9月17日に岐阜県可児市の金山城跡第7次調査の現地説明会が行われました。
金山城は天文六年(1537)斉藤妙春によって烏峰城として築かれ、その後度々城主が変わり金山城と称せられましたが慶長六年(1601)犬山城主小笠原吉次によって城が破却されたと伝わります。今見る金山城は破却時のものとされ、破却によって崩された石垣などが生々しく残されています。
今回の調査は、主郭部分の3つの部分について確認がされました。

主郭南側の虎口の存在の可能性のある凹みの発掘調査
主郭の南側に凹みが有り、虎口が有ったのではないかといわれていましたが・・・今回の発掘調査でそうではないことが確認されました。説明会では、なかったことが確認できたのも「発掘調査の成果」です、と説明がありました。
凹み部分は、近代のゴミ穴だったらしく、プラスチックゴミなどが埋まっていたそうです。虎口の期待は見事に裏切られました!

主郭の枡形虎口で礎石2個が検出されました
主郭の桝形虎口には川原石の礎石が4個検出されていましたが、今回新たに川原石ではない礎石2個発見されました。川原石の礎石よりも前の時代のものだそうですが、今回の検出された2個だけでは、建物などの関連は不明とのことで、今後の調査に待つ、ということだそうです。
もう1箇所、天守といわれている部分の北面での調査が行われましたが、現地で見てもよくわからない石材の検出がありました。説明を聞いても「今後の調査に待つ」と言う感じでした。

有名な中井 均先生と鈴木理文先生が説明をされましたが、今回の調査だけでは一部が分かっても、まだまだわからないことが多いという状態だと言うことでした。 今後の調査に待つ、ということですね。

金山城の麓の兼山町に「戦国山城ミュージアム」がリニューアルオープンしていたので、立ち寄りましたが、以前の歴史民俗資料館よりもスッキリして、わかりやすい展示でした。
金山城を訪れる際には、ぜひ立ち寄ってみたいスポットになっていました。
金山城は天文六年(1537)斉藤妙春によって烏峰城として築かれ、その後度々城主が変わり金山城と称せられましたが慶長六年(1601)犬山城主小笠原吉次によって城が破却されたと伝わります。今見る金山城は破却時のものとされ、破却によって崩された石垣などが生々しく残されています。
今回の調査は、主郭部分の3つの部分について確認がされました。

主郭南側の虎口の存在の可能性のある凹みの発掘調査
主郭の南側に凹みが有り、虎口が有ったのではないかといわれていましたが・・・今回の発掘調査でそうではないことが確認されました。説明会では、なかったことが確認できたのも「発掘調査の成果」です、と説明がありました。
凹み部分は、近代のゴミ穴だったらしく、プラスチックゴミなどが埋まっていたそうです。虎口の期待は見事に裏切られました!

主郭の枡形虎口で礎石2個が検出されました
主郭の桝形虎口には川原石の礎石が4個検出されていましたが、今回新たに川原石ではない礎石2個発見されました。川原石の礎石よりも前の時代のものだそうですが、今回の検出された2個だけでは、建物などの関連は不明とのことで、今後の調査に待つ、ということだそうです。
もう1箇所、天守といわれている部分の北面での調査が行われましたが、現地で見てもよくわからない石材の検出がありました。説明を聞いても「今後の調査に待つ」と言う感じでした。

有名な中井 均先生と鈴木理文先生が説明をされましたが、今回の調査だけでは一部が分かっても、まだまだわからないことが多いという状態だと言うことでした。 今後の調査に待つ、ということですね。

金山城の麓の兼山町に「戦国山城ミュージアム」がリニューアルオープンしていたので、立ち寄りましたが、以前の歴史民俗資料館よりもスッキリして、わかりやすい展示でした。
金山城を訪れる際には、ぜひ立ち寄ってみたいスポットになっていました。