福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2011.11.3(木) 神戸福原遷都の址を行く

2011-12-08 | 旅行記

福原遷都に関係深いといわれている神戸市兵庫区の能福寺、

平清盛塚などの地を巡った。

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天台宗宝積山・能福寺   神戸市兵庫区北逆瀬川町

延暦二十四年(805)、最澄(伝教大師)により能福護国密寺と

して創建された我国初の密教教化霊場と伝えられる。

境内に像高11m、台座を含めて18mの兵庫大仏がある。奈良、

鎌倉とともに日本三大仏とか。

治承四年(1180)の福原遷都に先立ち、平家一門の祈願所と

して大伽藍が創られ八棟寺と呼ばれたという。境内には平清盛

廟が創られているとのこと。

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清盛塚・十三重の塔  高さ約8.5m  神戸市兵庫区切戸町

兵庫運河に架かる清盛橋の袂に位置する。

承安二年(1172)三月、清盛、摂津和田で千僧持経者供養・

万燈会を催し、西行、清盛の招きで参加し作歌と。

   消えぬべき法(のり)の光のともし火を

      かかぐるわたのとまりなりけり      西行

この九年後の治承五年(1181)に清盛没。その四年後の

文治元年(1185)三月、平家壇ノ浦で滅亡と。

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福原宮伝承地   神戸市兵庫区中之島2丁目

兵庫運河に架かる清盛橋の袂に位置する。清盛塚はこの左側。

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兵庫港築地町から川重を望む

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兵庫港築地町から川重を望む

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兵庫港築地町からポートアイランドを望む

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兵庫港築地町から神戸空港を望む

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川重の事務所前に並ぶ新旧こだま号

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新電車製造中

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新電車製造中


2011.11.3(木) 神戸を訪ねる

2011-12-07 | 旅行記

南紀・白浜、熊野古道の旅も終わり、会社生活の第一歩を踏んだ

神戸を観光した。

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神戸三ノ宮の宿から眼下のJR三ノ宮駅前の花壇を見る

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神戸元町アーケード

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市章山、錨山の裾近くの諏訪山展望台から神戸の西方を見る。

右奥が高取山。 中央左の緑地は大倉山公園で、その辺りから

海にかけての一帯が摂津国・和田といわれたところらしい。

(今の神戸市兵庫区南部から長田区にまたがる一帯)

また摂津国・福原は兵庫区北部で大倉山公園の辺りという。

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諏訪山展望台から神戸港を見る

万葉集に神戸港が詠まれた歌が載っている。

   濱淸く浦うるはしみ神代より

     千船(ちふね)の泊(は)つる大和田(おおわだ)の濱

          田邊福麿   万葉集巻六ー1062

岩波の日本古典文学大系によれば

大和田の浜ー神戸市兵庫区和田崎町付近の浜

大意ー浜の景色が清く、浦の風景が立派なので、神代から

多くの舟が停泊する大和田の浜である。

田辺福麿ー天平二十年(784)春、左大臣橘諸兄の使者として

越中守大伴家持のもとに行ったこと、当時造酒司の令使(大初

位上相当官)だったことのほかは不明。

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諏訪山展望台から三ノ宮方面を望む

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湊川神社


2011.11.2(水) 熊野古道中辺路を行く

2011-12-04 | 旅行記

会社OB会の2日目は熊野古道中辺路を実感しようと、

国道311号線をドライブした。

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道の駅熊野古道中辺路の前の熊野古道牛馬童子への道

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熊野古道牛馬童子への道から道の駅熊野古道中辺路を見る

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熊野古道箸折峠牛馬童子像への道

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滝尻王子前の熊野古道館から冨田川を見る

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瀧尻王子社

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瀧尻王子社の熊野参詣道・中辺路の案内板

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瀧尻王子社に建つ後鳥羽上皇歌碑

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瀧尻王子社に建つ後鳥羽上皇歌碑

   おもひやるかものうはげのいかならむ

     しもさへわたる山河の水

     (後鳥羽上皇 山河の水鳥の歌)

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後鳥羽上皇歌碑案内石板

   おもひやるかものうはげのいかならむ

     しもさへわたる山河の水

     (後鳥羽上皇 山河の水鳥の歌)

