
この島には歴史のある神社が二つあります。
隠岐は、二人の神様が開いたのだそうです。
一人の神様は、玉若酢命と呼ばれる神様で、宿泊した西郷のホテルから近いところにある「玉若酢命神社」に祀られています。

この神社は隠岐の国の総社なっており隠岐造りの本殿はこの地方最古のものだそうです。

玉若酢命神社

屋根の造りは、出雲大社と同じだと説明されました。

境内には、八百杉という大木が立っていました。

説明は、案内板を読んでください。
白爺は、若狭の小浜に住んでいた頃、八百比丘尼のお墓をお参りしていましたが、隠岐に来て因縁の杉の木を見るとは全く考えてもいませんでした。

水若酢命神社
また、もう一人の神様は、水若酢命と呼ばれる神様で約2200年前崇神天皇の時代に開基されたと伝えられる「水若酢命神社」に祀られています。
この神社は、隠岐の国の一ノ宮になっているそうです。
白爺は、「玉」「水」だけが違った二つの神社を参拝し、この二人の神様が隠岐の島をお創りになったと聞き、
”玉が男の神様・水が女の神様??”
”玉がお金・水が食べ物??”
と下賎な考えを持ってしまいました。
請う!無礼のお許しを



白爺には、どの神社を見ても同じような造りになっているので、頭の中が混乱してきましたが、これが伝統ある「隠岐造り」というのだそうです。

東京の神社では、最近見られなくなりましたが、どこの神社に行っても相撲の土俵が造られていました。
これを見ると、相撲は国技だということが判るような気がしました。

次に立ち寄った所は、隠岐国分寺です。
門前に、弘法大師の像が建っていましたが、運転手さんの説明では、ここにも弘法大師は立ち寄られたので記念に建立してある」と説明していました。

このお寺の境内には、後醍醐天皇の行在所跡が残っていました。
はてな? ”西ノ島にも後醍醐天皇の行在所跡があったがなー?”
と白爺は思い出して、運転手さんに聞いてみたら、
「歴史を紐解くと、後醍醐天皇の介添えとして隠岐に渡ってきた、三位の局(阿野廉子)が、”お産が近づいた”と言って御所を出られ、輿には局でなく天皇が隠れて脱出に成功した。
しかし、小さな船では直接本土に渡れないので、大きな船が迎えに来るまで西ノ島に隠れていた。
どちらの島に居る時でも、天皇は都を思って詩を詠み、その詩がどちらにも残っているので、我が島が・・となっているのだ。」
と教えてくれました。


行在所跡

それにしても、隠岐の島にはお寺が少ないので、不思議に思って白爺は運転手さんに話してみました。
すると運転手さんは、「隠岐の島には、”廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”が行われたのでお寺は3つしかない。その代わり各集落には必ず神社がある。」と説明してくれました。
「廃仏毀釈」??。
白爺の学のあるところをお見せしましょう。
明治2年春から夏にかけて、全国的に「廃仏毀釈」は行われた。
その起因は、1868年3月、祭政一致の方針に基づいて政府は「神祇官」を興し全国の神社に神官を配置した。
そして3月27日の太政官布告をもって「神仏判然令」を出し、仏像を神体とすることを改め、社前の仏像仏具の取り除きを命じた。
明治2年九州の久留米から真木直人知事が任命されたが、この知事が徹底的に改革を行い隠岐全島で100余の寺院を迫害し、伽藍・仏像・仏具・寺宝などの毀棄焼却がなされ、明治7年頃には隠岐の島には寺院・法灯が断たれてしまった。
ということです。
驚いたでしょう。

種を明かせば、頂戴したご朱印に付いていた、この説明書の受け売りでした。ゴメン。

続いて訪れた名所は、水若酢神社に近い「隠岐郷土館」です。
島根県では一番古い洋風木造建築で有名な建物が建っていました。
昔を偲ばせる古い農機具が沢山並べられていましたが、中には「だいはち車」や「駕籠」もありました。
少し乱雑に並んでいるかな!。
(これは独り言)

昔使っていた丸木舟を再現して、隠岐の港から鳥取の港まで冒険した人がいたようです。
そのとき使用した丸木舟と、渡った時の航海日記が、飾られていました。

この建物がある場所は、合併前は五箇村といっていたそうです。
この役場の戸籍台帳に「五箇村字竹島」と昔から話題の「竹島」は登記されているそうですから、韓国が今頃「竹島はわが領土」と領土論争を仕掛けてくるのは、海賊行為だと白爺は思いますが、皆さんはどう思いますか?
頭が燃えてきたので、ここでチョッと一服します。
次回は、隠岐の島最北端を見学して、東の海岸淵をドライブします。
隠岐は、二人の神様が開いたのだそうです。
一人の神様は、玉若酢命と呼ばれる神様で、宿泊した西郷のホテルから近いところにある「玉若酢命神社」に祀られています。


