【十字架を担ぐキリスト】ヒエロニムス・ボス
>>神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(ヨハネの手紙第一、第4章9〜10節)
このことは書こうかどうかちょっと迷ったのですが、前回引用させていただいたダミアン神父の「二つの勲章」という本の中には、第9章に「神はわたしを見捨てた!」という章があります
本の目次のほうを最初に見た時――わたし、一瞬こう思ったんですよね。「あのダミアン神父でも、そのように感じたことがあったのだろうか」みたいに。でも実際に読んでみるとそうではなく、それはハンセン病となり家族から強制的に引き離され、モロカイ島へ行くことになった女性の、魂と涙の叫びでした
>>ハンセン病であると診断された人々は、まずホノルルに連れて行かれ、そこからモロカイ島に送られるのであった。患者たちを乗せた船が出るとき、ハワイ島の港には、うめき声とすすり泣きしか聞こえなかった。送る者にとっても、送られる者にとっても、別れの辛さは同じだった。
(神よ、この声を聞いてください。これを見てください。なぜこんなむごいことをお許しになるのですか?)
そんな光景に接するたびに、ダミアンは血を吐く思いで祈った。彼は船が出るたびに、港へ行った。モロカイ島へ行く人々に、最後の祝福を与えるために。
その日もホノルルに向かう船を送るため、ダミアンは港へ行った。いつもと同じように船の甲板は、涙と泣き声に満ちていた。ダミアンは、人々に祝福を与えて回った。そのとき、うずくまっていた一人の女が顔を上げて、ダミアンを見た。はっとするほど暗い目の色であった。彼女はダミアンの教会の信者で、毎日花を飾り、祭壇が美しいようにといつも細かく気を配ってくれていた。ダミアンは、胸のつぶれる思いだった。祝福を与えようと上げたダミアンの手を、女は払いのけた。
「祝福なんていらない、カミアーノ。わたしは、もう祈ろうとも思わない」
「なぜ、そんなことをいうんだ?」
女は、流れる涙を拭おうともせずにいった。
「神がわたしを見捨てたから。神がわたしを先に見捨てたから、わたしも神を見捨てるのです。カミアーノは、神が先にわたしたちを愛してくださった、といったけれどあれは本当ではなかったわ」
「違う。神は決してあなたを見捨てたのではない!」
女は首をふった。
「いいえ、カミアーノ。それじゃあ、どうして神父さんが一人もいない島に、わたしたちを送るようなことをなさるんですか?死んで行く人や、死を待っている病人には、神父さんが一番必要じゃありませんか?秘跡も受けずに死んでいく、わたしたちの魂の救いはどうなるの?カミアーノ、神さまは、もうわたしたちを見捨ててしまったのよ」
女はダミアンが授けようとしたご聖体も、拒んだ。
やがて、船は出ていった。が、ダミアンの耳には、あの女の悲痛な叫びが残っていた。
「神はわたしを見捨ててしまった!神がわたしを先に見捨てたから、わたしも神を見捨てる」
(ああ、神よ。この悲しい叫びが聞こえますか?イエスよ。十字架上で『わたしの神、どうしてわたしを見捨てられたのか』といわれたあなたには、信じていた神に見捨てられたと思う辛さが、誰よりもよく分かるはずなのに。なぜ、黙っていられるのです。何とかしてくださることは、できないのですか?)
