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遠江・乾山屋敷 千頭峯城の居館か ミカン畑となり地形が残る

2021-02-10 | 歴史

乾山屋敷は静岡県浜松市北区三ヶ日町摩訶耶の通称乾山にあります。
 山下の摩訶耶寺、山上の千頭峯城の中間点にあり、資料によると千頭峯城の城主居館とされます。
資料作成時にはかなりの土塁が残されていたようですが、付近はミカン畑のため農道が設けられ削平されていました。それでも屋敷地の地形は概ね残っていて、原型を想像しながら見学ができました。今回の資料は『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会 1978 です。
 

乾山屋敷 周囲はミカン畑として開墾された農道が設けられた   道は千頭峯城の見学路でもある
 千頭峯城の歴史は古く南北朝期にさかのぼり戦国期まで使われたようですが、資料によれば乾山屋敷は暦応二年(1339)に千頭峯城が南朝方として落城したときに廃されたとされます。
 駐車場は摩訶耶寺の参詣者用の駐車場をお借りしましたので、摩訶耶寺にお参りしてから見学に向かいました。


乾山屋敷 南、北の屋敷地がミカン畑として残る   周辺の平場もほぼミカン畑
 静岡県CS立体図を見ると、往時の地形が蘇ります。点線は資料作成時に残っていた土塁で、各々の屋敷地の周囲には土塁が取り巻いていたようです。今はミカン畑として削平され屋敷地のヘリまで使われていました。
 資料では、図2の③辺りに枡形の地形が残っていたようですので、この見学路が往時の大手道で千頭峯城にも通じる道だったのではないかと思いました。


乾山屋敷 土壇① 往時は土塁だったかも知れない
 土壇①は道の南側に築かれています。道の北側は谷ですので、道の両側を要害で守る様になっていたのではないでしょうか。資料ではこの辺りに木戸跡があったとされますので往時は土塁状の物があったのかも知れませんが、現況は周囲を削られたように見えました。


乾山屋敷 枡形③で道は分岐する   北屋敷は一段高い     
 枡形とされる南屋敷と北屋敷の間から見ると北屋敷は一段高くなっていました。右手に南屋敷、中央に北屋敷がありました。左手は北屋敷の西辺下を通り千頭峯城方面の道になっていました。写真の直進方向に進むと北屋敷へ登る坂道がありました。往時にもあった道かどうかは確認できませんでした。


乾山屋敷 南屋敷 今はミカン畑となり土塁は見当たらない
 南屋敷の四囲にあったと思われる土塁はミカン畑となって失われたようです。方形の壇状地形が往時の屋敷地を示していました。


乾山屋敷 南曲輪  西辺の切岸 この上に土塁が築かれていたとされる 北西から
 南屋敷の土塁は失われて確認できませんでしたが、壇状の屋敷地の切岸は確認できました。壇の下は軽トラの通路になっていました。


乾山屋敷 南屋敷 南辺 西から  北屋敷の南辺も同様の地形
 写真の道状の部分付近に南屋敷の南辺土塁があったと思われますが、今はミカン畑の一部となり削平されていました。南端部はブッシュでよく見えませんが、このまま右肩下がりで法面になっていました。


乾山屋敷 北屋敷 今はミカン畑となり、土塁は失われた 東から
 北屋敷の東側はみかん畑が拡張され土塁跡の東側にゆるい傾斜のミカン畑がありました。写真右側の農道は後世の道ですが、往時の地形は不明でした。


乾山屋敷 北屋敷の東端部の土塁②  今は失われた 南から
 北屋敷の東辺土塁はミカン畑によって失われましたが、ミカン畑に道状の地形が残されていました。※図2の②参照

遠江の城跡の遺構の多くは後世の茶畑、ミカン畑として開墾され、地上の遺構が失われてしまった場合が多いのですが、地形としては残っている場合がありますので、往時の姿を想像しながら見学するのが楽しみ方の一つだと思います。乾山屋敷も資料を参考にしながら、そんな楽しみ方ができる城郭遺構でした。



 


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