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瀧尻王子社から熊野古道館と冨田川に架かる滝尻橋を見る


2011.11.1(火) 南紀白浜に遊ぶ

2011-12-03 | 旅行記

会社OB会に出席するため、山陽新幹線新大阪を経由し、東海道

本線、梅田貨物線(大阪駅は通らない)、阪和本線、紀勢本線を通

りJR白浜駅に着いた。

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JR白浜駅の特急くろしお号(通称パンダ列車)

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JR白浜駅前   歓迎ゲートが見える

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平草原(へいそうげん)展望台から北の方角に白良浜方面を見る

白良浜の向こう側の崎山は御船山(みふねやま)と言われ、熊野

三所権現を勧請した熊野三所神社が森の中にある。

御船山の向こうに見える崎山は番所ガ鼻といい、黒船を見張る

紀州藩の監視所がここにあったからだという。この番所カ鼻には

南方熊楠(みなかたくまぐす)記念館が建っている。頂上に白く

見えるのが記念館である。番所ガ鼻のつけ根付近の平地に白く

見えるのは京大白浜水族館である。

また番所ガ鼻の手前に小さく見える島は白浜のシンボルである

円月島(えんげつとう)である。

中村憲吉の紀の湯に次の歌がある。

  常盤木(ときわぎ)の忌森(ゆもり)のおくは時すぎて

    紅葉たもてる木のしづかなる    (斉明帝の御船山) 

白良浜を囲むほぼ平地に密集しているのが白浜温泉で、

画面手前の崖の斜面に密集し、黒潮を見くだしているところが

湯崎温泉である。道後や有馬とともに記紀万葉のむかしから

紀の温泉とか牟漏の温湯とかいわれて知られていたのは、

この湯崎温泉の方であるという。

中村憲吉の紀の湯に次のような歌がある。

   海きよく磐湯(いはゆ)は霊(く)しもいにしへに

      櫛とり浴みし臣(おみ)をとめども

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白浜のシンボル 円月島   手前は瀬戸の港

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番所ガ鼻の番所の址の碑  南方熊楠記念館のすぐ傍に建つ 

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昭和天皇御製碑   南方熊楠記念館のすぐ傍に建つ

   雨にけふる神島を見て紀伊の国の

      生みし南方熊楠を思ふ

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番所ガ鼻の頂上に建つ南方熊楠(みなかたくまぐす)記念館

   南方熊楠

   1867.4.15~1941.12.29

   和歌山が生んだ博物学の巨星

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南方熊楠記念館から田辺湾と熊野古道中辺路が通る山並をみる

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南方熊楠記念館から北方を望む

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南方熊楠記念館から北方を望む

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三段壁(さんだんべき)

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三段壁   映画やテレビドラマで自殺の名所として使われる所

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宿から田辺湾に入る夕日を見る

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OB会の会食風景


2009.10.24(土) 京都・北野天満宮に詣でる

2011-09-30 | 旅行記

太宰府天満宮とともに天神信仰の中心地である京都、北野天満宮に詣でた。

続いて京都に現存する最古の仏堂遺構という大報恩寺(千本釈迦堂)を訪ね、

相国寺では有名な鳴き龍を見て、その鳴き声を聞いた。

また源氏物語の執筆地で紫式部邸宅址といわれる蘆山寺を訪ねて今回の

京都旅行を終えた。

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北野天満宮楼門(南門)

