こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

マリのいた夏。-【16】-

2022年12月28日 | マリのいた夏。

 

 特に作中にシモーヌ・ヴェイユの言葉が引用されているというわけでもなく、単に彼女の『重力と恩寵』という本の名前が出てくるだけなんですけど……シモーヌの思想の中で、<真空>という概念は非常に重要なものだったらしく、そのですね、わたしが前に書いた小説の『惑星パルミラ』の中にある、「この宇宙中に神の愛は満ちている」といったように書いてあるのは、一言でいえば「これ」のことです(^^;)

 

 なんて言いますか、「この宇宙中に神の愛は満ちている」って、言葉として聞く分にはなんとなく美しいような響きもあり、「まあ、言われてみたらそうかしら」くらいな感覚で、ぼんやり納得してしまいそうになるものの――正確には違いますよね。宇宙=真空というのも、正確には誤りだそうですが、それはさておき、宇宙空間のように人がそのままでは生きていけないような過酷な環境に「神の愛が満ちている」だなんて、「科学的事実と照らし合わせてみても、そんなもんウソに決まってんじゃねーかよヲオゥッ!!」てなもんです。

 

 では、「この宇宙中に神の愛は満ちている」、人間がそう感じられるのは何故かというと……我々人間をこの広い宇宙と比較した場合、神さまにはおそらく、我々の姿は小さすぎて見えないだろうということでした。たとえば、今地上の人々をこれほどまでに恐れさせている新型コロナウイルス。わたしたちはコロナウイルスに関しては、普段肉眼の目で見ることは出来なくても、「ある」ことは間違いないと信じています(科学的にもそう証明されているわけですから)。

 

 でも、わたしたちに神さまの姿が見えず、その存在を証明することが出来ないのと同じように、神さまがこの広い宇宙の一番端っこにおられた場合、新型コロナウイルスどころかそれ以上に我々人間というのは小さいものなので、神さまはそんなわたしたちが「タスケテー!!」とか言っても、声が小さすぎて聴こえないんですね。ただ、神さまが光速以上に速く移動できたとした場合、確かにその気になれば地球までやって来て、人間を見ることも出来れば、その声を聴くことも出来るでしょう(神さまが宇宙を支配する物理法則をも超えて万能であると仮定した場合、どんなことも万事可能となるという意味で)。

 

 我々人間の心は真空です。そして、この広い宇宙も真空。わたしはヴェイユの思想についてあれこれ語れるほど詳しくないのですが、『重力と恩寵』の後ろのほうにある訳注には、>>真空=「放棄や断念によって人間の魂に生じたわずかな間隙(真空)に神が入ってくる」……とあります。

 

 つまり、重力=「重い不幸」とした場合、不幸とは恩寵です。何故なら、我々の心や肉体や魂が、この重い不幸によって引き裂かれそうなほどつらい時こそ、そこに生まれた真空から、神さまと繋がる力、回路が生まれるという意味で、人生の不幸は神の愛、恩寵に変わりうるものだということです。

 

 そして、この世界のどんなに孤独で不幸な人でも、神さまほどの真空を持ってる人は誰もいないでしょう。神さまは人ではありませんから、この宇宙ほど広い真空を抱えてようとも頭がおかしくなるでもなく、人間的価値基準としては狂人としか思えぬほどの実験を、宇宙中で繰り広げているかのようにさえ見えます。

 

「我々人間は、この真空を通してこそ神を知る」のだとしたら……この宇宙中、言いかえればすべて神の愛です。わたしたち人間の心にどんな悲惨な真空が生じようとも、神さまの持つ真空には到底敵いません。そして、この神さまと呼ばれる方は、完璧な<美>を持っています(また当然、その逆のものもすべて)。わたしたち人間は己の引き裂かれた魂の真空を通して神さまに祈り、それが全宇宙に通じる時――この上もなく甘美で美しい、魂の音楽を聴くことが出来ます。

 

 こうして、自分が物質的(肉体的)な意味でも霊的な意味でも、広大な真空の一部であると知る時、その真空はただの真空ではなく、神さまの愛と同一なるものへと変わります。このあたりのことが、祈りを通して理屈ではなく「本当に実感」できる時……死や孤独といった、人が本来本能的に恐れるものが、真理のヴェールによってオーロラのように輝いて見える――どの宗教にも大体、こうした一点があるようだ、という意味で、『惑星パルミラ』において主人公のゼンディラが神を信じていることも、真実意味を持っているということなのではないだろうか……といった、まあ大体そんなところかなと思います(^^;)

