佐和山城は滋賀県彦根市にあります。琵琶湖東岸の松原内湖に面した独立丘にあり、古くから歴史の表舞台に登場しました。
石田三成が居城した時に、五層(三層とも)の天守が築かれたといわれます。関ヶ原合戦で西軍が敗れると佐和山城も東軍に攻められて、自焼・落城したとされます。その後徳川家康の重臣、井伊直政が入ったが、彦根城築城の前(1602年)にここで死去したと伝わります。
その後、後継ぎの井伊直継によって彦根城が築かれ1606年に移るとともに佐和山城は廃城となり徹底的に破壊されたとされます。
佐和山城 大手の案内看板 抜粋
佐和山城の城域は広いので、主要部には何度か訪れましたが、すべての遺構を見学できていません。南側の大手からの道は通行禁止になっているとのことで、北側の龍潭寺からの道で登ります。過日東海古城研究会の見学会でも訪れました。
南側の大手から佐和山城を見上げる
大手側には土塁や堀跡、侍屋敷と言われる平坦地が残っています。道も残っているようですが通行禁止でした。
大手土塁と内堀
大手土塁が部分的に残り、内堀といわれる水路は現役でした。
佐和山城 本丸 城址碑が立つ
徹底的に破壊されたといわれていますが、推定天守台、その他の遺構地形を見ることが出来ます。
本丸 北東隅の算木積み石垣の残石とボランティアガイドさん
推定天守台の北東下の法面に算木積みの大きな残石がありました。今回の見学会のガイドさんは、とても詳しい方でしたが、それよりも健脚ガイドさんでしたので参加者も遅れないように懸命に歩きました。
岩盤をくり抜いた千貫井戸
本丸の南斜面に岩盤をくり抜いた千貫井戸があり、水を湛えていました。水源は? 雨水を溜める構造でしょうか。
本丸南面の残存石垣
注意深く見ると、所々に石垣が残っていました。崩落の危険がありそうな状態でした。
危険な場所だったので、持ち出さなかった?
今回は本丸周辺を中心の内容となりましたが、まだまだ見どころは山上にたくさんありました。
佐和山城は、井伊氏が入り石田三成色を一掃するため、見せしめとして徹底的に破壊したとされますが、今回見る限りでは彦根城築城のために、ほとんどの材を持ち出したのではないかと思いました。本丸部分も土の遺構はほぼ残されているように見えました。
※彦根城の専門員さんの説明では彦根城の石垣に佐和山城の石垣が流用されている部分があるそうです。
石田三成が居城した時に、五層(三層とも)の天守が築かれたといわれます。関ヶ原合戦で西軍が敗れると佐和山城も東軍に攻められて、自焼・落城したとされます。その後徳川家康の重臣、井伊直政が入ったが、彦根城築城の前(1602年)にここで死去したと伝わります。
その後、後継ぎの井伊直継によって彦根城が築かれ1606年に移るとともに佐和山城は廃城となり徹底的に破壊されたとされます。
佐和山城 大手の案内看板 抜粋
佐和山城の城域は広いので、主要部には何度か訪れましたが、すべての遺構を見学できていません。南側の大手からの道は通行禁止になっているとのことで、北側の龍潭寺からの道で登ります。過日東海古城研究会の見学会でも訪れました。
南側の大手から佐和山城を見上げる
大手側には土塁や堀跡、侍屋敷と言われる平坦地が残っています。道も残っているようですが通行禁止でした。
大手土塁と内堀
大手土塁が部分的に残り、内堀といわれる水路は現役でした。
佐和山城 本丸 城址碑が立つ
徹底的に破壊されたといわれていますが、推定天守台、その他の遺構地形を見ることが出来ます。
本丸 北東隅の算木積み石垣の残石とボランティアガイドさん
推定天守台の北東下の法面に算木積みの大きな残石がありました。今回の見学会のガイドさんは、とても詳しい方でしたが、それよりも健脚ガイドさんでしたので参加者も遅れないように懸命に歩きました。
岩盤をくり抜いた千貫井戸
本丸の南斜面に岩盤をくり抜いた千貫井戸があり、水を湛えていました。水源は? 雨水を溜める構造でしょうか。
本丸南面の残存石垣
注意深く見ると、所々に石垣が残っていました。崩落の危険がありそうな状態でした。
危険な場所だったので、持ち出さなかった?
今回は本丸周辺を中心の内容となりましたが、まだまだ見どころは山上にたくさんありました。
佐和山城は、井伊氏が入り石田三成色を一掃するため、見せしめとして徹底的に破壊したとされますが、今回見る限りでは彦根城築城のために、ほとんどの材を持ち出したのではないかと思いました。本丸部分も土の遺構はほぼ残されているように見えました。
※彦根城の専門員さんの説明では彦根城の石垣に佐和山城の石垣が流用されている部分があるそうです。