北野天満宮の参道脇の駐車場から、さざれ石越しに楼門(南門)を望む

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楼門(南門)を後ろに参道脇の駐車場を見る

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北野天満宮 三光門(中門)  重文

後西天皇の宸筆という「天満宮」の勅額を掲げてある三光門。豊富な彫刻の

中に日月星があるから三光門の名があるという。

もっとも星は見当たらず「星欠けの三光門ともいわれ」北野の七不思議の

ひとつという。

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北野天満宮・三光門(中門)から後ろに絵馬所を見る

南方に見る絵馬所を左に行き、また南に行った所に楼門(南門)がある。

この配置が北野の七不思議のひとつ「筋違いの本殿」であるという。

もちろん本殿は、この写真の後方(北方)にある。

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北野天満宮 社殿(本殿)  国宝  左近の松 右近の梅

主祭神・菅原道真を祀る本殿は桃山建築の代表で、この社殿は慶長12年

(1607)、豊臣秀頼の造営になるという。

古来神社祭祀は庭上で行われて来たので壮大な殿内で祭典を執行し得る

現社殿の出現は神社建築史上画期的なものという。

八棟造と称される総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く絢爛豪華な

桃山文化を今に伝えている。

楼門(南門)をくぐった正面には地主神社があり、菅公を祀る本殿はやや西に

位置している。この地主神社は北野天満宮鎮座以前の承和3年(836)に祭ら

れており、天暦元年(947)6月9日天満宮創祀の際、地主神社の正面を避けて

建てられたためという。

「筋違いの本殿」といわれる北野の七不思議のひとつである。

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北野天満宮本殿   国宝

北野天満宮は平安時代中期、国を鎮め守る神として、多治比文子(道真の

乳母という)らによって京都北野の右近馬場に菅原道真の霊を祀ったのが

始まりとされる。

永廷元年(987)一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ

「北野天満宮天神」の神号を得たという。

文子天満宮は車で京都駅に向う途中の駅に近いところで見た。

京都市下京区間の町通花尾町下る天神町に在って祭神はもちろん

菅原道真である。

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大報恩寺(千本釈迦堂)  国宝

瑞応山と号する真言宗智山派の寺院である。承久3年(1221)藤原秀衡の

孫・義空上人が猫間中納言光隆の家卒・岸高より寄進を受けたこの地に

小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが起こりという。

当初、倶舎、天台、真言の三派の霊場として、堂塔伽藍も整い壮麗を極めた

というが、応仁の乱をはじめ、度々の災火で堂宇を焼失した。

現在唯一残る本堂(千本釈迦堂)は京都市に現存する最古の仏堂遺構という。

毎年二月にはおかめ福節分会、七月には六道まいり、十二月には大根焚きなど

多彩な行事が営まれ、その賑わいが季節の風物詩として全国にテレビ放映されている。

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相国寺(しょうこくじ)法堂  重文   京都市上京区今出川通烏丸東入

相国寺(しょうこくじ)は金閣寺、銀閣寺等の末寺を擁する臨済宗相国寺派の

大本山だそうだ。 この法堂(重文)は慶長10年(1605)豊臣秀頼が建立

したもので、桃山時代の遺構で一重裳階付入母屋造りの唐様建築の我国

最古の法堂という。

足利三代将軍義満が、後小松天皇の勅命を受け、明徳三年(1392)に、

夢想国師を勧請開山として完成したという。

その後、応仁の乱の兵火により諸堂宇は灰燼に帰したという。

後に豊臣氏の外護を受けて、慶長10年(1605)豊臣秀頼が現在の

法堂を建立し、慶長十四年には徳川家康も三門を寄進した。

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相国寺法堂

桃山時代の遺構で我国最古の法堂という。一重裳階付入母屋造りの

唐様建築で、天井の蟠龍図は狩野光信(永徳の嫡子)筆。

蟠龍図の周りを歩くと、龍の眼がついて来た。蟠龍図の下の所定の位置で

両手をたたくと、龍が鳴いた。

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相国寺方丈  法堂の北側に建つ  文化四年(1807)再建

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蘆山寺  源氏物語執筆地、紫式部邸宅址  京都市上京区寺町広小路上る

