カメラを片手に

浄教寺の菊人形は菊鹿形に

今年も残り二週間、2.1℃と冷え込んだ朝、3カ月に一回の予約通院日、道中に
霜を纏う車に出会い、慌ててカバンから用意していた皮手袋、今シーズン初め
て手にはめれば、それほど寒さを感じずに済んだ。
日中は11.9℃迄上がったが、吹く風は冷たい。
      12時、10.2℃、57%

病院には午前8時前に着けば、受付方法が変更?、並んで待つ方法から、
順番待ちカード順での受付に変更されたと思われた。
出てきた番号は23番目、椅子に座って待つのは本当に有り難いこと。
8時過ぎ1番から受付が始まる。
我の番号を呼ばれ有人よりも我は自動受付機、保険証はマイナンバーカード
(暗証番号)で受付をさっさと済ませて、採血へと。
早々に名前を呼ばれれば、採血係の方から”今日は空いている”とのこと。
血圧を測定して、小一時間待てば診察室にと名前を呼ばれた。
変わったことはなくまた三か月後の予約と処方箋を出していただき、支払い
を済ませれば、午前10時過ぎには家に戻れ、ラッキーな朝でした。

15日の日曜日、奈良市中央公民館の奈良学セミナーが終わったのが11時50分
日曜日は奈良交通バスが一時間に一本に減らされ、次は40分ほどの待ち時間
フォローしているブログから、浄教寺の菊人形ならぬ菊鹿が出ていると知り、
直ぐ南西側の山門へと伺えば、珍しく人影がない。
先月は境内に入られる海外からの方を含め次から次へと入られていたのに。

浄教寺」は浄土真宗本願寺派、鎌倉時代に河内国八尾の行延法師が開基、
元武士で親鸞聖人の直弟子となり1244年3月出家され、開かれたと伝わる。
南朝光明院帝(後醍醐天皇)の勅願所となり、寺紋「九曜菊水」となる。
1530年、八尾から大和郡山市西城町に移る。
1591年、石山籠城に伴い顕如上人から石山寺お内仏、ご本尊阿弥陀如来を拝領
1603年、徳川家康公から御赦免の寺地として現地に移し、西本願寺の役寺と
  して南都七大等の連絡、奈良奉行や小泉城主片桐氏などの連絡にあたる。
1888年6月5日、アメリカの東洋美術史家・哲学者の「フェノロサ」が当寺本堂
  にて知事を含む要人、市民500名を前に奈良の宗教美術文化の重要性と
  その保護の必要性を訴えた。
1936年1月26日、本堂が全焼する。
1941年、奈良県技師「岸熊吉」の設計で本堂起工、1944年上棟するも大戦の
    影響で、落慶法要は27年後の1968年10月のことに。    


登録有形文化財、2005年に江戸末期「山門」と昭和8年「掲示板舎」が登録。
県と市の文化財「ソテツ」樹齢300年余、根元周囲6.5m、25本の幹の巨樹。

「山門」江戸末期、均整がとれ各所に動植物・渦・雲等の彫刻を施される。


「掲示板舎」昭和8年、小規模掲示板だが受木に彫刻が施されて丁寧な作りで
三条通の歴史的景観に配慮されている。
      

一月前は、まだ出ておらず、多分開化が遅かった影響でしょうか。
お目当ての菊鹿さんに御対面、親子ファミリーですね。





菊人形をご奉仕で出して頂かれる方もご高齢?、数年前から簡略化されて
いたが、出来るならいつまでも続けて頂きたいものですね。感謝!!!

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