東京時代の会社OB会が京都で開かれるのにあわせて、京都に遊んだ。
今回は腰痛のために皆と行動をとることは諦めて、宴会のみの参加と
させてもらった。
八坂の塔
八坂の塔 霊応山法観寺五重塔 京都市東山区八坂上町
聖徳太子創建との伝承あり。平安遷都以前からあったといわれ、朝鮮
半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたとの説が有力という。
治承3年(1179)火災により焼失し、源頼朝により再建されたが、その後も
幾度か焼失しているという。
現在の塔は室町時代の永享12年(1440)に足利義利により再建された
ものという。
塔高 49m 重要文化財
八坂の塔 塔高 49m 重要文化財
八坂の塔 塔高 49m 重要文化財
産寧坂の坂上辺り
推理小説の山村美沙オフィス
方広寺の鐘 京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町 重要文化財
方広寺は豊臣秀吉により建立された天台宗山門派の寺である。豊臣氏
当時のものとしてこの梵鐘が残っている。 高さ4.2m 外形2.8m
厚さ0.27m 重さ82.7トン
この鐘に刻まれた銘文の中のごく一部の「国家安康」、「君臣豊樂」という
一文が徳川家康の家と康を分断し、豊家を繁栄させようとの呪詛だと
徳川家が豊臣家に言いがかりをつけたという。これが大阪の役による
豊臣家滅亡への一里塚であったのであろうか。
豊国神社
耳塚(鼻塚) 京都市東山区豊国神社門前
豊臣秀吉の朝鮮出兵の時(文禄の役・1592~1593、慶長の役・1597
~1598)戦いの証として討ち取った朝鮮、明国の兵の耳や鼻をそぎとって
持ち帰ったものを葬った塚で2万人分ともいわれている。
この塚は慶長二年(1597)に築造され、同年京都五山の僧を集め盛大に
施餓鬼供養が行われたという。
どう見ても古代朝鮮の王墓をかたどったものとみた。
祇園町南側花見小路を行く
花見小路の一力亭の前を行く
京都国際ホテルの前から二条城方向を見る
京都国際ホテルの玄関前に建つ橋本左内寓居址の碑
左内の号は景岳(けいがく)、福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、
医学を学び藩主・松平慶永(春嶽)に認められて藩学・明道館の幹事
となった。
幕末の志士で安政5年(1858)2月から4月までこの地にあった福井藩邸
に居住して、いわゆる「徳川将軍継嗣問題」に関して活躍していたという。
江戸幕府第13代将軍徳川家定の世継ぎに関する「将軍継嗣問題」で、
慶喜を擁立する一橋派の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)は橋本左内を
使い、同じく一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は西郷隆盛を使って「将軍継嗣
問題」に奔走させた。
安政5年(1858)井伊直弼が大老に就任し安政の大獄を断行した。薩摩藩主・
島津斉彬が急死し、西郷隆盛は京都から脱出するが鹿児島で入水自殺を計る。
一方越前福井藩では藩主・松平慶永(春嶽)が隠居謹慎を申し付けられ、
橋本左内は安政6年(1859)10月7日「公儀憚からざる致し方、右始末不届付」
との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬処刑場で斬首刑に処せられたという。
橋本左内:天保5年(1834)~安政6年(1859) 享年26
京都国際ホテルから二条城を見る
OB会の宴会が開かれた「白河院」 京都市左京区岡崎法勝寺町
大正期の数奇屋建築で名匠七代目小川治兵衛(通称植治)の作庭
になる山水庭園をもつ
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