中津城は大分県中津市にあります。豊臣秀吉の九州平定後、豊前六郡を与えられた領主となった黒田官兵衛は高瀬川(現中津川)に臨んだ丸山の地に、林野を切り開いて天正十六年に中津城の築城を始めたが未完成のうちに筑前に転封となった。
次に関ヶ原の戦いで戦功のあった細川忠興が入封し、忠興が小倉に居城を移すと嫡子忠利が入り慶長十二年に一応の工事が竣工した。
城下町などの一切の工事が終わったのは寛永九年(1632)になってからであった。その後小笠原氏が入封したが断絶し、奥平氏が亨保二年(1717)入封して明治まで続いた。
大河ドラマで黒田官兵衛が取り上げられて以来、もっぱら官兵衛の城として宣伝されているが、入部当時に残虐行為が有ったということで「官兵衛の名は口にするのもはばかられるものだった」と過日、東海古城研究会の九州方面の見学会で訪れた時のボランティアガイドさんの言だった。
昭和に築造された模擬天守と二重櫓 水堀とマッチして写真写りは抜群!
旧城主の奥平家が中心になって再建した中津城は「奥平家歴史資料館」として運営されている。
城内には奥平神社が祀られている
奥平貞能 信昌 家昌 が祀られている。信昌は長篠設楽原の戦いで長篠城に籠城して、武田勝頼軍の攻撃に耐え抜いて、織田徳川連合軍の勝利を呼び込んだとして、三河の地元では知られているので、中津城は官兵衛の城というよりも奥平氏の城と思えました。
水堀を天守から見下ろす 上から見てもかっこいい!
官兵衛の石垣と細川氏の石垣がくっきり見られる
写真右側が官兵衛時代、左側が細川氏の増築によるものだが、これほどハッキリ増築がわかるのも珍しいと思いました。
官兵衛時代の石垣のほうが角ばった石で積まれていますが、上流の古代寺院の石積の石を運んで使っtからだそうです。
中津川沿いからの石垣を見学。ここにも官兵衛時代の石垣が結構残っていました、中津城の見どころの一つでした。
中津では現代まで奥平氏は「殿様」と呼ばれ、家老と呼ばれる方もいたそうです。三河で奥平氏の供養が行われたときには「殿様」が臨席されていました。
次に関ヶ原の戦いで戦功のあった細川忠興が入封し、忠興が小倉に居城を移すと嫡子忠利が入り慶長十二年に一応の工事が竣工した。
城下町などの一切の工事が終わったのは寛永九年(1632)になってからであった。その後小笠原氏が入封したが断絶し、奥平氏が亨保二年(1717)入封して明治まで続いた。
大河ドラマで黒田官兵衛が取り上げられて以来、もっぱら官兵衛の城として宣伝されているが、入部当時に残虐行為が有ったということで「官兵衛の名は口にするのもはばかられるものだった」と過日、東海古城研究会の九州方面の見学会で訪れた時のボランティアガイドさんの言だった。
昭和に築造された模擬天守と二重櫓 水堀とマッチして写真写りは抜群!
旧城主の奥平家が中心になって再建した中津城は「奥平家歴史資料館」として運営されている。
城内には奥平神社が祀られている
奥平貞能 信昌 家昌 が祀られている。信昌は長篠設楽原の戦いで長篠城に籠城して、武田勝頼軍の攻撃に耐え抜いて、織田徳川連合軍の勝利を呼び込んだとして、三河の地元では知られているので、中津城は官兵衛の城というよりも奥平氏の城と思えました。
水堀を天守から見下ろす 上から見てもかっこいい!
官兵衛の石垣と細川氏の石垣がくっきり見られる
写真右側が官兵衛時代、左側が細川氏の増築によるものだが、これほどハッキリ増築がわかるのも珍しいと思いました。
官兵衛時代の石垣のほうが角ばった石で積まれていますが、上流の古代寺院の石積の石を運んで使っtからだそうです。
中津川沿いからの石垣を見学。ここにも官兵衛時代の石垣が結構残っていました、中津城の見どころの一つでした。
中津では現代まで奥平氏は「殿様」と呼ばれ、家老と呼ばれる方もいたそうです。三河で奥平氏の供養が行われたときには「殿様」が臨席されていました。