心の中で、ダミアンは必死に祈った。
(「二つの勲章~ダミアン神父の生涯~」やなぎやけいこ先生著/ドン・ボスコ社より)
ダミアン神父自身もまた、ベルギーで家族と別れ、故郷からこれほど遠く離れたハワイまでやって来た人でしたから、家族から強制的に引き離され、次はいつ会えるかもわからない……という悲しみについては、よく理解されていただろうと思います。
そして、「神がわたしを見捨てたのだから、わたしも神を見捨てる」というこの女性の叫びは、彼女ほどの大きな悲劇でなかったとしても――人間が生きる限り、最低でも一度くらいは経験することでないかと個人的には思うんですよね。
かつてわたしもそのように感じ考えていたことがありましたし、ゆえに、理由や状況やそう思う人生経験は違っても、ある程度そう泣き叫びたくなる気持ちというのはわかる気がします。わたし自身はそうしたことを乗り越えてから信仰を持つようになったので、ある意味逆かもしれないのですが、イエス・キリストは確かに、すべての人から見捨てられた人でした♰
自分を慕っていた弟子からも民衆からも捨てられ、十字架上にある、あのもっとも苦しい時、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』(マルコの福音書、第15章34節)というあの言葉は、父なる神ともその背後に控えているであろう天使といった存在からも完全に断ち切られ、まったく孤独にこの世に打ち捨てられたことを意味するものでした。
肉体的な意味では、まわり中を敵に取り囲まれ、助けてくれる者もなく、それでも他の人間であれば……いるかいないかわからないにせよ、逆にそれであればこそ縋れる神がいるというのに、イエス・キリストは唯一信じる御父なる神からもこの時、完全に捨てられてるという究極の孤独を味わわれました。
そして、それゆえにこそ、地上でもっとも悲惨な境遇にあり、孤独に打ち捨てられた者のことですらも助けられる――と、信仰上そう信じられているわけですが、日々ニュースなどを見ていると「そんなことはとても信じられない」という現実が山のようにたくさんあります。
こうした信仰上の矛盾について、ダミアン神父は誰も行きたがらないモロカイ島へ自ら渡ることによって解消されたように思われるのですが、キリスト教信者の難しいところは、誰もがダミアン神父のように熱い信仰に燃えて行動できるわけではない……というところにあるような気がします(言うまでもなく、わたしもそうです^^;)。
でも、一応頭ではわかっているわけです。「十字架刑」にかかった時、イエス・キリストは絵画でのように下半身にせめてもの下着を身に着けているということもなく、完全に裸のまま、手や足を釘で撃ち抜かれて十字架に上げられました。ようするに、「こんなにも悲惨で惨めな奴が<神の子>であるなどということが到底あるものか」ということなわけですが、信者たちはそれであればこそ、イエス・キリストが我々のために耐え忍んでくださった恥辱、苦しみ、悲しみ、孤独、この上もない肉体上・霊魂上の悲惨さを思い、その御足に口接けし、その後ろ姿に従おうと心に決める――という、そうしたことなわけですから。
人生では人に裏切られることもあれば傷つけられることもあり、その他名状しがたい、なんとも言えない悲惨や孤独を経験するということが、誰しもあります。けれど、イエス・キリストはもっと孤独で悲惨な思いを十字架上で味わわれたのだ……ということに支えられ、信仰者たちは時に落ち込みつつも、再び涙ながらに立ち上がる、ということを繰り返すわけです。
また、イエス・キリストが十字架におかかりになり、その三日後に復活されたこそ、イエス・キリストを信じる者にだけ与えられる<聖霊の助け>というものがあります。時々、映画の中などで「父と子と聖霊の御名によって」といったように語られることのある、その「聖霊」です。毎年、聖霊降臨祭(ペンテコステ)の時期になると、日本でも時折外国のニュース経由でそのことを聞くことがあるかもしれません。これはイエス・キリストが地上での救世主としての役目を終え、天へお帰りになるその前から、信者たちに与えられると彼自身が約束してくださった霊であり、わたしたち人間がうめき苦しむ時、ともに苦しみうめく思いを味わい、神さまにとりなしをなしてくださる助け主としての霊、聖霊です。
>>御霊(聖霊)も同じようにして、弱い私たちのことを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章26~28節)
ダミアン神父が、モロカイ島へ行くことを決めることになったあの女性ですが、彼はなかなか彼女のことを見つけられない中、ようやくのことで再会を果たしていました。
>>ダミアンがモロカイ島に来て、七ヵ月あまりたった。眠る時間を割かなくてはヨーロッパに手紙を書けないほど、彼は毎日忙しかった。
だがそんな日々の中で、いつもダミアンの心を離れない、一つの気掛かりがあった。それは、彼にモロカイ島行きを決意させた、あのハワイ人の女の消息が、ようとして知れないことであった。
ダミアンが来たとき、ここには八百人の患者がいた。今は、七百人余りの患者が生活している。そのほとんどを、ダミアンは知っているつもりだった。だが、彼女には一度も会っていなかった。もちろん、ミサに来たこともない。モロカイ島に送られるハンセン病患者の平均寿命は、三年から四年である。
「もしかしたら、僕が来る前に死んでしまったのかもしれない」
