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伊勢・浄土寺城 秀吉の戸木城攻撃の付城の一つ ハチ攻撃に注意!

2021-02-06 | 歴史

浄土寺城は三重県津市安濃町浄土寺にあります。
 安濃川と穴倉川とに挟まれた場所に位置した小山に、羽柴秀吉が木造氏の戸木城攻撃の拠点として天正十二年(1584)家所氏に命じて築かせたとされます。今は主郭部に稲荷神社が祀られ、薮がひどい部分もありましたが遺構はかなり残されていました。今回の資料は (1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976 と (2)「改訂版改訂版 津の城跡50選」2016です。
 戸木城攻めの付城は浄土寺城のほか神戸、連部、小森上野の3城を設けたとされます。


浄土寺城 付近には連部城のほか今徳城、藤ヶ森城がある  戸木城は南方8kmにある
 秀吉の戸木城攻めの際に築かれてとされる付城の一つである連部城は西800mにありました。戸木城攻めの最終段階の付城とされる城塞が戸木城の近くにありますので、木造氏攻め初期段階に機能したのではないかと思いますがどうでしょう。別途見学した連部城はいかにも後方部隊の兵站地の印象でしたが浄土寺城は今徳城、藤ヶ森城などと同様の村の城が元々あったのではないかと思いました。
 ちなみに、浄土寺の地名の元となったと思われる浄土寺というお寺は集落内には現存していませんでした。
※ 今徳城は→こちら       藤ヶ森城は→こちら



浄土寺城 Ⅰ郭、Ⅱ郭、Ⅲ郭と小曲輪Ⅳ、Ⅴがある  稲荷神社参道は大手道か?
 Ⅰ郭へは稲荷神社参道から登りました。Ⅰ郭南側の法面は急角度で、城の稼働時には切岸として働いていたと言えそうでした。見学時には思いが至りませんでしたが、後で考えると大手道は別のところにあったのではないかと思いました。この点に気付かずに見学していましたので確認漏れになりました。Ⅱ郭は南辺と東辺に土塁が設けられていたのではないかと思わせる残欠土塁④が南東角に残っていました。
 Ⅲ郭は住宅地となり遺構は改変されていました。Ⅳ郭、Ⅴ郭は小さな曲輪でしたが、用途は明確にはつかめませんでした。


浄土寺城 稲荷神社の参道からⅠ郭へ登る 高低差が大きく急角度の法面は強力な切岸
 今はゆるやかなスロープに階段がついた参道がありました。大手道と思い込んで見学しましたが、切岸の働きを損ねる位置に大手道はなかったのではないかと後になって思いました。。


浄土寺城 Ⅰ郭 南辺土塁の東側① L字型に折れて北向き(社殿側)に曲がる     図2参照
 ①の地形は北側に曲がったL字型の土塁に見えましたが、資料(2)では曲がりこんだ部分は描かれていませんでした。元々の南辺土塁に開口部はなく、参道で開口したときに残土を積み上げたのかも知れないですね。


浄土寺城 Ⅰ郭 北辺土塁の開口部②  ハチに注意!
 稲荷神社の社殿裏側の北辺土塁に、開口部②がありました。ブッシュの中で見学していた時に蜂の巣に触ったらしく、羽音とともにハチの集団が攻撃してきて、急いで離れましたので詳しく見ることが出来ませんでした。開口部②から北側の法面には、道か水路の溝状地形がありましたので、大手道のヒントがこの辺りにあったかも知れません。

※ハチに刺された数ヶ所の腫れは2週間ほど引きませんでした。蜂毒のアナフィラキシーショックの話を聞いたことがあったので、心配でしたが無事でした。毎年同じ場所に巣を作ることはないかも知れませんが、見学時にはご注意を!


浄土寺城 Ⅰ郭北辺土塁東端部③と北側の切岸 東から
 薮がすごくて写真ではよくわかりませんが、Ⅰ郭北辺土塁の東端部は切り欠かれたような地形になっていました(図2 ③参照)。北側の法面は急角度で山下まで続く切岸になっていました。
 Ⅱ郭はⅠ郭から切岸で一段下がっていました。Ⅱ郭南側は改変を受けていますので、この辺りにⅠ郭の虎口があったかも知れませんが確認できませんでした。


浄土寺城 Ⅱ郭 北辺の虎口地形⑥
 Ⅱ郭の北辺には、虎口状の切れ込み⑥がありましが、かなり風化しているようで輪郭が明瞭ではありませんでした。Ⅱ郭は南辺に集落からの道がありⅡ郭への虎口があったように思いますが改変を受けているようで、往時の姿は確認できませんでした。


浄土寺城 Ⅱ郭 南東角の残欠土塁④ 南から 右下に住宅の駐車場の車が見える
 Ⅱ郭の南東角にはL字型に土塁④が残っていました。Ⅱ郭の南辺は西岸寺の裏の崖でもあるので擁壁工事でかなりの改変を受けていました。東辺は住宅地の造成で道が付けられ、曲輪の改変もありましたが、およその地形を見ることが出来ました。


浄土寺城 Ⅲ郭   北西隅の山下⑤から  右手の道は住宅地に伴う改変
 浄土寺城の北辺山下には用水路がありました。現在は堀の役割をするほどの規模ではありませんが往時はどうだったのでしょうか。Ⅲ郭の遺構は住宅建設で改変を受けていますが、曲輪の形状はほぼ残されていました。


浄土寺城 Ⅳ郭 左手に西辺土塁   南から
 Ⅳ郭はブッシュで曲輪内の細かな地形は見えませんでしたが、西辺と北辺の土塁はよく残っていました。Ⅳ郭の北辺土塁東端部付近にはⅠ郭北辺土塁の開口部②からの道または水路の溝が下ってきているようでしたがハチのため、接続状況を確認できませんでした。


浄土寺城 Ⅴ郭 低土塁がL字型に残る小さな曲輪  東上から  南辺は竪堀が切れ落ちている
Ⅴ郭はⅣ郭の西下にある小さな曲輪でした。浄土寺城のⅠ郭の南側と西側及び北側は切岸で守られていますが北西隅はゆるやかなので、Ⅴ郭とⅣ郭は北西隅の防御強化の意味合いがあったのかも知れません。

浄土寺城では、ハチ攻撃を受け落ち着いて見学できませんでしたが、後世の改変を受けながらも原型を伝える遺構が残り、有意義な見学となりました
 




 







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