 

 シモーヌ・ヴェイユは、言うまでもなく一筋縄ではいかない思想家ですし、書かれていることを一度読んで、一応内容について理解したようなつもりになっても、自分のその「読み」が正しいとは限りませんし、わたし自身は彼女の言葉を読むことで、自分が連想的に考えること(言いかえれば、行間を読むこと)により、シモーヌの思想と合わせて自分の思想も発展させられるということ……そうした意味で、いずれ一生かかっても彼女の本はすべて読んでみたいな~と思っていたりします(一体いつのことになるやら、とは思いつつ^^;)。

 

 それではまた~!!

 

 

     マリのいた夏。-【16】-

 

「うちの旦那ときたら、定年になって以降毎日家でゴロゴロゴロゴロ……雷の鳴る前触れかってくらい、とにかくゴロゴロしてんのよね。あとは猫の喉の鳴る音かってくらいゴロゴロしてるから、家のことやるように命じることにしたのよ。そしたら、どうなったと思う?」

 

 閉架書庫に蔵書が数多く並ぶ棚の奥、スタッフ専用の休憩室にて、嘱託職員のケイコ・オザワさんがおにぎりを食べながらそう言った。今、狭い休憩室にいくつか並ぶテーブルを囲んでいるのは、ロリと東洋人の彼女と、正職員のアメリア・ガーネットの三人だけだった。ミセス・ガーネットとオザワさんは六十代で年齢も近く、彼女たちがよく話す話題は、自分や夫の両親の介護のこと、死後の墓のこと、親戚がガンになったこと、夫への愚痴や家族内の問題についてなど……大体、そんなところだっただろうか。

 

「どうなったのよ?」

 

 オザワさんの夫、パトリック・オザワに直接会ったこともあるミセス・ガーネットは、コンビニで買ったチーズブリトーに齧りつきつつそう聞いた。顔のほうがすでにチェシャ猫のようになっている。

 

「まず、鉢の花に水やりするように言って、洗濯もしといてって言ったわけ。わたしが仕事から帰ったあと、夕ごはんまで出来てたら最高だけど、何分、料理に関しては何も出来ない人ですからね。で、わたしが家に帰ったら、花の鉢植えからは水がしみだしてて水びたし、洗濯物は全然乾いてないの。ようするに、すすぎし忘れたってことなのよ」

 

「はあ~。オザワさん、そりゃ大変ねえ~。うちの旦那はそこまでひどくないけど、確かに、やることなすことちょっずつずれてるのよ。洗濯物の干し方が微妙だったり、料理の後片付けのことまではまるっきり考えてなかったり……うち、食洗機はあるけど、フライパンとか鍋なんかは自分で洗ったりしなきゃなんないものねえ。そのあたりの衛生観念も何やらあやしいものがあるし……」

 

「そうよ。今からいくら調教したって、『だったらおまえがやれよ』くらいにしか思わないでしょうからね。やれやれ。あの粗大ゴミは今後、一体なんの役に立つのやら……」

 

 閉架書庫の棚にあった本を読みつつ、ロリはサンドイッチをもぐもぐ食べていた。特段何か話を振られでもしない限り、ロリからはあまり口を聞いたりすることはない。仕事のことでわからないことがあった場合は別にしても。

 

「あ、ごめんなさいね、オルジェンさん。アメリア、わたしたち老害になってるわね、きっと。いつもお昼休みに一緒になるとは限らないけど、他の職員たちもおじさん・おばさんばっかりだから、自分や家族や親戚の病気の話とか、引退したあとの年金の話とか、そんなことばっかりいつも話してるものねえ。でもわたし、この間安心したのよ。アメリア、あんたも見たことあるでしょ?すらっと背の高いブロンドの髪のいい男。いつもじっと意味ありげにオルジェンさんのことを見て本を借りていくなと思ったら……やっぱりおつきあいしてるのよね?ね、そうでしょ?」

 

