今回の表皮検査で、1kgあたりセシウム137が588ベクレル、セシウム134が542ベクレル、合計1130ベクレル/kgの放射性セシウムがそれぞれ検出されたとのこと。
▼仮に半減期が約30年のセシウム137に比べ、より強い放射線を出す半減期約2年のセシウム134で大雑把に計算してみると(そんな人間は決していないだろうが)、100日間毎日、この表皮を100gずつ食べ続けても、総被曝量は700-800マイクロシーベールトと、まったく人体に影響のないレベルであり(生物学的半減期を考慮すれば更に安全性は高まる)、ましてや低くても100m前後(大文字山の標高は466m)の山腹で燃やされ、大気中に拡散する灰や煙に含まれる放射性物質の心配をすることは、交通事故に遭うのが恐くて、或いは雷に撃たれるのが嫌で、または隕石に当たるのが恐ろしいといった理由で一生涯外出を控える行為にも似た、実に愚かなものである。
▼今回のことを心配される方は、大気圏内核実験華やかなりし頃はもちろん、チェルノブイリ事故(当然ながら京都にも放射性物質が降下しています)の時も一切外出を控えたことだろう(これももちろん皮肉です)。
(以上終わり)
これまであえて、わたしは反対者の声に対し、意見は述べなかった。しかし、成田山への抗議に対し、やはり踏み込んで言わねばならないだろう。結局のところ、放射性物質への危惧の声とは、自分の生活圏の安全確保の保全であり、自分以外の物事に付随する当事者の心情は無関係であるという反対者のこころの模様が垣間見れる。死者を悼むという真髄も、深くご理解頂けていない様相に、同じ人間としては、哀れみの情をもって接してあげたい。
成田山新勝寺に対し、わたしは世論の見地ではなく、仏教的な見地から、今回の護摩木供養への実施をご判断いただきたいと願っている。生きている人々も大切かもしれないが、亡き人々への供養も等しく大切だという姿勢を、貫いて頂きたい。