昨夜9時から降り始めた冷たい雨、今朝はこの秋最低の11.5℃と冷え込む。
日中は13℃台と足元や手先が冷たく暖房が欲しいほど。
春日奥山の裾野を南へと雲が走るが、未明まで小雨が降り続くようだ。
11時
今日は『神嘗祭(かんなめさい)』天皇が新穀(初穂) を天照大神に奉納する祭
旧暦の9月17日が、明治12年からひと月遅れの10月17日に行われるように
奈良県などの西日本ではコメの出来は、中国から6月頃に偏西風に乗りやって
きたトビイロウンカ(体長5㎜) 、イネ坪枯れで昭和以来の最悪の被害があり、
対策は収穫を早めるしか方法はないようだ。
それで昨日の秋篠路も例年だとまだ収穫中なのに、稲刈りが終わっていた。
今回の秋篠路訪問の目的は10時半からの公民館講座への参加と、その前に
『秋篠寺』へ伺うためだった。
9時半の開門に間に合うように出かけたのだが、一本前の電車に乗り遅れ、
写真を撮りながら歩いていると、時間があっという間に過ぎ去る。
国宝の本堂におられる25体の仏像、特に東洋のミューズ と称される重文の「伎芸天」には次の機会にお会いする予定に。
Google Map
奈良競輪場前の秋篠寺観光バス専用駐車場から細いバス道を進めば南門だが、
参拝の順路である南門から伺った。
民家の間を進めば秋篠寺の小さな表示、お一人が西大寺から歩いてこられた。
『秋篠寺』は奈良時代末期776年、光仁天皇の勅願により薬師如来を御本尊と
して法相宗僧正善珠大徳の開基され、次代桓武天皇に引き継がれて平安遷都時
に七堂伽藍が完成をみたが、聖武天皇の皇女・井上内親王(光仁天皇の皇后) と
その皇太子・他戸親王(おさべ)が幽閉先で不自然な死を遂げたため、後に怨霊として恐れられ、その怨霊を鎮めるためともいわれている。
南門前には元秋篠寺鎮守社の『八所御霊神社』がある。
政争等で亡くなった方々の御霊を鎮める為の神社で、御祭神は火雷大神、
御霊信仰の筆頭とされる早良親王(桓武天皇の弟、平安京遷都一因、追称は
崇道天皇)、伊豫親王(伊豫親王の変) 、藤原広嗣(広嗣の乱)、文屋宮田麻呂、
橘逸勢(承和の変)、吉備大臣、藤原吉子(伊豫親王の母)の八神である。
拝殿と本殿(三間社流造、檜皮葺)奈良県指定文化財で室町時代?、装飾が
少なく木割の太い簡素な建物だった。
南門から参道を進む。
苔むした雑木林の中を貫く参道、15m程左側に『会津八一』の歌碑がある。
あきしのの みてらをいでて
かへりみる いこまが
たけに
ひはおちむとす
少し進み、右側に竹の枝で通路が
その先の竹林の前に、石が8個ほど集められており、東塔の礎石だ。
かつては東西二塔並んでいたと、反対側には西塔跡も礎石だけ残る。
さらに苔むした中に井戸が、そんな参道を50mほど進めば・・・
真っすぐは東門へ至るが、本堂と社務所へ左に曲がる道が伸びる。
突き当りは社務所、右側は金堂跡で真ん中に本堂への道が・・・
金堂跡には仏塔の一部だけが置かれている。
十両の背後に仏塔が
拝観する時間がなく、その先の社務所前へ。
伎芸天を詠まれた『吉野秀雄歌碑』がぽつんと。
あまりじし なきししおきの たおやかに みもも、みこしも ただうつつなし
『贅肉 なき肉置の 婀娜に み面も み腰も ただうつつなし 』 吉野秀雄
時間が残り20分、公民館へ急がなくては・・・
元の参道へ戻り、10m程で『十三社』です。
その先は本堂の境内を分ける白壁が続く。
右側に忠魂碑があり、その両側の木陰に佇まれるお地蔵さまや仏墓?が
この辺りはモミジがきれいのですがまだですね。
6月6日に行われる香水閣、
壁の向こうに鐘楼が見える角、曲がれば東門が、反対側から見る。
萩はもう終わりで、残り花です。
東門のモミジも一部だけ紅葉、一ヶ月後が楽しみですね。
駐車場はバス路を50mほど進めば15台ほど止められる。
さらに北門跡へと行くも・・・帰りに自家用車専用駐車場の前を通る
乗り合いバスに遭遇
残り時間は10分もない。100mさきの公民館迄急がなくては。