「あらまあ。そうだったの。わたしが『恋人なの?』って聞いたら、『ただの友達です』なんて言うから……そうよねえ。オルジェンさん、あなたシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』なんて昼休みに読んだりしてるから、わたし、額面通り受けとってしまったわ。でも、あなたくらいの子で恋愛に興味ないなんてこと、あるわけないものね。いいわよねえ。わたし、今の旦那と初デートしたのが、あなたくらいの年の頃だったわ。その頃はまだ今みたいに頭髪がこうまで後退するとも露知らず、素敵な人だと思ってデートしてたのよ」

 

 アメリアが溜息を着くのを見て、オザワさんは思わず笑いそうになった。彼女もまた、アメリアの夫であるガーネット氏に会ったことがあるからだ。

 

「ほんと、いいわよね、若い人は……何もかもがこれからで。鉢植えの花にまともに水やりさえ出来ない人だけど、確かにわたしも結婚した当初はあんな人にドキドキしたこともあったのよ。いつか全然ドキドキしない日なんて、本当にやってくるのかしら……なんて思いながらね。でもそれも、新婚の頃だけの話。今となってはまったくもって不思議よねえ。ベッドの自分の横では、役立たずの粗大ゴミがいびきかいてるとしか思えないんですもの。ときめきのトの字もありゃしないわ」

 

「そんなの、どこの家だって、結婚して何年もしたらそんなもんよお」

 

 そんなふうに言って、アメリアとオザワさんはけらけら笑いあっている。けれど、ロリのほうからは困ったように首を傾げるリアクションしか返って来なかったたため、「若い人は恋も仕事も、すべてがこれからで本当にいいわね」、「老人には夢がないわ」、「そうそう。病気と墓と年金の話しかしないようじゃ、もう終わりよ」――といったようにそれぞれ勝手に納得し、テーブルの上を片付けだした。休憩時間の終わる十分前だったからである。

 

 ロリは大抵の場合、こうしたおばさん職員たちの話を、きちんと聞いているのだが、特に言葉を差し挟めたりはしない。というより、そんな出しゃばるような真似は出来ない。けれど、だからと言って「少しくらい会話に加われば?」といったようなプレッシャーも感じないし、たまには本の話やドラマ、映画の話をしたりすることもある。図書館員たちには概ね、「夏休みの間だけアルバイトに来てる、大人しい本好きの子」と思われており、「邪魔にならない真面目な子」といった程度に受けとめられているらしいともわかっていた。

 

 ロリは、ルークと恋人同士になる前からも、確かにその状態で十分幸せだった。周囲を大好きな本たちに囲まれているだけで、脳が幸せホルモンによって満たされるため、それ以上のことは何も必要ないと感じるほどですらあった。けれど、「どこかの図書館に司書として就職できたら、一生結婚できなくても十分幸せなのに」と、彼女がそう思っていたのも、ほんの数日前までのことだった。

 

 その日も、ルークはアルバイトの終わったロリのことを車で迎えに来てくれた。それから一緒に食事をしにいくこともあれば、スーパーで何か買ってルークの部屋で過ごすということもある。不思議なことだったが、ロリはこの段階ではまだ、マリに対する罪悪感を感じてはいなかった。そのくらい、ルーク自身と彼との恋愛に、盲目的といってもいいくらい夢中だったせいかもしれない。

 

 けれど、図書館でのアルバイトも終わり、十歳の頃から慣れ親しんできた屋敷の整理が三分の一ほども進んだかという頃……不意に、マリがふらりと遊びにやってきたのだ。その夏、マリは大学でのテニスの強化合宿、他にはリサたちでない、新しく出来た友達と地中海沿岸をクルージングして過ごす予定だとも――マリからではなく、マリの母親が家に来た時、シャーロットにそう話しているのをロリは間接的に聞いたのだった。

 

 だから、ロリはすっかり綺麗に陽焼けしたマリが、いつものように何気なく階段を上がって来、開けっぱなしになったドアから入ってきた時……心底驚いてしまったのだった。確かに、下のほうで話し声は少ししていたし、いつものロリであれば(あ、マリが来たんだな)とすぐ気づいていたことだろう。けれど、この時ロリは窓の外から聞こえる樹木の風にそよぐ音や、鳥の鳴き声、それに、レポートを書くのに図書館から借りてきた美術書をめくるのに夢中で――そして、その合間合間にルークのことを考えては、「集中しなくちゃ!」と何度も首を振った――そんなことを繰り返してばかりいたから、突然マリが部屋へ姿を現したことに、心底驚いたのだった。

