朝顔は酒盛しらぬさかりかな 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「朝顔は酒盛しらぬさかりかな」。芭蕉45歳の時の句。『曠野』。「人々郊外に送り出でて三盃を傾け侍るに」や「ミのゝ国よりさらしなの月ミむと旅だちける比…」との前詞を書き、この句が詠まれている。
華女 更科の月見に旅立つ芭蕉を見送る酒盛をしたのね。
句郎 江戸時代、旅に出るということは、大変な出来事だったんだろうね。
華女 芭蕉は朝顔に見惚れているのね。
句郎 昨夜の酒盛の楽しかった思いに浸っていたのかもしれないな。
華女 この句には時間が詠まれているのよね。
句郎 『おくのほそ道』紀行、平泉で詠んだ「夏草や兵どものが夢の跡」、この句も時間が詠み込まれた句だと言えるのかもしれないな。
華女 そうね。夏草を見た芭蕉は五百年前の古戦場だったことを偲んでいるのよね。
句郎 時間は無常を表現すると芭蕉は考えていたのだろうな。
華女 高校の国語で学ぶ「五月雨の降りのこしてや光堂」も同じよね。五月雨に打たれながら中尊寺鞘堂を見た芭蕉は無常、残酷な時間を生き抜いたお堂に感動しているのよね。
句郎 芭蕉は夏草という空間で、中尊寺光堂という空間で無常なる時間を詠んでいるということが言えるように思うな。
華女 「朝顔は」の句も無常なる時間を詠んでいると言えるわね。
句郎 無常という美意識の上に詠まれている句なのかもしれないな。
華女 無常なる時間というものを美意識にまで高める営みが俳諧を詠むということだったのかもしれないわね。
句郎 芭蕉が平泉で詠んだ「夏草や」、「五月雨の」の句と「朝顔は」の句とは、ちょっと違うようにも感じるな。「朝顔は」の句はまだ時間を無常なものとは認識していないようにも思う。
華女 石田波郷の句に「バスを待ち大路(おほぢ)の春をうたがはず」という句があるじゃない。この句に何か共通するものがあるように感じているのよ。
句郎 堀切実氏は芭蕉の精神を石田波郷は継承しているというようなことを述べているようだから、そうなのかもしれないな。
華女 時間に栄枯盛衰を見るのが無常というものだとしたら、波郷の句には無常観というようなものはないと思うわ。
句郎 栄枯盛衰という残酷な時間に美を発見したのが無常観というものだとしたら「朝顔は」の句は、無常観という美意識へと昇華する過程の句なのかもしれない。
華女 石田波郷が芭蕉の精神を継承しているとしたら、それは無常観という美意識とは違うもののように思うわ。
句郎 時間というものに対する認識が少し違っているようにも感じるな。「朝顔の紺のかなたの月日かな」という句を波郷は詠んでいる。確かに時間を詠んではいるが、ここにある時間は無常観ではないように感じるな。
華女 そうよ。無常観ではないのよ。「朝顔の紺のかなたの月日かな」、良い句ね。私、好きだわ。朝顔を見て昔を偲んでいることに変わりはないが、偲ぶ内容が違うのよ。、