私部(きさべ)城は交野(かたの)城とも呼ばれ、大阪府交野市の交野市役所の北側に隣接してありました。
私部城の築城は南北朝期にさかのぼり、安見清則によって築城されたと伝わります。
時は流れ、織田信長が京都に入り河内方面を伺うようになると、安見氏は松永久秀などとともに信長に従うになりました。その後松永久秀が信長に背くと、私部城は久秀に攻められますが、織田軍の反撃で松永軍は退けられました。 信長の河内平定後に廃城になったとされます。
縄張図 今見るのは信長時代の遺構と思われる 図をクリックで拡大
私部城の立地は、今見るといわゆる要害の地ではなく、堀と僅かな高低差が守りの全てに見えます。往時は城の周囲を深田が取り巻いて攻めにくい状態だったのかもしれません。城の北側約100mに免除川が流ているので、往時はこのあたりまで深田が一面に広がり守りの役割を担っていたかもしれないと想像しました。
本郭、三郭の北側を見る 今は田となっている
北側の田と城の切岸の高低差は少ないので、防御性は期待できそうにありません。
城地の南西隅に残る幅広の堀跡 本丸池と呼ばれている
城地の東西と南には幅の広い堀跡が一部残っていて、今も見ることが出来ました。特に南西隅にはL字型に堀が残っているのが見どころでした。
南東部の光通寺は出郭だった
光通寺は背丈ほどの高台にあり、往時は出郭で有ったとされます。周囲は堀で囲まれていたようですが、今は確認できませんでした。
城址碑は草に埋もれて、見つけにくい状態でした。
本郭と二郭は堀で仕切られていたようで、今も畑地となって残されています。城域は私有地ですが、遺構保存に協力的な方で、この時も案内に同行してくださいました。
私部城は、訪問前に予習をして歴史との関連を考えながら見学すると一段と興味深さが増す城だと思いました。
私部城の築城は南北朝期にさかのぼり、安見清則によって築城されたと伝わります。
時は流れ、織田信長が京都に入り河内方面を伺うようになると、安見氏は松永久秀などとともに信長に従うになりました。その後松永久秀が信長に背くと、私部城は久秀に攻められますが、織田軍の反撃で松永軍は退けられました。 信長の河内平定後に廃城になったとされます。
縄張図 今見るのは信長時代の遺構と思われる 図をクリックで拡大
私部城の立地は、今見るといわゆる要害の地ではなく、堀と僅かな高低差が守りの全てに見えます。往時は城の周囲を深田が取り巻いて攻めにくい状態だったのかもしれません。城の北側約100mに免除川が流ているので、往時はこのあたりまで深田が一面に広がり守りの役割を担っていたかもしれないと想像しました。
本郭、三郭の北側を見る 今は田となっている
北側の田と城の切岸の高低差は少ないので、防御性は期待できそうにありません。
城地の南西隅に残る幅広の堀跡 本丸池と呼ばれている
城地の東西と南には幅の広い堀跡が一部残っていて、今も見ることが出来ました。特に南西隅にはL字型に堀が残っているのが見どころでした。
南東部の光通寺は出郭だった
光通寺は背丈ほどの高台にあり、往時は出郭で有ったとされます。周囲は堀で囲まれていたようですが、今は確認できませんでした。
城址碑は草に埋もれて、見つけにくい状態でした。
本郭と二郭は堀で仕切られていたようで、今も畑地となって残されています。城域は私有地ですが、遺構保存に協力的な方で、この時も案内に同行してくださいました。
私部城は、訪問前に予習をして歴史との関連を考えながら見学すると一段と興味深さが増す城だと思いました。