 

「ロリ、一体どうしたのよ。幽霊でも見たみたいな顔して」

 

「う、ううんっ。レポートの下調べするのに夢中になってたから、マリが階段を上がってくる音が聞こえなかったの。だから、びっくりして……」

 

「ふうん、そう」

 

 マリは見慣れているはずのロリの部屋を、何故かこの時一渡り見回して――壁のミュシャのタペストリーや、ボラボラ島の海岸の描かれた砂絵、金の額縁に入った天使の絵画など――それから最後、壁の一角に並ぶ本棚から、つい一か月前まではびっしり本が詰まっていたのに、それが消えているのを認めた。正確には、本棚の下に並ぶダンボールの中へ移動したというだけの話ではあったが。

 

「ママから、あんたとあんたの母さんがここから引っ越すって聞いたのよ。あんたの親父さんが浮気相手の愛人と結婚したいもんで、とうとう離婚を切り出したってほんと?」

 

「う、うん。お父さんがここにいる間、すったもんだ色々あったっていう感じではあるんだけど……結局、これで良かったと思うの。今となっては、物事は収まるべきところに収まったっていうか、何かそんな感じかな」

 

「収まるべきところに?」

 

「なんていうか、お母さんもお父さんが定年退職したあと、愛人に愛想突かされて家に戻ってきたとかだったら……結局、離婚する以上に険悪な関係になってたかもしれないって言ってたから。だから、お互い未練があるとか、お母さんにしても、自分がもっとこうしてたらとかああしてたらっていうことではこれっぽっちも悩んでないって感じなの。あとはただ、純粋にお金だけの問題みたいな?」

 

 実際のところ、ダイアン・ハーシュの紹介してくれた弁護士は実に有能だった。トム・オルジェンの軍人としての高い立場に揺さぶりをかけ、これから別れる妻と裁判をし、長くかかってもし仮に望んだとおりの額、金が手許に残ったとしても――その頃あなたの名誉も地位も失墜していることだろうと、筋道を立てて説明したのである。しかもこの場合、血みどろの裁判をすればするほど、あなた自身の地位も名誉も、さらには最終的に金のほうもすべて失う公算のほうが高い。それであれば、今から示談に同意したほうが、お二方とも、もっとも傷が浅くすんでいいのではありますまいか……といったように説得し、オルジェン中将殿は愛人と相談の上、退職金のほとんどを慰謝料として手放すことに同意していたわけであった。

 

「そう。そんなら、あんたのどっかトボケたようなあの父さんからは、絞りとるだけ絞りとって、皮しか残ってないレモンかオレンジみたいにしてやるのが相応ってもんね。ねえ、あんた覚えてる?あんたのパパ、リビングにある雑誌の表紙を見て――『セルフラブ、自分を大切にしよう?なんだ、こりゃ。マスターベーションのことか』って言って、その女性誌をほっぽって、庭に出ていったことがあったじゃない。わたしとエリとあんたがいるのに、そんなこと言って『わっはっはっ!!』なんて笑ってたんだったわ。確かあたしたちがまだ中学生とか、そのくらいの頃の話よ」

 

「そんなことあったっけ」

 

 ロリとマリは顔を見合わせると、お互いに笑った。けれど、それと同時に、ロリの心にこの時初めて罪悪感の影が差した。もしルークと今つきあっているというのでなかったら……感じなくてすんだであろう感情に、この時初めて気づいたのである。

 

「あんた、父親がいなくなってから、『お父さん、どうしてああデリカシーがないのかしら』って言って、『軍人さんってちょっと世間とズレてるところがあるもんよ』ってエリが言って、『軍が舞台の映画なんかでよくあるじゃない。部下のほうがまっとうなこと言ってるのに、上官が腕立て伏せ二百回命じるみたいなやつ。ああいう価値観の中にいると、セルフラブなんて言葉自体許せないんじゃない?』ってあたしが言って……懐かしいわね、ほんと。よく考えたら、今年の夏はおかしな夏ね。あたし、あんたともエリとも、ほとんど顔を合わせないままでいちゃった。ねえ、エリのほうは相変わらず?」