この神社は隠岐の国の総社なっており隠岐造りの本殿はこの地方最古のものだそうです。




屋根の造りは、出雲大社と同じだと説明されました。


境内には、八百杉という大木が立っていました。



白爺は、若狭の小浜に住んでいた頃、八百比丘尼のお墓をお参りしていましたが、隠岐に来て因縁の杉の木を見るとは全く考えてもいませんでした。


また、もう一人の神様は、水若酢命と呼ばれる神様で約2200年前崇神天皇の時代に開基されたと伝えられる「水若酢命神社」に祀られています。

この神社は、隠岐の国の一ノ宮になっているそうです。
白爺は、「玉」「水」だけが違った二つの神社を参拝し、この二人の神様が隠岐の島をお創りになったと聞き、
”玉が男の神様・水が女の神様??”
”玉がお金・水が食べ物??”
と下賎な考えを持ってしまいました。
請う!無礼のお許しを




白爺には、どの神社を見ても同じような造りになっているので、頭の中が混乱してきましたが、これが伝統ある「隠岐造り」というのだそうです。


東京の神社では、最近見られなくなりましたが、どこの神社に行っても相撲の土俵が造られていました。

これを見ると、相撲は国技だということが判るような気がしました。


次に立ち寄った所は、隠岐国分寺です。
門前に、弘法大師の像が建っていましたが、運転手さんの説明では、ここにも弘法大師は立ち寄られたので記念に建立してある」と説明していました。


このお寺の境内には、後醍醐天皇の行在所跡が残っていました。
はてな? ”西ノ島にも後醍醐天皇の行在所跡があったがなー?”

と白爺は思い出して、運転手さんに聞いてみたら、
「歴史を紐解くと、後醍醐天皇の介添えとして隠岐に渡ってきた、三位の局(阿野廉子)が、”お産が近づいた”と言って御所を出られ、輿には局でなく天皇が隠れて脱出に成功した。
しかし、小さな船では直接本土に渡れないので、大きな船が迎えに来るまで西ノ島に隠れていた。
どちらの島に居る時でも、天皇は都を思って詩を詠み、その詩がどちらにも残っているので、我が島が・・となっているのだ。」
と教えてくれました。





それにしても、隠岐の島にはお寺が少ないので、不思議に思って白爺は運転手さんに話してみました。
すると運転手さんは、「隠岐の島には、”廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)”が行われたのでお寺は3つしかない。その代わり各集落には必ず神社がある。」と説明してくれました。

「廃仏毀釈」??。
白爺の学のあるところをお見せしましょう。
明治2年春から夏にかけて、全国的に「廃仏毀釈」は行われた。
その起因は、1868年3月、祭政一致の方針に基づいて政府は「神祇官」を興し全国の神社に神官を配置した。
そして3月27日の太政官布告をもって「神仏判然令」を出し、仏像を神体とすることを改め、社前の仏像仏具の取り除きを命じた。
明治2年九州の久留米から真木直人知事が任命されたが、この知事が徹底的に改革を行い隠岐全島で100余の寺院を迫害し、伽藍・仏像・仏具・寺宝などの毀棄焼却がなされ、明治7年頃には隠岐の島には寺院・法灯が断たれてしまった。
ということです。


種を明かせば、頂戴したご朱印に付いていた、この説明書の受け売りでした。ゴメン。


続いて訪れた名所は、水若酢神社に近い「隠岐郷土館」です。
島根県では一番古い洋風木造建築で有名な建物が建っていました。

昔を偲ばせる古い農機具が沢山並べられていましたが、中には「だいはち車」や「駕籠」もありました。
少し乱雑に並んでいるかな!。


昔使っていた丸木舟を再現して、隠岐の港から鳥取の港まで冒険した人がいたようです。

そのとき使用した丸木舟と、渡った時の航海日記が、飾られていました。


この建物がある場所は、合併前は五箇村といっていたそうです。
この役場の戸籍台帳に「五箇村字竹島」と昔から話題の「竹島」は登記されているそうですから、韓国が今頃「竹島はわが領土」と領土論争を仕掛けてくるのは、海賊行為だと白爺は思いますが、皆さんはどう思いますか?

頭が燃えてきたので、ここでチョッと一服します。



さて、隠岐のお土産は何をもとめられたのでしょうか?
白爺は、山本水産の粒ウニが大変美味しかったので、帰宅後10本も注文しました。
(メーカー名言って御免なさい)
ところが、送られてきたところは山口県の長門市からでした。
海士島にも加工場があると書いてありますから信用しますが驚きました。
でも美味しいのは間違いありません。
また、食べてしまったら注文しようと思っています。
娘は、スルメ烏賊の麹漬が美味しいといって沢山買ってきました。
隠岐の魚は、殆ど境港の市場に水揚げされて、カンバックする聞いたので、境港で買いました。
この隠岐の島というところは、すごいところですね。
シリーズで拝見してますが、驚きと感動でいっぱいです。
白爺さんの分かりやすい説明が利いてるんですね!!
お褒め頂き有難うございます。
おじさんもいろいろと歩いていますねー。
まだ車で楽に遠出が出来るようで羨ましい!
白爺の車は、2ヶ月に1度油を飲ませてもらっているので、「少しは可愛がってよ」と言っています。
最近は、化粧も遠のいているので、秋日和が続くようになったら少し化粧してやる予定です。