このあたり目に見ゆるものは皆涼し 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「このあたり目に見ゆるものは皆涼し」。芭蕉45歳の時の句。『笈日記』にある。「十八楼ノ記 美濃の国長良川にのぞんで水楼あり。あるじを賀島氏といふ。稲葉山うしろに高く、乱山西にかさなりて、近からず遠からず。田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。さらし布ところどころに引きはへて、右に渡し舟うかぶ。里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひこめたり。もしこの楼に名を言はむとならば、「十八楼」とも言はまほしや。」と前詞がある。
華女 長良川の眺めは中国の瀟湘や西湖の眺めに匹敵すると讃えたのね。
句郎 招かれた賀島氏への挨拶だったんだろうな。
華女 中七が八になっているわね。「このあたり目に見ゆるもの」と七にした方が口調がいいのに、何故芭蕉は中八の字余りにしたのかしら。
句郎 字余りについて芭蕉は『三冊子・あかそうし』の中で次のように述べている。
「朝顔や晝は錠おろす門の垣」
「碪うちて我に聞せよや坊が妻」
「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」
「此句ども字餘り也。字餘りの句作の味ひは、その境にいらざればいひがたしと也。かの、人は初瀬の山おろしよと有、字餘りの事など云出て、なくてなりがたき所を工夫して味ふべしと也」。百人一首に「うかりける人を初瀬(はつせ)の山おろしよはげしかれとは祈らぬものを」という歌があるでしょ。「山おろし」は五音で口調がいい。それを「山おろしよ」と六音の字余りにしている。この字余りに作者の思いが籠っていると言うことを芭蕉は述べている。
華女 「目に見ゆるものは」に作者芭蕉の思いが籠っているということね。
句郎 「目に見ゆるもの」では、芭蕉の思いが伝わらない。「目に見ゆるものは」と表現することによって読者に思いを伝えようとしたということなんじゃないのかな。
華女 本当にお招きにあずかってありがとうございましたと宿の主人、賀島氏に挨拶したということなのね。
句郎 「涼し」という言葉がどんなにか気持ちがいいということを表現しているしね。
華女 むしむしする日本の夏の御馳走は涼しさよね。
句郎 なんとも平明でこんなごくごく普通のことを普通に表現するものが俳句というものなんだと述べているような句なのかもしれない。
華女 ほんとにそうね。
句郎 なんでもないことに気付く、驚くということが俳句になるということかもしれないな。
華女 もう既に三百年も前に表現されてしまっていることだから、今はもう何も残っていないような気持にもなってしまいそうね。
句郎 でもまだまだあるよ。