 

 この場合のマリの言う『相変わらず』というのは、クリスとは進展がないままなのか、という意味だった。

 

「うん、そうみたい。というか、わたしの知る限りにおいてってことだけど……わたしもね、今年の夏はエリとほとんど会ってないの。図書館のアルバイトがあったってこともあるけど、どっちかっていうと、エリはエリで大学で新しいサークルの友達が出来たりして、すごく充実してて忙しいみたい。あ、でもオリビアが帰ってきた時、みんなで一度会ったことがあったっけ」

 

 その時、マリはその場にいなかった。テニスの強化合宿で組まれた容赦ないプログラムにより、半ば身柄を拘束されているような状態で、抜け出すことすら許されなかったのである。

 

「オリビアも元気そうじゃない。直接会ってはいないけど、インスタとかツイッター見てるだけでわかるわ。デューケイディア市の美味しい店に新しく出来た友達と出かけてたりとか……今となっちゃ、出発した時のあの涙は一体なんだったのかしらって感じじゃない?」

 

「それだって、成長の過程としてすごく大切なことだよ。大切なのはとにかく、オリビアが今は前と同じく……ううん、前以上に自分らしく輝いてるってことじゃない?新しい彼との交際も順調だっていうことだったし……」

 

 ここで、ロリはハッとした。ルークとのことをより強く思いだした、そのせいである。もっとも、ルークからはこう言われていた。『マリには必ずオレのほうから話すから、それまでロリは絶対黙っていてくれ』と。

 

「そりゃ何よりね。あのね、ロリ……悪いけど、わたしの中じゃオリビアって、今となっては過ぎ去った過去の思い出の友人って感じなの。もちろん、大切な思い出のひとつには違いないわね。けど、あんたとオリビアとじゃ、わたしの中で全然違うわ。わたし、あんたとは一生の間いい友達でいたいと思ってるの。あんたとあんたの母さんがここから引っ越すって聞いた時、すごくショックだった。それで気づいたのよ。今まではちょっと歩いていけば、いつでもロリに会えると思ってたから、それが実は全然当たり前のことなんかじゃないって気づけなかったの。今年の夏、そんなせいもあってわたし、あんたとはこんな近くにいながらほとんど会ってなかったわね。あんたの両親がそんな大変なことになってるって知ってたら、間違いなく会いにきたのに……」

 

「い、いいんだよ、マリ。わたしだってマリが忙しいって知ってたし、わたしだって司書の講義受けたり、図書館のアルバイトがあったりで、忙しかったんだもん。それよりマリ、すごく綺麗に陽焼けしてるね。なんか、いつものテニスの練習のしすぎの陽焼けっていうより、もっとすごく綺麗に……なんていうのかな。プロっぽくブロンズ色に焼けてるみたいな……」

 

 このロリの言い種に、マリはくすくす笑った。ベッドの背もたれに寄りかかるような形で座るロリの隣に、彼女もまた足を伸ばして座る。

 

「何よ、それ?ブロンズ像みたいに焼けてるって意味なら、そりゃあんまり褒め言葉とは言えないわよ、ロリ。まあ、小説なんかじゃ文学的表現として、『彼女はブロンズ色に綺麗に陽焼けした美女だった』なんて言葉があったりするけどね。それに、それでいったらわたし、いつもはテニスの練習ばかりで、小汚く焼けてるみたいじゃないの」

 

「違うってば!マリのお母さんに聞いたけど、マリ、大学のセレブのお友達と地中海にクルージングしてきたんでしょう?素敵な夏を過ごしたのね。羨ましいわ」

 

「ああ、べつに行きたくて行ったってわけじゃないのよ。何分こちとらまだ大学一年生ですからね。まあ、なんていうかこう……人間関係のパワーバランスを取るのに、ここは誘いに応じたほうがいいのかなって思っただけの話なのよ。あと、そのテニス部の先輩の従兄弟だっていうギリシャの海運王の孫とかいう人にも興味あったし。あ、変な意味じゃないのよ。ただ、『今どき海運王?そんな人、マジでいんの?』と思って、本物かどうか確かめに、物見遊山で出かけていったっていうそれだけなんだから」