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蘆山寺   源氏物語執筆地、紫式部邸宅址

この地は紫式部の曽祖父の中納言藤原兼輔(877~933)から伯父の

為頼、父の為時へと伝えられた広い邸宅であったという。

それは鴨川の西側の堤防の西に接して営まれていたため「堤邸」と呼ばれ、

それに因んで兼輔は、「堤中納言」の名で知られていた。

紫式部は百年ほど前に兼輔が立てた旧い家で一生の大半を過ごしたと

いわれ、この邸宅で藤原宣孝との結婚生活を送り、一人娘の賢子

(かたこ・大弐三位)を育て、源氏物語を執筆したと伝わっている。


2009.10.24(土) 京都 金閣寺を巡る

2011-09-30 | 旅行記

金閣・鹿苑寺は臨済宗相国寺(しょうこくじ)派の禅寺で1994年、世界遺産に

登録された舎利殿「金閣」が特に有名なため、金閣寺と呼ばれている。

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金閣寺参道を総門に向って歩く

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鏡湖池(きょうこち)を前に金閣・鹿苑寺が映える

この地は鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第があったといわれる。室町時代に

入り、応永4年(1397)足利3代将軍義満が、山荘北山殿を造営したという。

金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土を具現したと言われ、北山文化の中心で

あった。

義満の死後、遺言通り夢想国師を開山とし、義満の法号・鹿苑院殿から二字を貰い

鹿苑寺(ろくおんじ)と名づけられたという。

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金閣・鹿苑寺

金閣寺正面の池畔から右手の路を北のほうへ向う

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金閣・鹿苑寺

舎利殿「金閣」の1層は寝殿造で法水院、2層と3層は黒漆の上から純金の箔が

張ってある。2層は武家造で潮音洞、3層は中国風の禅宗仏殿造で究竟頂(くっ

きょうちょう)と呼ばれている。

屋根は椹(さわら)の杮葺(こけらぶき)で上には鳳凰が輝く。

1層の室内左側に復元された義満像が見える。

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金閣・鹿苑寺の裏手の池泉沿いの遊路から金閣を見る

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金閣寺の裏山路にある龍門瀑(龍門の滝)

鯉が滝を登ると龍になると言われる中国の故事・登龍門に因んだ鯉魚石

(りぎょせき)が置かれている。

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金閣寺の裏山路をほぼ上りきったところにある安民澤

安民沢(あんみんたく)は昔からある池の名前で、中の島にある「白蛇の塚」が見える。

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金閣寺の裏山路を上りきったところから金閣を見る

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金閣寺の裏山路を下り切ろうとする所にある不動堂

本尊は弘法大師作と伝えられる石不動明王で、霊験あらたかな秘仏という。

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金閣寺の駐車場付近から見た左大文字山


2009.10.23(金) 京都 二条城を歩く

2011-09-30 | 旅行記

1996年(平成六年)ユネスコの世界遺産に登録され、2003年(平成十五年)に

築城400年を迎えた元離宮 二条城を歩いた。

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京都国際ホテルから西方に二条城を見る  左手に東大手門が見える

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東大手門の左脇の外堀

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二条城の入口にあたる東大手門正面

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城内から東大手門の裏面を見る

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唐門から二の丸御殿を見る

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二の丸御殿 (国宝)

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二の丸庭園

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本丸に通ずる橋と内堀

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本丸内から本丸に通ずる門を見返る

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本丸庭園  この左前方奥に天守台と天守閣があったという

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本丸御殿   現在耐震性の観点から非公開

1788年(天明8年)に大火による類焼で本丸御殿(本丸内の殿舎)をなくしたという。

現在の建物も本丸御殿といわれているが、1847年(弘化4年)に建てられた旧桂宮

御殿を1894年(明治27年)に、ここに移し建てられたものという。

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内堀から本丸の天守閣跡を見る

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清流園

清流園は、江戸初期の豪商・角倉了以の屋敷から、建物の一部と庭石約800個を

譲り受け1965年(昭和40年)新たに作ったものという。

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清流園前から南方に内堀と本丸を見る

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お城まつりが行われていた  後方の建物は二の丸御殿


2009.10.23(金) 京都 八坂の塔を行く

2011-09-30 | 旅行記

東京時代の会社OB会が京都で開かれるのにあわせて、京都に遊んだ。

今回は腰痛のために皆と行動をとることは諦めて、宴会のみの参加と

させてもらった。

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八坂の塔

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八坂の塔   霊応山法観寺五重塔   京都市東山区八坂上町

  聖徳太子創建との伝承あり。平安遷都以前からあったといわれ、朝鮮

  半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたとの説が有力という。

  治承3年(1179)火災により焼失し、源頼朝により再建されたが、その後も

  幾度か焼失しているという。

  現在の塔は室町時代の永享12年(1440)に足利義利により再建された

  ものという。

  塔高 49m 重要文化財

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八坂の塔     塔高 49m 重要文化財

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八坂の塔  塔高 49m 重要文化財

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産寧坂の坂上辺り

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推理小説の山村美沙オフィス

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方広寺の鐘  京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町  重要文化財

