藪蘭(ヤブラン)はユリ科の多年草で学名はリリオベというそうだ。藪蘭(ヤブラン)の古名を山菅(やますが、やますげ)というそうだ。万葉集には菅(すが、すげ)あるいは山菅(やますが、やますげ)を詠んだ歌が14首あるという。
藪蘭(ヤブラン) 山菅(やますが、やますげ)
咲く花は移ろふ時ありあしひきの
山菅(やますが)の根し長くはありけり 万葉集巻20-4484
右の〈上の)一首は、大伴宿祢家持、物色の変化を悲しびあはれびて作れり
日本古典文学大系7(岩波)万葉集の大意と解説
大意:美しく咲く花は一時のもので散り過ぎて行く時がある。目に見えない山菅の根こそ長く保つものであるのだと思う。
解説:政変の企てに参画しなかった家持の心境を植物の変化に託した歌であろう。
万葉集の最終的な編者といわれる中納言・大伴家持は延暦4年8月28日(785.10.15)に亡くなったといわれている。その翌月、すなわち桓武天皇の長岡遷都の翌年にあたる延暦4年9月22日の夜陰に、長岡京建設の総責任者というべき造長岡宮使・藤原種継が矢を射かけられ、その翌日に死去した。藤原種継暗殺事件は桓武天皇の命を受けて、犯人がただちに検挙された。暗殺犯十数名の中に大伴竹良、大伴継人ら大伴家の者がいたため、ひと月前に亡くなっていた前の中納言・大伴家持が主犯とされた。家持は官籍除名されたうえ、遺体の埋葬も許されなかったという。藤原氏にとっては一族の長であった家持を犯罪者にすることで、政権の中枢部から大伴一族を一掃したことになった。
藤原種継暗殺事件はその後、桓武天皇の実弟・皇太弟(皇太子)・早良親王廃太子事件で、早良親王の憤死へと続き、平安遷都へとつながって行くのだ。
水引の花
さかりとて寂かに照るや水引草 渡辺 水巴