 

「それで、その海運王の孫とかっていう人は、本物だったの?」

 

 ロリが『海運王』と聞いて思い出せる人物といえば――ジャクリーン・ケネディの二番目の夫、アリストテレス・オナシスくらいなものだった。そしてそれはどうやら、マリにしても同様だったらしい。

 

「確かに本物だったわ。わたしが海運王なんて聞いて思いだすといえば、アリストテレス・オナシスくらいなものだけど……どうやらオナシス家の親戚に当たるらしいわね。そういった祖父や父親の事業をただ受け継いだってだけで、1千万ドル以上も持ってる金持ちらしいって話だったの。だから、クルージング自体のお金もただだったし、そこにいる間中、最高のサービスを受けながら宿泊料も一切取られなかったくらい。すごく楽しかったわ。最初からそうとわかってたら、ロリのことも連れていったのにね。だって、わたしが友達を他にひとりかふたり連れてきても、『可愛い子なら、誰でもみんなオールオーケーさ!』みたいな、超チャラい奴なんだもん。夜は船内にあるクラブで自らDJなんかやっちゃって、裸の女の子たちが泡だらけのプールに飛び込んだり、まあハチャメチャな感じではあったけど、最高の息抜きにはなったわ。何分こちとら、合宿という名のテニスの監獄に随分長く閉じ込められてたもんだからね」

 

「そ、そう。わたしがそんなところにいたら、ひとりだけ浮き輪付きで泳いでて、場違いもいいとこだった気がするけど……でも、マリが楽しかったなら良かった」

 

 ロリがそう言って微笑むと、マリは彼女が手にしていた美術書を横から覗き込んだ。そこには、ミハイル・ヴルーベリの『座せる悪魔』という、魅力的な悪魔が載っている。それで、マリは屈みこんで、本の表紙を見ようとした。するとそこには、『世界の美術館に棲む、魅惑的な悪魔たち』などとある。

 

「ロリ!あんた、なんつータイトルの本読んでるのよ!!」

 

 マリはそう指摘して、けらけらと笑った。

 

「だって、天使の絵のレポートと対比させる形で、悪魔の絵のレポートも書けると面白いかなって思ったんだけど……これがなかなか難しかったりするのよねえ」

 

「ふうん。じゃあなんか邪魔しちゃったわね。あとでまた出直してきたほうがいい?わたし、あんたに大切な話があるのよ」

 

『大切な話』と、聞いて、ロリはドキリとした。もちろんここまでの話運びから見れば、マリが自分とルークのことをまだ知らないのは間違いない。それでも、あとから「あの時、もうそんな関係になってたのに、よくわたしと親友面して普通にしゃべってたもんね!」と詰られることになるのだろうと思うと……ロリの心は締めつけられるように痛んだ。

 

「大切な話って?結局こんなレポート、ダラダラやってても進みそうにないから、大切な話なら今聞くよ。っていうか、そんなふうに先延ばしにされたら、むしろ気になっちゃう」

 

「うん……あんたとあんたのお母さんって、ここから次に、どこへ引っ越すわけ?」

 

 この時、マリの瞳がきらりと光って見えた気がしたが、ロリは窓からの光の反射だろうと思った。『世界の美術館に棲む魅惑的な悪魔』の本を閉じると、なんとなく表紙の、ミヒャエル・ハッパーが描いた『堕落の書を聖アウグスティヌスに差し出す悪魔』に目を落とす(ちなみに裏表紙にはラファエロの描いた、『堕天使を駆逐する聖ミカエル』が使われている)。

 

「うーん。まだね、検討中なんだ。わたしも来年には短大のほう卒業になるし……そしたら、一年くらいなら少し遠くてもいいかなって思うし。でも、その次の就職先についてはまだわからないでしょ?お母さんはね、見た目はセレブのお嬢さん風に見えるけど、もともとはノルウェーの田舎育ちだし、本人曰く『貧乏にも慣れてるから、そういうことは実は割合平気なのよ』っていうことだし……だから、ふたりで住めれば、特に条件に拘りはないわけ。それなりに、自分たちの身の丈にあったところに落ち着くつもりよ」

 

