『芭蕉という修羅』を読む ③
句郎 嵐山光三郎氏は『芭蕉という修羅』の中で芭蕉はやむなく延宝8年(1680)日本橋から深川の草庵に移ったということを述べている。通常述べられている点取り俳諧に嫌気がさし、純粋に文学的な理由から大都会の日本橋から片田舎の深川に居を移したと言われている主張を否定している。
華女 なぜ芭蕉は日本橋から深川に移らなければならなかった理由とは、何なのかしら。
句郎 延宝8年(1680)、徳川将軍、四代家綱が没し、五代将軍に綱吉が就任した。このことと深く関係があるということなんだ。三代将軍家光が亡くなる僅か十一歳の家綱が四代将軍に就任する。実際の幕府を支配したのは老中といった人々だった。その中にあって最終的に権力を握った者が大老酒井忠清だった。五代将軍に就任した綱吉は大老酒井忠清を免職し、酒井忠清に繋がる者たちに対する粛清を進め始めた。芭蕉の後ろ盾となり、芭蕉の江戸での安全を保障していた伊賀上野藩主藤堂高久は大老酒井忠清の娘婿であった。このことを恐れた芭蕉は俳諧師として派手な行いを慎んだ方が身のためになると判断し、人の目に立つ日本橋から片田舎の深川に居を移したのではないかというのが嵐山光三郎氏の主張のようなんだ。
華女 江戸時代は、恐ろしい社会だったのね。
句郎 派閥の争いというのは熾烈な戦いなんじゃないのかな。
華女 そうね。前回の衆議院選挙だったかしら。民主党の大阪府の候補者たちは一人も希望の党から立候補できなかったみたいよ。これ派閥の争いよね。
句郎 今は殺されることはないだろうけれどね。政治の世界は恐ろしい世界であることに変わりはないのかもしれない。
華女 芭蕉は、政治の世界とはかけ離れたところにいたにもかかわらず、綱吉の粛清を恐れた理由は何だったのかしら。
句郎 嵐山光三郎氏がはっきり述べているわけではないが、芭蕉は上水道工事の責任者を三年間していたようだからね。
華女 上水道工事の責任者だったことを恐れる理由があるの。
句郎 江戸市中の上水道網を知っているということは、恐ろしいことだったのかもしれない。なぜなら、上水道網は秘密、人に知られてはならないことだったみたい。戦争、戦いを前提としている社会にあっては、天気とか、地形、交通網などは秘密だ。それらの情報を知られるとダメージを受ける危険性があるからね。上水道に毒を入れられるとひとたまりもないからね。
華女 あぁー、思い出したわ。お城の設計をした人はお城が完成した後、殺されたという話を聞いたことがあるわ。
句郎 四代将軍徳川家綱の大老酒井忠清の娘婿として藤堂高久は間違いなく莫大な利権を得ていたようだからね。その利権の一つが上水道工事だったのかもしれないな。だから日本橋の旦那衆、日本橋小田原町の町名主、小沢卜尺や川魚問屋幕府御用達の杉山杉風などと芭蕉は話し合い、深川へ隠れたと嵐山氏は述べている。また芭蕉は剃髪し、出家を装い、墨染の衣を身に纏い始めたということらしい。