  方広寺は豊臣秀吉により建立された天台宗山門派の寺である。豊臣氏

  当時のものとしてこの梵鐘が残っている。 高さ4.2m 外形2.8m 

  厚さ0.27m 重さ82.7トン

  この鐘に刻まれた銘文の中のごく一部の「国家安康」、「君臣豊樂」という

  一文が徳川家康の家と康を分断し、豊家を繁栄させようとの呪詛だと

  徳川家が豊臣家に言いがかりをつけたという。これが大阪の役による

  豊臣家滅亡への一里塚であったのであろうか。

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豊国神社

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耳塚(鼻塚)       京都市東山区豊国神社門前

  豊臣秀吉の朝鮮出兵の時(文禄の役・1592~1593、慶長の役・1597

  ~1598)戦いの証として討ち取った朝鮮、明国の兵の耳や鼻をそぎとって

  持ち帰ったものを葬った塚で2万人分ともいわれている。

  この塚は慶長二年(1597)に築造され、同年京都五山の僧を集め盛大に

  施餓鬼供養が行われたという。

  どう見ても古代朝鮮の王墓をかたどったものとみた。

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祇園町南側花見小路を行く

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花見小路の一力亭の前を行く

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京都国際ホテルの前から二条城方向を見る

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京都国際ホテルの玄関前に建つ橋本左内寓居址の碑

  左内の号は景岳(けいがく)、福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、

  医学を学び藩主・松平慶永(春嶽)に認められて藩学・明道館の幹事

  となった。

  幕末の志士で安政5年(1858)2月から4月までこの地にあった福井藩邸

  に居住して、いわゆる「徳川将軍継嗣問題」に関して活躍していたという。

  江戸幕府第13代将軍徳川家定の世継ぎに関する「将軍継嗣問題」で、

  慶喜を擁立する一橋派の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)は橋本左内を

  使い、同じく一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は西郷隆盛を使って「将軍継嗣

  問題」に奔走させた。

  安政5年(1858)井伊直弼が大老に就任し安政の大獄を断行した。薩摩藩主・

  島津斉彬が急死し、西郷隆盛は京都から脱出するが鹿児島で入水自殺を計る。

  一方越前福井藩では藩主・松平慶永(春嶽)が隠居謹慎を申し付けられ、

  橋本左内は安政6年(1859)10月7日「公儀憚からざる致し方、右始末不届付」

  との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬処刑場で斬首刑に処せられたという。

  橋本左内:天保5年(1834)~安政6年(1859) 享年26

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京都国際ホテルから二条城を見る

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OB会の宴会が開かれた「白河院」  京都市左京区岡崎法勝寺町

  大正期の数奇屋建築で名匠七代目小川治兵衛(通称植治)の作庭

  になる山水庭園をもつ


2009.8.29(土) 福岡県芦屋町に遊ぶ

2011-09-30 | 旅行記

今日は、親戚から招待を受けて福岡県芦屋町に一泊し魚料理も御馳走になった。

 

    福岡県芦屋町は福岡市と北九州市の略中間に位置し、北側は響灘に面している。

 

    神功皇后の西征の時には、船で洞海湾から江川を通って芦屋に着いたといわれる。

    このことに関する地誌は貝原益軒の続筑前国風土記に詳しい。豊臣秀吉も神功皇后

    にならって肥前名護屋入りの時には江川を通って遠賀川に入り芦屋に着いている。

 

「マリンテラスあしや」から福岡県芦屋町を望む   橋は「なみかけ大橋」

 

    左から遠賀川が海に入る。その遠賀川沿いの家並が、江戸時代には芦屋千軒といわれ

    繁盛した処だ。伊万里焼などを中心とする国内交易の中継点として賑わったという。

    この芦屋千軒のなかには神功皇后を祀る岡湊神社がある。

 

航空自衛隊芦屋基地遠望

 

「マリンテラスあしや」から芦屋港を見る。  右は魚見公園

 

マリンテラスあしやにて

 