「そう。実はわたしのママやルークのお母さんなんかがね、ここの今ロリが住んでる屋敷を買い上げて、今あんたのお母さんが支払ってるのよりも安い家賃で住んでもらうのはどうだろう……なんて話してるのよ。ほら、不動産会社を通せば、ママやルークのお母さんがお金出したなんてこと、わからないで済むでしょ?わたしだって、ロリ、あんたにいつまでもここにいて欲しいわ。だけど、長い目で見た場合――それがいいことなのかどうかはわからないでしょ?」

 

「う、うん。マリのお母さんやルークのお母さんの気持ちは有難いと思うよ。でも、突然そんなタイミングで家賃が下がったりしたら、お母さんだってピンと来ると思うし……ネットで物件探しはしてるんだけど、今のところなかなかここ!って感じるようなところがなくって。あとはね、実際に見にいったら思ったような感じのところと全然違ったとか、色々……」

 

 ルークからは、「あと二年……ううん、正確には一年と何か月かかな。それまで我慢してもらえば、あとはいくらでも好きなところを選んで住めるよ」と言われている。けれど、ロリとしては彼にそうした頼り方をしたくないというのがあり、母シャーロットには何も言っていないのだった。

 

「ロリ、あんた、わたしと一緒に住む気ない?」

 

「えっ、ええっ!?」

 

「わかってるわよ。わたしと一緒に住んでもうまくいきそうにないっていうか、お互いの友情にむしろヒビが入るんじゃないか……みたいにロリが考えるだろうことはね。でも、ロリだっていついつまでもお母さんのお守りをするってわけにはいかないでしょ?それに、家賃のほうはわたしが全部出すとかだと、あんたも気を遣うでしょうから……まあ、うちにはいくつかそういう不動産の持ち物があるからね。そういうところにふたりで住むのはどうって話。ロリのお母さんには、その近くにでも住んでもらえばいいじゃない」

 

「そんなの無理だよ。あ、わたしがマリと一緒に住みたくないっていうことじゃなくて……お母さんも、表面上は平気そうに見えるけど、あれで結構内心では傷ついてるから。これからはね、わたしが短大卒業後は働いて、それで家賃と光熱費支払って……もしかしたらお母さんも少しくらいはパートで働いたりするかもしれないけど、べつにわたし、そんなことはあまり考えてないんだ。お母さんが働きたくなかったら、わたしの収入だけでもふたりならなんとかやっていけると思うし……」

 

「ふうん。それでロリ、あんたはどっかの図書館にでも勤めて、特定の誰かとつきあうでもなく、一生処女でいるつもり?」

 

「う、うん……べつにわたし的にはそれでも良くはあったんだけど……」

 

(ルークと実際にそうなってみるまでは)と言うわけにもいかず、ロリは口ごもって下を向いた。けれど、マリはロリが思っているのとはまったく違う解釈をしたらしい。

 

「ねえ、ロリ。わたしはルークのことも含めてね、男っていうのは基本的にくだらない生き物だと思ってる。わたし、この夏はルークともほとんど連絡すら取ってないわ。何分、生まれた時からほとんどずっと一緒にいるでしょ?だから、今は少しくらい距離を置くべき時なのかなと思って……でもあいつ、今たぶん女がいるらしいわ」

 

 ロリはギクリとするあまり、体が硬直するのを感じた。自分がルシファーにかどわかされ、禁断の果実を貪ったその罰を受けるべき時が来たのだと、そう直感されたせいかもしれない。

 

「女って……」

 

「わかるわよ。じゃなかったらあいつ、絶対自分から連絡取ってきて、あやまるなりなんなりして、セックスして仲直りしようとする奴だもん。ルークのママから、『独り暮らしをはじめた息子が心配云々』なんて話を聞いた時から、ピンと来てたわ。ルークの奴、単に相手がわたしじゃなくても定期的にセックスできる相手がいるから、今回は強気なわけよ。それが部屋に呼んで時々セックスするみたいな娼婦なのか、大学で出会った女の子かは知らないわよ。だけど、結局そんなの遊びでしょ?だからわたし、そういうことには目くじら立てる気はないの。それであいつがまた立ち直ってテニスをはじめるとか、もしそういうことなら、安いもんだなとすら思うわけ」

