9月8日(日) 岡崎城天守台石垣発掘調査現地説明会が開催されました。前日からの雨で危ぶまれましたが、天気が回復して無事開催。
岡崎城は地元にありながら、案外いい加減な知識しかないので、今回の説明会で多くの発見がありました。
岡崎城は徳川家康の関東移封で豊臣秀吉の家臣田中吉政が入部し、石垣の天守台を築いたとされています。以後江戸期を通じて幾度も修築が繰り返されましたが、天守台石垣は田中時代の古いものとされています。

今回の発掘調査は1,2,3の三ヶ所
当日配布の説明会資料に「図の転載は禁止」となっていたので、別の資料と併せて、概略図を作成しました。
今まで、西面、北面の犬走りの様子はよく知らなかったのですが、作図してみてよく分かりました。
天守北側には廊下橋が有ったのも初めて認識しました。

石垣下端、根石と整地面などを検出
よく見る石垣の下端部の胴木は発見されなかった、現在の地表面の約1mほど下に石垣の下端を確認、などの説明がありました。

礎石を2個検出
発掘調査現場は比較的小規模なものでしたが、想定外で石垣から1.2mほど離れた場所で2個の礎石を検出しました。礎石が有るということは瓦葺きの建築物が有ったことを想像させますが、今回の調査では詳細は不明とされました。

整地面上層で採取の瓦
発掘では瓦、天目茶碗、貝殻、陶器破片などが発見されました。写真の瓦の破片は織豊期の特徴を有し田中吉政時代のものの可能性があるそうですが、これを根拠に石垣が田中時代のものと結論付けるのは無理が有るような気がしました。

天守北面の犬走りから繋がる石積溝 堀の法面から堀底まで現存
今までも見えていたようですが、僕にとって今回はじめて確認した新発見の遺構です。この溝は天守北面と西面の犬走りの水受けの石積溝の水を堀に流すための溝のようです。
犬走りの役割は不明で、現在は行き止まりのスペースになっています。
田中吉政の後、元和の再建で櫓が増築された時に手が入ったようですので田中時代には犬走りはなかったのではないかと想像しました。犬走りは増築櫓との関連が考えられているようですが、明確な解釈はなされていないようです。
岡崎城は地元にありながら、案外いい加減な知識しかないので、今回の説明会で多くの発見がありました。
岡崎城は徳川家康の関東移封で豊臣秀吉の家臣田中吉政が入部し、石垣の天守台を築いたとされています。以後江戸期を通じて幾度も修築が繰り返されましたが、天守台石垣は田中時代の古いものとされています。

今回の発掘調査は1,2,3の三ヶ所
当日配布の説明会資料に「図の転載は禁止」となっていたので、別の資料と併せて、概略図を作成しました。
今まで、西面、北面の犬走りの様子はよく知らなかったのですが、作図してみてよく分かりました。
天守北側には廊下橋が有ったのも初めて認識しました。

石垣下端、根石と整地面などを検出
よく見る石垣の下端部の胴木は発見されなかった、現在の地表面の約1mほど下に石垣の下端を確認、などの説明がありました。

礎石を2個検出
発掘調査現場は比較的小規模なものでしたが、想定外で石垣から1.2mほど離れた場所で2個の礎石を検出しました。礎石が有るということは瓦葺きの建築物が有ったことを想像させますが、今回の調査では詳細は不明とされました。

整地面上層で採取の瓦
発掘では瓦、天目茶碗、貝殻、陶器破片などが発見されました。写真の瓦の破片は織豊期の特徴を有し田中吉政時代のものの可能性があるそうですが、これを根拠に石垣が田中時代のものと結論付けるのは無理が有るような気がしました。

天守北面の犬走りから繋がる石積溝 堀の法面から堀底まで現存
今までも見えていたようですが、僕にとって今回はじめて確認した新発見の遺構です。この溝は天守北面と西面の犬走りの水受けの石積溝の水を堀に流すための溝のようです。
犬走りの役割は不明で、現在は行き止まりのスペースになっています。
田中吉政の後、元和の再建で櫓が増築された時に手が入ったようですので田中時代には犬走りはなかったのではないかと想像しました。犬走りは増築櫓との関連が考えられているようですが、明確な解釈はなされていないようです。