鍬塚城は愛知県北設楽郡設楽町大字納庫字城山にあります。
奥三河の名倉地区は、三河奥平氏の一族が城砦ネットワークを築いて領しており、戦国期には今川、武田、織田、徳川の境目の地でした。鍬塚城は城砦ネットワークの最南端に位置し、名倉から伊那街道へ抜ける旧道を扼する役割があったと思われます。
今回は(1)過日の東海古城研究会の見学会で鍬塚城を訪れたの時の資料と (2)「名倉地区の城館 鍬塚城・寺脇城」及び見解 愛知県文化財保護指導委員 加藤博俊氏作成資料 を参考資料として出掛けました。
鍬塚城 名倉地区の城砦ネットワークの図 鍬塚城はタコウズ川に突き出した尾根に位置する
寺脇城を中心に展開した名倉奥平氏の城砦ネットワークの南端部に位置する鍬塚城はタコウズ川に突き出した尾根上にあり、タコウズ川からの比高は300m程あり南、東、北は急な斜面で、西側の尾根からの敵侵入しか考えられない立地でした。
※ 寺脇城はこちら
鍬塚城 観音様の祀られる峠道A(旧道)は、今は失われているが車の道ができるまでは主要な道だった
旧地図を見ると、名倉地区から伊那街道への最短の道Aがあり、今も峠には観音様が祀られていました。
峠には馬頭観音が祀られている場合が多いと思いますが、ここではそうではありませんでした。タコウズ川へ下る道があまりにも急だったので馬での往来が難しく、馬頭観音を祀ることがなかったのかもしれないと想像しましたが、どうでしょう。
伊那街道は三河から信濃に通じるメインの街道で、各地の勢力が往来した街道でしたから、名倉地区を守るために鍬塚城の役割は重要だったと考えられます。
観音様の峠から尾根伝いに馬場平を通り鍬塚城へ西側の細尾根から入るのが大手道だったと思います。
(1)によれば、馬場平の名称は近代以降に名倉地区では馬の生産が行われ、馬場平もそれにちなんだ名称で、鍬塚城とは直接の関連はないとのことでした。井戸洞は鍬塚城の井戸があった場所で、今も湿地帯になっています。(2)によれば「鍬塚城の落城の際に秘宝の金鶏を井戸底に投じた」という伝承があるそうですが、鍬塚城では戦いがなかったので、伝説の域を出ないようです。
鍬塚城 概略図 加藤博俊氏 作図 2003.12 を参照し概略図を作成
加藤博俊の作図は測量図に基づいた正確で詳細なものとなっており、(1)に掲載されていました(転載禁止)。
※遺構の名称は、記録にないため仮称となっていると加藤氏の記述がありました。
鍬塚城は尾根をたどって西から入るルート以外は考えられない、まさに「後堅固な城」です。①の西側は自然地形で尾根が土橋状に細くなっていました。①は小さな平場で北側は②重の竪堀、南側は竪堀が切られており、門跡とされています。
鍬塚城 虎口②付近の石積 道は虎口付近で三本に分岐している
虎口付近は複雑な構造をしていました。①から北西にまっすぐ進む道は北腰曲輪へ通じていますが、ヒョットすると、山仕事の道で城郭遺構ではない可能性がありそうでした。右に折れて本曲輪方向へ登ると北二の曲輪方向と南二の曲輪方向に城道が分岐していました。この付近では石積が、転落石を伴って見られました。
鍬塚城は他にも石積があちこちに残っていますが、残存状態はあまり良くありませんでした。
鍬塚城 西腰曲輪から大手口(主郭虎口③)に登る湾曲した道
鍬塚城の本曲輪(主郭)には虎口が二ヶ所ありました。西腰曲輪からの虎口③が大手虎口で、北側の北二の曲輪から登る虎口④が搦手口とされます。
鍬塚城 本曲輪南下の南二の曲輪 南から 奥上に本曲輪
南二の曲輪はゆるい傾斜を伴った腰曲輪でした。南側はタコウズ川まで比高300mの急斜面ですから、土塁等の防御施設は見当たりませんでした。
鍬塚城 南三の曲輪 間伐の切り捨てがあり、最近も山仕事の人が入っているのがわかる
南二の曲輪の南下には南三の曲輪がありました。曲輪の先端部に石を丸く並べた部分がありました。「井戸」と言いたい形状ですが、山仕事関連かもしれませんので、とりあえず「不明」でした。
鍬塚城 本曲輪土塁北辺の櫓台状の地形
本曲輪の西側には土塁⑤が築かれており、南北両端に櫓台状の幅広部がありました。本曲輪の東側には土塁等はなく、南側の二段の曲輪と同様に防御施設が不要だったと考えられます。
鍬塚城 虎口②から北二の曲輪へ向かう間に土塁⑥を伴った北帯曲輪が有る
鍬塚城の西側に対する備えは厳重で本曲輪の北下の北帯曲輪にも土塁が築かれていました。①の門跡の北側の二重の竪堀も含めて西側からの侵入に対する備えは何重にもなっていました。
タコウズ川沿いの道で城趾の下まで行ってみましたが、とてもこちらから登る気にはなれない急斜面が続いていました。往時の兵もタコウズ川側から攻める気にはならなかっただろうと納得しました。
城砦ネットワークを構築して守りを固めた名倉奥平氏は、戦国期に右往左往しながらも選択を誤らず、最終的には徳川に属し、出世の道を歩みました。