今朝は少し爽やかと思えば、24.4℃と熱帯夜を逃れた奈良、でも厳しい残暑と
暖湿流が流れ込んでおり、蒸し暑さは異常なほど。
最高気温も午後2時過ぎには35.3℃を超え、猛暑日になり、また雷が・・・
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👆若草山山頂を拡大、人影が展望台👇に見える
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/41/bb1318bb69f4219144e6569cdf354539.jpg)
それにしても台風10号(サンサン)は大きく西に進路をとり、その後日本列島
を縦横断するコースを取ると予報が変わり、近畿地方は30日の金曜日か。
原因は、ウエザーニュースによれば、
台風の西側の寒気を伴った低気圧(寒冷渦)が南側へと位置を変え、この
寒冷渦と東寄りの風の影響で、反時計回りに回転し、西に進むようだ。
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NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はヒユ科の「ケイトウ・鶏頭」
インドなどの熱帯アジア原産の非耐寒性一年草で60首を数える。
日本には中国を経由して奈良時代に渡来し、「韓藍(カラアイ)」と呼ばれた。
韓は中国を指し、赤花は綺麗なピンク色に染まり、葉は写し染めに使われる
貴重な花で、大切に育てられていたようだ。
万葉集には4首詠まれ、第3巻 384番 山部宿祢赤人を呈示する
原)『吾屋戸尓 韓藍種生之 雖干 不懲而亦毛 将蒔登曽念』
訓)「我が宿に 韓藍まきほし 枯れぬれど こりずてまたも かんとぞ思ふ」
意)我家の庭に 鶏頭の種を播いて育てたが 枯れてしまった
懲りずにまた 種を蒔こうと思う」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/0b/8cda685b578b84f8c1e51a4ab1a6ac97.jpg)
和名の由来は、花穂の形状がニワトリのトサカに似ることからで、本来は
1か所の花の生長点が、帯状にひろがったことからと考えられている。
花言葉は、胸を張って歩く雄鶏の様子から「永遠の愛」「おしゃれ」と
花言葉は、胸を張って歩く雄鶏の様子から「永遠の愛」「おしゃれ」と
俳諧を俳句と名付けた「正岡子規 」の鶏頭の句(1900年33歳)を例示する
『鶏頭の十四五本もありぬべし』子規
この句で鶏頭論争がおこり、それは現代まで続いている。
始まりは長塚節、「この句がわかる俳人は今は居まい」と斎藤茂吉に語る。、
茂吉もその後に「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」と喧伝するも・・・
高浜虚子は頑なに取り上げなかった。
さて今日は「許六忌」、1715年のこの日、江戸時代前期から中期にかけての
茂吉もその後に「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」と喧伝するも・・・
高浜虚子は頑なに取り上げなかった。
さて今日は「許六忌」、1715年のこの日、江戸時代前期から中期にかけての
俳人「森川許六」が60歳で没した日です。(探すが鶏頭の句はない?)
近江国彦根藩の藩士で、本名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と。
近江蕉門として蕉門十哲の一人でもあり、名の許六は、槍術・剣術・馬術・
書道・絵画(狩野安信に学ぶ)・俳諧(芭門)の6芸に通じていたとして、
芭蕉が「六」の字を与えたのだという説もあるが、年代的に疑わしい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/20/ffd603b56e51dd2510ce940a7b870696.jpg)
『十団子も小粒になりぬ秋の風』許六 1834年頃
芭蕉亡きあと、蕉門十哲の一人として述べているのか?
さて自民党総裁選(9月12日告示、27日投開票) 立候補者が11名?というが、
小団子になるのでしょうか?