大野田城は愛知県新城市野田にあります。その1では 広島市立中央図書館 所蔵 浅野文庫「諸国古城之図」の「三河設楽 浄古斎」を参照しながらⅠ郭の周辺部を見学しました。その2では遺構がよく残るⅠ郭(本城)を見学します。今回の参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1997 と (2)「菅沼家譜」新城市教育委員会(1970) です。その1も参照しながらご覧ください。
大野田城 菅沼家譜(延宝五年本)所載の絵図 浄古斎城をトレースして重ね合わせる
その1 で紹介した「諸国古城之図」とは細部で違いがありますが、ほとんど同じ図になっています。
大野田城の名称は、資料(2)によると延宝五年(1677)成立の菅沼家譜所載の絵図では浄古斎城と記されていますので、往時は「浄古斎城」と呼ばれていた可能性がありそうです。本城、二之丸、三之丸、侍屋敷は絵図に記入されている名称です。 ※赤矢印は虎口、通路と思われる部分に加筆しました。
大野田城 本城(Ⅰ郭)は遺構の残りが良い
中市場池は明治になって造成した農業用のため池です。その際に本城の東側を一部を削った様ですが、城郭遺構はほとんど残されていました。
大野田城 大手道は直角に曲がって虎口に入る
大手道⑭は中市場池の造成で東側が不明瞭になっていましたが、Ⅰ郭の虎口⑫付近は明瞭に残っていました。
大野田城 Ⅰ郭 西辺土塁④ 南から
Ⅰ郭の四周は土塁が取り巻いていました。往時の土塁の高さは不明ですが、風化を差し引いても案外低い土塁だったように見えました。。
大野田城 Ⅰ郭中央部の仕切り土塁 東から
Ⅰ郭の中央部には東西方向の仕切り土塁が西辺土塁④に接続するように設けられていました。残存地形からⅠ郭内部は南側に二つ、北側に一つの曲輪に仕切られていたのかもしれないと想像しましたがどうでしょう。
大野田城 Ⅰ郭 東辺の虎口⑤ 手前に東辺土塁⑦ 奥に北辺土塁
資料(2)の絵図によると、Ⅰ郭からⅡ郭に通じる通路が二箇所あったようです。虎口⑤の通路は東側に回り込んでⅡ郭の南辺の虎口に通じていたようです。この通路は途中から曖昧になっていました。
大野田城 Ⅰ郭 北辺土塁の開口部⑩ 北下の堀切①から
資料(2)の絵図ではⅠ郭の北辺の開口部⑩は堀切①を挟んだ対岸のⅡ郭の小曲輪への通路があったように描かれていました。諸国古城之図では堀切①をまたぐ通路部分は板橋のような絵となっていました。
大野田城 Ⅱ郭 南東隅の小曲輪の残欠土塁⑨ 東端部 東から
Ⅱ郭内の南東部の小曲輪は、土塁囲みの曲輪だったようですが、残存しているのは一部でした。それでも東端部と南端部が残っていましたので、往時の位置関係をほぼ想像することが出来ました。
大野田城 堀切① 東から 左にⅠ郭 右にⅡ郭 見どころです!
大野田城のⅠ郭は周囲を堀で囲まれていた可能性がありそうに思います。この堀切①も堀切というよりも横堀と言う方が良いかもしれませんね。
大野田城 谷地形ウ 水が見える 南から 右にⅠ郭
Ⅰ郭の西側は複雑な地形がありました。谷地形ウは大きく見れば、Ⅰ郭からⅡ郭まで北に伸びていた堀の一部のようにもみえます。この部分は絵図では水堀の如くに描かれているようにも見えますので、ひょっとしたら水堀の跡かもしれないと思いました。
大野田城はⅠ郭部分だけが取り上げられることが多いのですが、絵図を参考に見学すると往時の姿がかなり想像できて楽しめましたので良かったです。