旅にあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「旅にあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風」。芭蕉45歳の時の句。『真蹟集覧』「秋立日」と前詞がある。
華女 「旅にあきて」上五が六の字余りの句ね。
句郎 「旅にあき」とした方がすっきりするにもかかわらず、「旅にあきて」と字余りにしている。旅にあきての「て」に芭蕉の気持ちが籠っているのじゃないのかな。
華女 私がこのような句を詠んだら、先生に「て」抜きにしなさいと指導されそうな気がするわ。
句郎 確かに「て」という言葉は生き生きしていないというか、だらっとした気持ちが出ているようにも感じられるからね。
華女 この句場合、「て」が輝いているようも感じるわ。「て」があってこそこの句が生きて来るようにも感じられるわ。
句郎 旅に生き、旅に死んだ芭蕉にも旅に飽き、辟易する日々があったということなんじゃないのかな。
華女 こんな旅をして何になるんだということよね。
句郎 旅に飽きたということは、句を詠むことに飽きたということなんだと思うよ。
華女 俳句商人(あきんど)に嫌気がさしたということなのかしら。
句郎 俳句商人だから旅を続けることができる。俳諧を取り仕切ることができるから、お客さんが付く。有難いことに違いないが、下手な客との付き合いに嫌気がするということがあるんじゃないのかな。
華女 わかるような気がするわ。
句郎 昔、テニスクラブでアルバイトをしていたことがあるんだ。そのとき、ベテランのコートキーパーがよく言っていた言葉を思い出すよ。テニス芸者は辛いもんだよとね。
華女 テニス芸者とは、どんなことを言っているの。
句郎 テニスを楽しみたいというお客さんとゲームする人を言うんだ。テニスの下手な客を楽しませる術を持っている人をテニス芸者と言っていたよ。
華女 なるほど分かったわ。ダンスホールにもいるわよ。ダンスしたがる下手な男とダンスして楽しませるダンサーがいるわよ。
句郎 俳諧の席にもそのような初心者が来る。そのような人を相手に句を詠み合うことに嫌気がさすということが芭蕉にもあったんじゃないのかな。
華女 江戸時代の俳諧師は一種の芸者だったということなのね。
句郎 俳諧師とは、俳諧の座に参加する人々を楽しませる芸を持っていた人なんじゃないのかな。
華女 そうよね。楽しくなくちゃ、人は集まって来ないものね。強制的に人を集め、お金を取るのが学校ね。俳諧は学校とは違っているわ。
句郎 俳諧とは、笑い、遊びだからね。笑いがあるから人が集まる。娯楽として楽しむことができるから人が集まる。お金が師匠に集まる。俳諧師の生活が成り立つ。
華女 元禄文化とは、町人の文化だと昔、教わったわ。落語なんていうものもその頃に生まれてきてものなのかしらね、
句郎 そうなんじゃないのかな。俳諧も落語も歌舞伎・浄瑠璃、浮世絵も。そうした人々の気持ちの一端をかいま見せてくれている句が「旅にあきてけふ幾日(いくか)やら秋の風」なのかもね。