福岡万葉散歩

街の様子や木々や草花を眺め乍ら、先人の俳句や和歌を織り込んで、今の季節を楽しみたい。たまには万葉散歩も楽しみたい。

2009.10.23(金) 京都 八坂の塔を行く

2011-09-30 | 旅行記

東京時代の会社OB会が京都で開かれるのにあわせて、京都に遊んだ。

今回は腰痛のために皆と行動をとることは諦めて、宴会のみの参加と

させてもらった。

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八坂の塔

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八坂の塔   霊応山法観寺五重塔   京都市東山区八坂上町

  聖徳太子創建との伝承あり。平安遷都以前からあったといわれ、朝鮮

  半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたとの説が有力という。

  治承3年(1179)火災により焼失し、源頼朝により再建されたが、その後も

  幾度か焼失しているという。

  現在の塔は室町時代の永享12年(1440)に足利義利により再建された

  ものという。

  塔高 49m 重要文化財

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八坂の塔     塔高 49m 重要文化財

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八坂の塔  塔高 49m 重要文化財

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産寧坂の坂上辺り

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推理小説の山村美沙オフィス

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方広寺の鐘  京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町  重要文化財

  方広寺は豊臣秀吉により建立された天台宗山門派の寺である。豊臣氏

  当時のものとしてこの梵鐘が残っている。 高さ4.2m 外形2.8m 

  厚さ0.27m 重さ82.7トン

  この鐘に刻まれた銘文の中のごく一部の「国家安康」、「君臣豊樂」という

  一文が徳川家康の家と康を分断し、豊家を繁栄させようとの呪詛だと

  徳川家が豊臣家に言いがかりをつけたという。これが大阪の役による

  豊臣家滅亡への一里塚であったのであろうか。

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豊国神社

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耳塚(鼻塚)       京都市東山区豊国神社門前

  豊臣秀吉の朝鮮出兵の時(文禄の役・1592~1593、慶長の役・1597

  ~1598)戦いの証として討ち取った朝鮮、明国の兵の耳や鼻をそぎとって

  持ち帰ったものを葬った塚で2万人分ともいわれている。

  この塚は慶長二年(1597)に築造され、同年京都五山の僧を集め盛大に

  施餓鬼供養が行われたという。

  どう見ても古代朝鮮の王墓をかたどったものとみた。

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祇園町南側花見小路を行く

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花見小路の一力亭の前を行く

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京都国際ホテルの前から二条城方向を見る

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京都国際ホテルの玄関前に建つ橋本左内寓居址の碑

  左内の号は景岳(けいがく)、福井城下に生まれ、大阪、江戸で洋学、

  医学を学び藩主・松平慶永(春嶽)に認められて藩学・明道館の幹事

  となった。

  幕末の志士で安政5年(1858)2月から4月までこの地にあった福井藩邸

  に居住して、いわゆる「徳川将軍継嗣問題」に関して活躍していたという。

  江戸幕府第13代将軍徳川家定の世継ぎに関する「将軍継嗣問題」で、

  慶喜を擁立する一橋派の越前福井藩主・松平慶永(春嶽)は橋本左内を

  使い、同じく一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は西郷隆盛を使って「将軍継嗣

  問題」に奔走させた。

  安政5年(1858)井伊直弼が大老に就任し安政の大獄を断行した。薩摩藩主・

  島津斉彬が急死し、西郷隆盛は京都から脱出するが鹿児島で入水自殺を計る。

  一方越前福井藩では藩主・松平慶永(春嶽)が隠居謹慎を申し付けられ、

  橋本左内は安政6年(1859)10月7日「公儀憚からざる致し方、右始末不届付」

  との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬処刑場で斬首刑に処せられたという。

  橋本左内:天保5年(1834)~安政6年(1859) 享年26

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京都国際ホテルから二条城を見る

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OB会の宴会が開かれた「白河院」  京都市左京区岡崎法勝寺町

  大正期の数奇屋建築で名匠七代目小川治兵衛(通称植治)の作庭

  になる山水庭園をもつ


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