マリンテラスあしやにて


2009.6.12(金) 城下町佐伯の国木田独歩館を訪ねる

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、大分県佐伯市の国木田独歩館を訪ねた時のものである。

 

    国木田独歩は明治26年から明治27年にかけて佐伯に鶴谷学館の教師として赴任。

 

    国木田独歩館は、明治26年10月から明治27年6月末までの間、国木田独歩と

    弟収二が下宿した鶴谷学館の館長であった坂本永年邸であり、城山の麓に展開する

    城下町の一角にある。

 

    国木田独歩は主屋2階に下宿し、裏山にあたる城山(140メートル)の山上まで散歩

    することも多かったと伝えられているとか。

 

国木田独歩館入口正面の冠門

 

国木田独歩館前の武家屋敷通り      左に国木田独歩館の冠門

 

国木田独歩館前で

 

国木田独歩館前で

 

国木田独歩館玄関

 

前庭から国木田独歩館を見る

 

城山の麓にあたる地形を活かした国木田独歩館の庭園

 

国木田独歩館の庭園を見る

 

独歩と弟収二が下宿した国木田独歩館の主屋二階

 

     国木田独歩 (1871~1908)

 

        「春の鳥」、「源おぢ」、「鹿狩」など、佐伯を舞台とする作品も少なくないとか。

        上京後は従軍記者を経て雑誌編集などに従事するが、明治41年6月23日

        病没。

 

        「武蔵野」、「忘れえぬ人々」、「欺かざるの記」など、明治の文壇に輝く名作を

        数多く遺す。

 

豊後佐伯城址(鶴屋城)の三の丸櫓門(重文)   後ろは城山(140メートル)

 

    国木田独歩館は、この写真の右手の城山の麓に大きく展開する城下町の一角にある。

 

    慶長6年(1601)、秀吉子飼いの大名であった毛利高政が二万石で佐伯藩に移封

    され、築城と町作りを進め、慶長11年(1606)に完成したのが豊後佐伯城(鶴屋城)

    である。毛利高政は秀吉子飼いの大名でありながら、その大名家は綿々と引き継がれ

    明治維新まで存続したという。 


2009.6.12(金) 臼杵城址と臼杵石仏を訪ねる

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、大分県の臼杵(うすき)城址と臼杵石仏を訪ねたことである。

臼杵城址

 

臼杵城址

 

    九州の覇者、大友宗麟は永禄4年(1561)毛利元就に敗れ、本拠地の府内(大分市)

    を諦め、永禄5年(1562)府内の南の臼杵湾に浮かんでいた丹生(にぶ)島に築城した。

    

    これが臼杵城(亀城)であるという。永禄7年(1564)当時の大友宗麟の所領は153万

    石余りであったという。

 

    慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、5万石で稲葉貞通が美濃(岐阜県)郡上八幡から

    この臼杵に移封されて以来15代久通まで、明治維新までの約270年間この城を守った

    という。

 

この森とその右手一帯に臼杵石仏が鎮座まします

 

   古薗石仏大日如来像に代表される臼杵磨崖仏は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて

   彫像されたといわれる。

 

   石仏群は四群に分かれ、その数は60余体で、このうち59体が国宝に指定されている。

   

   石仏群は四群に分かれ、地名によって、ホキ石仏第一群、ホキ石仏第二群、山王山石仏、

   古園石仏となづけられている。

 

古園石仏の屋根が見える

 

ホキ石仏第二群

 

ホキ石仏第二群

 

ホキ石仏第二群

 

ホキ石仏第一群

 

ホキ石仏第一群

 

 

ホキ石仏第一群の屋根囲い

 

山王山石仏

 

山王山石仏からホキ石仏第一群の屋根囲いを見る

 

古薗石仏に至る路

 

古薗石仏

 

古薗石仏

 

古薗石仏

 

古薗石仏

 

修復前の古薗石仏の写真が掲げられていた

 

古薗石仏大日如来像

 

古薗石仏大日如来像

 

古薗石仏大日如来像

 

古薗石仏から田園を見る

 

古薗石仏から坂を下って帰路につく

 

古園石仏の森を下った所で

 