 

「う……うん。随分大人なんだね、マリ。わたしだったらたぶん……そんなふうには全然考えられないと思うっていうか……」

 

 ロリは突然視界が狭く、暗くなったようにすら感じた。確かにルークは、『自分から話すから、マリには絶対黙っていてくれ』と言った。けれど、彼だって当然知っていたはずだ。マリが大学の友人とクルージングに出かけ、いつからいつまで留守にするかといったことくらいは……。

 

「だって、わたしはルークのことならなんでも知ってるし、そんなの向こうも一緒でしょ?第一あいつ、なんで経済学部なんて選んだのかしらね。『なんの興味も持てないけど、将来のことを考えて』って、バッカじゃない?自分のやりたい学部を選んで、テニスはまあまずは趣味程度に楽しむとか、今はテニスのことは考えたくないとかだったら、全然べつの、自分の心が向かったことでもやればいいじゃないの。そしたらたぶんまた、テニスとも本腰で向き合えるようになるかもしれない。あいつほんと、一体何考えてんのかしらね」

 

「…………………」

 

 ロリは、ルークとの恋愛でここのところすっかり浮かれていた心が重く塞がれてくるのを感じた。確かにマリの言うとおりだった。ロリ自身は、ルークがテニスをしたくないと言うなら、それでいいだろうといった程度の浅い考えしかない。けれど同時にルークには『何かから逃げていて』、『その期間まったく別の癒しが欲しい』といったような印象というのがあって――実際、ルークが再びそうした輝かしい世界に完全に戻ったとすれば、自分という存在はむしろ不要なのではないか……そんな気さえしてくるほどだった。

 

「えっと、ルークには、ルークなりにきっと考えが……」

 

「あいつも結局、お金持ちのぼんぼん息子って感じの甘ちゃんだからね。打たれ弱いっていうか、なんていうか……まあ、そんなこと言ったら確かにわたしも本当の苦労を知らないセレブの金持ち娘ってことになるんだろうけど、わたしはそれでも、自分が本当に欲しいもののことはわかってるつもりなのよ。それで、そういうものっていうのはいくらお金をわたしが積もうと、手に入れられないといった種類のものなの」

 

「うん……マリは本当にすごいし、偉いよ。そういえば、今年のウィンブルドンもすごく白熱してたね。きっとルークも見てただろうし、彼もそのうちまた少しずつ、テニスと向き合うとかして……」

 

「ふふっ。べつにロリはルークの心配なんてする必要ないじゃない。それより、わたしと一緒に暮らすってこと、一度真剣に考えてみて。わたし、家事全般全部あんたに押しつけて、嫌なことがあればすぐ当たり散らすとか、そんなことだけは絶対しないから」

 

 このあとマリは何故か、ロリの両肩に手を回すと、チュッと軽く彼女の頬にキスして、どこか軽やかな足どりで階段を下りていった。ロリはルークからも、『ここで一緒に暮らさないか?』と誘いを受けていたが、母シャーロットのことが心配だという理由により断っていた。この時、ロリは反射的にルークに電話をし、「今、マリと話したんだけど……」といったようにすっかり告白してしまいたい衝動に駆られた。けれど、ギリギリのところで思い留まった。いずれ、マリにもすべてのことがわかってしまう日がやって来るだろう。それでももし、『マリに話そうと思ったけど、やっぱり話せなかった』というように、ルークが先延ばしにし続けるのだとしたら――自分の彼に対する今ある信頼感もすっかり損なわれ、失われていくということになってしまうのだろうか。

 

(ルークのことを信じたい。でも……)

 

 そう思う一方で、マリの信頼をこの上もなく裏切ることになると思っただけで、(ああ……っ!)と、ロリの心は秋の枯葉のようにすぐさましなえそうになった。ルークの浮気相手が自分とも知らず、『これからも一生友達でいたい』どころか、『一緒に暮らさない?』とすら言ってくれたマリ。今後何があっても、自分のマリに対する友情、友情に伴う忠誠心は永遠に変わることなどありえない――そんなふうに無邪気に信じられていた日々は終わってしまったのだ。そしてそのことは、ロリが当初想像していた以上に……青春の終わりを予感させる、とても悲しい出来ごとだった。

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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