カメラを片手に

転害門から戒壇院あたりの散策

夜明け前から降り出した雨の朝、夜には止むらしいが、気温は9.9℃から
12.3℃までに上がっただけ、底冷えのする一日になりました。
      16時半、10.8℃、95%

NHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花はユリ科の「チューリップ・鬱金香」
花も葉もシンプルで美しく、世界中で人気があり、原産地は中央アジア~北
アフリカの球根植物です。
チューリップの語源は通訳が誤って伝えたトルコ語でターバンを意味する
「チュルバン」からされ、日本には江戸時代後期には渡来しているようで、
和名はウコンに香りが似て「鬱金+香」から中国語表記「鬱金香・うこんこう
や形から「ボタンユリ」と名付けるも、チューリップが通用している。

これまでに数えられないほどの品種が誕生し、現在の品種リストには5000を
超える品種が登録済みで、およそ1000品種が世界中で育てられている。
品種として、開花期の早生、中生、晩生そして原種の4つに大別され、さらに
来歴、花形と草姿などによって15系統(一重咲き、八重咲き、ユリ咲き、
フリンジ咲き、パーロット咲き・・・に分類されている。

花言葉は「愛の宣告」「魅惑
      

奈良の名勝「依水園」で第7回「奈良工芸の粋」展が3月16日~20日迄開催さ
れており、最終日の月曜日にやっと訪れることができました。
平日なので奈良県庁の駐車場に2時間だったら無料で駐車できるのですが・・
10時過ぎなのか、もう満車で、やや遠い400円駐車場へ戻る。
歩いて依水園へ向かえば、最初に現れたのは国宝の「転害門・てがいもん」。
太い注連縄の向こうに鼓坂があり、正倉院の森が・・・


現在は東大寺の表門は南大門とされるが、かつては転害門が表門と考えられ
理由は平城京へと繋がる一条通のはじまりで、「佐保路門」とも呼ばれ、
都が京都に移っても、京都へ繫がる奈良街道とも接しているからです。

三間一戸八脚門で、本瓦葺、単層切妻造をとり、南北約17m、東西約8m、
高さ約11m、創建年代は推定で756〜762年とされる。

この「てがいもん」という名は、かつて門を入った東に位置する食堂の大炊殿
に、水車で回して挽く中国式の石臼「碾磑(てんがい)」があったからと伝わり、
「碾磑門」とも書かれたが、平安時代末期に「手掻門」の文字が登場する。
これは聖武天皇が八幡神を東大寺の守護神として勧進され、転害門から東大寺
へと入られた八幡神は諸神を手招きされて、その招く仕草が“手で物を掻く”
ようだったことから「手掻門」の字が当てられたと・・・。
 
平重衝の南都焼討(1180年)でも焼け残ったが、源頼朝の協力で伽藍が再興され
転害門も表側の改修を受け、その後三好・松永の戦い(1567年)の大火にさらさ
れたが、東大寺創建当初の姿をほぼ保っている。
それは ”天平の香り高き”と形容されるほど、雄大さと繊細さが融合している。


また鎌倉期の改修での頼朝暗殺を狙った伝説が、奈良謡曲「大仏供養」で
 平家の武将・平景清(藤原景清)通称名「悪七兵衛景清(あくしちびょうえかげきよ)
は、源氏の世になってからも遺恨を晴らそうと・・・。
これから景清門とも呼ばれる。

また南西角の柱は年月を経て節が露出し痩せており、写真家の土門拳はこの
柱に魅了されたそうだ。
南都焼き討ちの折、柱を観察すれば、鏃の刺さった跡もあると・・・
      

さらに南に向かえば、東大寺 中御門跡、慶長11年1606年に焼けてなくなり
別名は焼門(やけもん) とも呼ばれる。
      

ここから東大寺境内へ、直後に「御拝壇」という石碑が・・・
かつて聖武天皇が大仏殿にお参りされる際、この場所からまず拝んでから
行かれたという故事から、江戸時代に整備されたものといわれる。
      

東大寺戒壇院への北門への石段が現れる
      

戒壇院別火坊では、練行衆が先月の20日から28日迄修二会の前行・別火でした
非公開の千手堂が公開されている。      

戒壇院戒壇堂は令和5年まで保存修理及び耐震化工事中で、拝観中止です。
若草山を背景に、このあたりが我が一番好きな景色になる。



この道を南へ行けば「依水園」です。
帰り道は、戒壇院手前の道を西へ行けば・・・吉城川の流れを越え
      

水間町といい、空き地には鹿が寝そべり、人の気配に反応し警戒する鹿も
      

旧京街道を北へ上がれば、吉城川にかかる威徳井橋を 渡れば押上町に。
威徳井橋とは従弟井(いとこい)橋とも書かれ、かつてこの辺りにあった井戸が
吉城川を水源としていると推定され、吉城川の従兄弟(いとこ)の様だという
従弟井(いとこい)から威徳井となったのではと。
小野小町伝説で小町が詠む
したしきか 同じなかれや 汲つらん おととひの子や いとこゐの水

さらにかつての南都八景の一つに描かれる「轟橋」はこの橋ではとの説も
あるようだが、京と奈良を行き交った旅人の足音や、勢いよく荷車を引っ張る音が轟いたことから「轟橋」とよばれたのかもしれない。
なお轟橋の石碑は100mほど南側に建てられ、近くには雲井坂の石碑もある。「雲井坂の雨」は南都八景の一つになりますね。

話がずれました。
威徳井は押上町集会所、道路側に地蔵脇に保存され 👇小さなものです。

更に北上すれば、「祇園社八坂神社」の赤い鳥居が出迎えてくれる。
手掻門北塚に影向があり、託宣によって手向山八幡宮の摂社とされたと伝わ
り、創建は建武5年(1338年)6月と。
祭神は、建速須佐之男命 櫛稲田媛命 八柱御子神です


左脇に末社「辨財天社」がある。   
      

知らない路地に足を踏み入れるのも奈良の楽しみになるのかもしれません。

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