さて、今回は『イズァローン伝説』です♪
といってもわたしまだ、文庫版の3巻くらいまでしか読んでなかったり……そのですね、何故今回『イズァローン伝説』だったのかというと、前から他の方の感想記事やあらすじを読んでいて、少し気になることがあったからなんですよね(^^;)
『イズァローン伝説』の主人公、アル・ティオキアは、両性体(プロトタイプ)ということで、別の言い方をすると「無性」ということでもあるみたいなんですけど、これはイズァローン人の特性ということでした。そして、大抵の場合は7~8歳くらいで男になるか女になるかが自然と決まるそうなのですが、中にはティオキアくんのように両性のまま成長する場合もあり――その場合は、自分が愛した人物の性に対応する形で、自分の性を「男」にするか「女」にするか決めることが出来る……ということなんですよね。
この設定は、萩尾先生の漫画『11人いる!』の中の11人のひとり、フロル(ベルチェリ)もそうだったと思います(成長してから自分の性を決定することが出来る、という意味で)。それで、フロルのこのあたりの設定っていうのは確か、アーシュラ・K・ル・グィンの『闇の左手』から来ている……みたいに萩尾先生もおっしゃってたと思うんですよね。ル・グィンの『闇の左手』は超有名SFとは思いますが、一応軽く説明すると、舞台となっている惑星ゲセンの人々というのが両性体で、この星の人々は月に一度発情期がやってきて、同じように発情期の来ている相手と同意の元交わるわけですが、その時、男性的役割を果たすことになるか、女性的役割を果たすことになるかは、相手次第――ということだったと思います。わたしも読んだのかなり前なので内容結構忘れてますが(汗)、簡単にいうと、両性体ですから、ゲセンの人はみな「妊娠することが出来る」ということなわけです。
それでわたし、萩尾先生の『11人いる!』を読んだ時、『イズァローン伝説』のあらすじだけ少し知ってたので、「たぶんきっと、『11人いる!』の設定のパクリ……みたいなことをファンレターに書いてくる人はいただろうなあ」と思ったりしてたわけです。また、<ゲド薬>なるものもあとから出てくるらしい、と文字でだけ読んでたので、「アーシュラ・K・ル・グィンだっての☆」という、そうしたことなんだろうなあ……と、その時ぼんやり思っていたというか(^^;)
いえ、何を言いたいかというと――萩尾先生の『マージナル』のキラの妊娠能力なども、彼は表現体としては一応男性なんだけれど、そうしたところからヒントを得て描かれたものなのかな……と、自分的に想像したりしてたわけです
この点については、萩尾先生も竹宮先生も、「ル・グィン女史の同じ小説を読んで、同じ点に注目した」と言えはしないだろうか、と思ったのが、わたしが今回竹宮先生の『イズァローン伝説』を読もうと思ったきっかけだったというか
さて、前置きが長くなりましたが(いつものこと・笑)、今のところ色々な意味でバランスが取れていて、割と面白い……という感じかなあ、なんてただ、レビューとかちらほら見ると、評価のほうが真っ二つに割れていたりもして、☆5つつけてる方と☆1つの方とで結構はっきり分かれてるんですよね。その点、自分的に「??」と思ったのですが……たぶんわたし、最後まで読んだら☆1つの方の感想寄りになるのではないかという気がして――とりあえず「ラストについては期待しないでおこう」と思いつつ、今途中まで読んでるところです(^^;)
あらすじのほうを簡単に説明するとしますと、主人公のアル・ティオキアは樹海に囲まれた国イズァローン王国の王子です。ところが、現在の王(ティオキアの父)の兄の息子ルキシュにも、相応に王位継承権があることから……国はティオキア派とルキシュ派に分かれているといった状態。そんな中、ティオキアは王自らの命で、隣国イシュカへ人質として送られることになるわけですが、イシュカという国は精神的にも物質的にもとても豊かに繁栄した国で、心優しきティオキアのことを、イシュカ王も王の一族も快くもてなしてくれます。
ところが、ここへティオキアの父である、イズァローンの王が戦争を仕掛けてきたことから、イシュカという国は滅んでしまいます。王は自分の息子のことを気にかけなかったわけではなく、気にかけてその姿を探すよう部下たちに命じてもいたわけですが、結局のところ「生死不明」の状態であると伝えられ、ティオキア本人はその後、学士カウス・レーゼンや、下級騎士のユーディカ、導師ルーン・ヒオドらと一緒に他国をさすらうことに。
一方、ルキシュはその後、王が今度はゼベクという国に遠征中、死亡したことから――生死不明のティオキアにかわり、イズァローンの王として即位することになります。王国内にはいまだティオキア派も数多く、いまだにルキシュ派とティオキア派で揉めている状態にありましたが、ルキシュはその後、フレイアという妃を娶り、王としての舵取りがかなりのところ上手くなってゆきます。
ルキシュ自身、最初は政略結婚と割り切っていたわけですが、フレイアに対してもともと好意を持っていたことから、この結婚に初めて喜びを覚えるわけですが……フレイアのほうではかなり強引なやり方で政略結婚の道具とされたことから、公の場に出ている以外のところではルキシュになかなか心を開こうとしません。
わたしが今のところ、3巻くらいまで読んで一番面白かったのが、ルキシュとフレイアの関係性と、彼らが前王の遺書を読むといった、そのあたりの展開だったでしょうか。ティオキアの父親である前王は、もしティオキアが両性体から男性になったとしたら、彼が王となりフレイアを妻に娶るようにと書いており、また、ティオキアが女性体になった場合は、ルキシュの妃とするようにと……そのように遺言していたのでした。。。
さて、現在イズァローンにおいて「生死不明」とされているティオキアが、今後どうなっていくのかは、わたしももう少し先まで読まないとわかりませんが、最初多少わたしが想像していたような、「萩尾先生の存在や作品を意識する」ような感じとか雰囲気というのは、一切感じられませんでした。むしろ逆に、竹宮先生の他の作品もそうですが、竹宮先生から影響を受けた後輩に当たる漫画家さんがいかにたくさんいるか……という、そちらの影響力のほうを強く感じたくらいです(^^;)
ただ、自分的に「少女漫画における性表現の進化」というか、あるいは「深化」という意味で、『風と木の詩』のあと、次は両性という表現に竹宮先生は行きついたのかな、と思ったりしたんですよね。『少年の名はジルベール』にあるとおり、「少年」(あるいは「青年」)でないと描いていてつまらない……という傾向が強い竹宮先生にとって、普通の男女の性表現というものがそもそも退屈というか、描いていてあまり面白い感じでないんだろうなあと思っていたので、そのあたりがどんなふうに描かれているかに興味を持ったわけです。
一方、萩尾先生は萩尾先生で、『メッシュ』や『マージナル』などにおいて、男性や女性の立ち位置を入れ替えることによって「少女漫画における性表現」について模索されているところがあるのかなあ……と思ったりしたのですが、『メッシュ』ではまだ「考え中」といった感じがするものの、『マージナル』においては「すでに達した」という、そうした作品と個人的には思ってるわけです。
もっとも、『イズァローン伝説』はそのあたりのことが特段大きく問題として取り上げられているわけではない気がするものの――竹宮先生側ではどういった答えが提示されるのか(あるいは提示されなくても、それは作品の質を直接左右するものではないです^^;)、ちょっとそのあたりも注目して続きを読んでみたいと思っています♪
それではまた~!!