カメラを片手に

土芳忌で冬椿を

小雨が降り出した朝の最低気温は4.9℃と暖かい、この雨は断続的に降るも
東の春日奥山の稜線は見えている。
14時現在、日中の気温も8.1℃で、足元から寒さが上ってくる。
     11時半、7.0℃、91%

今日は「土芳忌」、芭蕉翁顕彰会が『295回土芳忌と土芳を偲ぶ俳句会』を
開催される。
土芳は俳人・松尾芭蕉の伊賀の弟子「服部土芳はっとりどほう」のこと。

1657年明暦3年、伊賀国上野、藤堂藩士・木津三郎兵衛保向の三男として生ま
れ、名は保英、通称は半左衛門。のち伊賀付藩士の服部家の婿養子となる。
1665年寛文5年に松尾芭蕉から俳諧の手ほどきを受け、初号は芦馬。
1685年、芭蕉に東海道・水口宿で芭蕉と20年ぶりの再会を果たす。
1688年、藩士を返上(致仕)し、伊賀上野に『蓑虫庵(みのむしあん/さちゅうあん)』を
 結んで隠棲する。
なお庵開きで芭蕉が詠んだ句『蓑虫の音聞きにこよ草の庵』に因んでいる。

*芭蕉ゆかりの「芭蕉五庵」のうち唯一残る草庵で、江戸時代初期の建築や
 露地風の回遊式庭園を含め、三重県指定文化財(三重県指定名勝・史跡)。 
      伊賀市HPより

1689年元禄2年俳号を土芳に。
伊賀蕉門の中心人物だが、俳壇的野心はなく、俳諧を友とし独身で過ごす。
俳風は技巧を廃した素直な作品が多く、松尾芭蕉の最も忠実な門人のひとり
芭蕉死後、偉業を後世に伝えるため『三冊子』『蕉翁句集』『蕉翁文集』
などを執筆して霊前に備えられた。
特に『三冊子』は、芭蕉の俳論を伝える資料として極めて有用とされている。

1730年の享保15年旧暦1月18日、享年74歳で没す。

      『冬椿花はのこらぬこゝちかな』 土芳 
      『冬椿反は残らぬ心かな』    土芳
      利休ワビスケ
      『まいらせて目もと拝まん冬椿』  土芳 
      白・西王母 

      『冬椿仏の花と見てかなし』    土芳
      有楽 
   
      『冬椿梅は憚かる手向かな』    土芳 
      西王母

小庭では、四種類の椿が咲き、雨に打たれている。

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