朝霧の中連れ合いを駅まで送って行けば、車外温度計は7℃と暖かな春の朝、
お昼前にやっと春日奥山の稜線が姿を現した。
11時半、
昨日3月1日から奈良に春を告げる東大寺二月堂の修二会(お水取り)本行が
始まりました。昨年に引き続きコロナ禍で
大仏開眼の752年(天平勝宝四年)に実忠和尚が始められ、一度も途切れずに
今年で1271回です。
正式には「十一面悔過」で、二月堂に祀られる十一面観音像に対し、自らを
懺悔し天下泰平、五穀豊穣(米・麦・粟・黍・豆)、万民幸福を祈られる。
この懺悔をする僧を「練行衆」といい、着用される衣は、食物性由来で、
下から白衣・紙子(かみこ)・重衣(じゅうえ)・袈裟(けさ)・修多羅(しゅたら)となる。
「紙子」は保温に富む和紙で前年の試別火で作られたものが使用される。
手漉き和紙を揉んで揉み紙にし、絞棒に何回も丁寧に巻き上から抑えて縮緬皺
を付ける。さらに表面が毛羽たたないように寒天を塗り、これを約40枚張り
合わせた反物にし、木綿の裏(晒し木綿) を付けて袷(あわせ)に仕立てている。
深夜でも6℃台の暖かさ、暖かいと紙子を着用された練行衆は、激しい行も
あり、汗が滴り落ちるほどで、破れやすくなると聞き及びます。
例年に比べ、暖かい日が続くようで特に後半は4月上旬の気候と・・・。
堂内や聴聞は出来ませんが、12日を除くお松明は人数制限のうえ観覧できる
(東大寺HPより)
なおニコニコ動画でもライブ中継が
月ヶ瀬梅林での紅花染めなどの発色剤として「烏梅(うばい)」づくりの
始まりには3つの説がある。
①1205年、真福寺境内に天神社を祀る時、境内に菅原道真所縁の梅を植えた
②1331年、後醍醐天皇の側女が行き倒れ、助けた礼に烏梅の作り方を教える
③16C中頃、前田利家が浪々して訪れた天神社の境内の梅の実から烏梅を作る
江戸時代には入り、神沢貞幹「翁草」1772年に”山里前後みな梅林なり“と
文献上に最初に書かれ、この以前から既に月瀬梅林が成立していたとされる。
江戸時代後半、月瀬は梅の木は10万本を越え、「烏梅」農家も400軒以上で、
1830年に34歳の斎藤拙堂、1831年頼山陽が相次いで訪れ、その紀行文と漢詩
「月瀬記勝」斎藤拙堂著 1851年10月 看雲亭蔵版が発行され、これが以後文人などを呼び寄せる要因になった。
国会図書館より
紀行文七 嵩 紀行文六 尾山
国会図書館より
1891年明治24年版の「月瀬記勝」、これを印刷した版木32枚が
奈良「豊住書店」で昨年10月29日に発見された。
実は郷土史家・稲葉耕一さんが奈良・豊住書店(元は伊賀上野の印刷所)が
閉店されると聞き、以前に亡くなられた前の店主から"書店の二階に月瀬記勝
の版木がある"と伺っていたことを思い出し、関係3人で訪れて確認された。
交渉の末、32枚の版木と大きな硯石をお借りして、月ヶ瀬橋「梅の資料館」
二階展示室で一部公開されている。
二階展示室を少し紹介します。
「頼山陽」書を頼まれて書かれたが印を持参しておらず、急遽作った芋印。
「山中高士臥」書子月瀬香 雪裏 襄印
中国・明時代の詩人「高啓」の七言律詩「梅花」の3句から
「内藤鳴雪」 芭蕉は素晴らしい景色にため息をつけるほどの俳句はない
というが、ここ月ヶ瀬の景色は・・・
『上がっても下がっても 梅の在所かな』 南塘
「富岡鉄斎」
「田能村直人(たのむら・ちょくにゅう)」『墨梅図』
月ヶ瀬観梅の折は、梅の資料館・二階資料館へ