臼杵石仏土産店通り


2009.6.12(金) 大分自動車道から由布岳を見る

2011-09-30 | 旅行記

    今日の街角風景は、大分自動車道の由布岳PAから由布岳、鶴見岳、内山、硫黄山

    を見たことである。

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

       恋ひつつも 居らむとすれど 遊布麻山(ゆふまやま)

             隠れし君を 思いかねつも            読人不詳 

                                       (万葉集巻十四-3475)

       大意 : 恋い慕いながらもじっとしていようと思うが、遊布麻山(ゆふまやま)

             (由布山=由布岳)に隠れた君を思うともうどうにもならない。

                                        (佐々木均太郎氏訳)

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

由布岳PAから南の方に由布岳(1584メートル)を望む

左から内山(1275メートル)、鶴見岳(1375メートル)

内山(1275メートル)   左奥が伽藍岳(硫黄山)(1045メートル)

伽藍岳(硫黄山)(1045メートル)

別府湾SAから見た高崎山(628メートル)


2009.5.29(金) 伊万里大川内山に遊ぶ

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、佐賀県伊万里市の鍋島藩・秘窯の里といわれる大川内山に遊んだ

   ことである。

   この地は近世磁器の至宝といわれる色鍋島など鍋島藩の藩窯の伝統美と技法を今に

   伝えるという。

   鍋島藩が御用窯を有田からこの大川内山に移したのは、延宝3年(1675年)という。

佐賀県伊万里市の「大川内山」を伊万里鍋島焼会館前の駐車場から見る

佐賀県伊万里市の「大川内山」を伊万里鍋島焼会館前の駐車場から見る

伊万里大川内山の鍋島藩窯坂

伊万里鍋島焼会館内で

伊万里大川内山の入口に架かる鍋島藩窯橋


2009.4.14(火) 霧の湯布院

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、霧の湯布院盆地と霧雨に煙る別府湾と高崎山の遠望である。

霧の湯布院盆地

別府湾SAから霧雨に煙る別府湾と高崎山(628m)を遠望す

    万葉集に武市連黒人(たけちのむらじくろひと)の作として次の歌がある。     

        四極山(しはつやま) 打ち越え見れば 笠縫(かさぬい)の

            島こぎかくる 棚無(たなな)し小舟(おぶね)   万葉集巻三・272

    全意 : 四極山(高崎山)を越えて見渡すと笠縫島に漕ぎ隠れてゆく舟板もない小舟よ

                                           (佐々木均太郎氏訳)

    「四極山(しはつやま)」、「笠縫島(かさぬいじま)」の所在について、現在の学説では

    所在未詳が一般的という。

    江戸前期の国学者・契沖は参河(みかわ)説(愛知県幡豆(はつ)郡吉良町)をとって

    いる。また摂津説(大阪市住吉区)もあり、この説は賀茂真淵が発展させ、それを継い

    で本居宣長が「玉勝間」(1759年)で、摂津住吉に比定したという。

    現在では、四極山(しはつやま)は高崎山であるという説が強まっていると佐々木均太郎氏

    は述べている。    


2009.4.13(月) 湯布院に遊ぶ

2011-09-30 | 旅行記

今日の街角風景は、大分県由布市湯布院の温泉に浸かり、休養したことである。

湯布院ICの出入口のすぐ傍にある「道の駅湯布院」から見た由布岳(1584m)

        よしえやし 恋ひじとすれど 木綿間山(ゆふまやま)

             越えにし君が 思ほゆらくに      万葉集巻十二・3191 読人不詳

        由布岳(1584m)は万葉集では、木綿山(ゆふやま)、木綿間山(ゆふまやま)、

        遊布麻夜萬(ゆふまやま)と表記されている。

        木綿(ゆふ)は、楮(たく)(コウゾ)の木のことで、皮をはぎ繊維にして衣や紙の

        原料になったという。

        豊後風土記によると、「柚富(ゆふ)の郷(さと)・・・楮(たく)(コウゾ)の樹多(さは)

        に生(お)ひたり、常に楮(たく)(コウゾ)の皮を取りて、木綿(ゆふ)を造る。よりて

        柚富(ゆふ)の郷(さと)といふ」             

湯布院保養所から見た由布岳(1584m)

保養所にて

保養所にて