と、ダミアンは思った。だが、そうだとすれば、憐れだった。彼女は神に見捨てられたと思い続けて、絶望の中に息を引き取ったのであろうか?あのときの暗い目を、ダミアンは忘れることができなかった。
【中略】
「カミアーノ、すぐ来てくださいな。死にそうな女の人がいるのです。カトリック信者です」
ダミアンは、書きかけの手紙をそのままにして、すぐに立ち上がった。
「場所は?」
「わたしの家です」
ダミアンは、聖油と聖水(祝福された特別な水)を持って彼女の後を追った。女は小走りに道を急ぎながら、いった。
「一週間前に見舞ったら、とても弱っている様子なので、無理にわたしの家に連れて来たんです」
「どうしてカトリック教徒だとわかった?」
「自分でいったんです。カミアーノを呼んでほしいって。今まで彼女がカトリックだということは、知らなかったんです。小さな家に一人で住んでいて、ほとんど誰とも口もききませんでしたから」
女の家の前には何人かの患者がいたが、ダミアンの姿を見ると、ほっとしたように道を開けた。中に入って、すみの床の上にマットを敷いて横たわっている病人を見たとき、ダミアンは自分の予感が当たっていたことを知った。鼻も耳もほとんど穴だけになるほど変形が進んでいたが、それは彼が探し続けていた、あのときの女であった。
ダミアンが近づいたのを気配で悟ったのか、女はうっすらと目を開けた。
「ああ、カミアーノ、来てくれたんですね……」
ダミアンは、木のこぶように固い女の手を、優しく握りしめた。
「ここにきてから、ずっと探していたんだよ。どうして教会に来なかった?」
「二度と祈るまいと、心に誓っていたからです。神さまを恨み続けていたからです。カミアーノのことを、みんなが話していました。カミアーノが来てくれたのを、みんながどんなに喜んでいたか……」
しわがれた声でいって、女は目を閉じた。涙が土色の頬に筋を引いた。
「でも、わたしは行かなかった。もうわたしとは、違った世界のことだと思っていたから。それなのに、最後の時になったら、やはりカミアーノに祈ってほしいと思いました。カミアーノ、神さまはわたしを許してくださるかしら?こんなに長い間、神さまを恨んで、神さまから離れていたのに」
「もちろんだよ」
と、ダミアンは大きくうなずいた。
「きみは神さまから離れていたんじゃあない。祈るまいと心に決めてから、どんなに苦しかったろうね。言葉にはしなくとも、その苦しみは立派にきみの祈りだよ。だから、何にも心配しなくていい。安らかな気持ちで天国へ行きなさい」
女は安心したように、にっこりした。
「ああ、カミアーノ、神さまってよい方ですね。わたし、いま本当に幸せです。いつまでも神さまに意地をはっていなければ、もっと早く楽になれたのに。カミアーノ、神さまはわたしをお見捨てにはならなかったわ。あなたが、それを証してくれました。ありがとう、カミアーノ」
目をとじてしまった女の膿のにじむ額に、ダミアンは聖油で十字をかいた。女はそれきり目を開かず、明け方に息を引き取った。死に顔は、安らかそのものだった。
(「二つの勲章~ダミアン神父の生涯~」やなぎやけいこ先生著/ドン・ボスコ社より)
ダミアン神父も、仲の良かったお姉さん、それにお父さんやお母さんの訃報に接した時など、気持ちが落ち込まなかったということは絶対ないと思います。また、せめてもその前に一目会いたかったとの思いもあったのではないでしょうか。けれど、天国へ行けば両親にも姉にも会えるのだと、そのことが唯一のダミアン神父の心の支えだったのだろうと、クリスチャンの方にとってはあまりに当たり前のことかもしれませんが、本当に死後の天国こそ永遠の現実なのだと、心からそのように信じてやみません
それではまた~!!
惑星シェイクスピア-第三部【15】-
「それでは、そなたらの国の星神・星母の神のお導きによって、わざわざこちらへやって来たと申すか?」
一通りの王に対する儀礼の言葉のやりとりがあってのち、岩石を加工して出来た椅子の、豪華な絹地に金糸織りの布がかかった上に腰掛けつつ、リッカルロがそのように聞いた。驚いたことにはこの時、リッカルロは口許の布覆いを外しており、そのことにはギべルネスもキャシアスも多少なり、それぞれ動揺したといってよい。ただひとり、ディオルグだけが顔色をまったく変えなかったが、それは彼がもともとリッカルロの幼少時を知っているからではなく――ディオルグはそもそもそうした性格なのである。
また、リッカルロが布覆いを外して会見したことにはある意味があった。そもそも、彼がそのように顔の半分を隠すのは、婦人らに対して失礼のないようにとの配慮であって、その場にいるのが男だけであればそうした遠慮はいらぬこと、特にそれが初対面の相手であれば、その時に見せた微妙な態度によって――相手がどの程度の人物なのかが直感的にはっきりわかるという、そのせいでもあった。
この三人の中で、キャシアスの見せた態度が、リッカルロには一番わかりが良かったと言えるだろう。第一印象として『口が裂けているとは聞いていたが、ここまで醜いとは気の毒な……』と、そうしたある種のやましさにも似た視線をしてしまい、次の瞬間にはそのことに対し相手に申し訳ないと感じ……その顔の表情だけでも、リッカルロにはこのキャシアスなる僧が、善良な人間であることが見てとれた。一方、リッカルロにはギべルネスの見せた態度というのは、微妙に理解しがたいものだったと言える。何分、らい者の腐った嫌な臭いのする患部でも、嫌な顔ひとつするでもなく治療する――とは聞いていたが、ギべルネスの顔の表情からリッカルロが感じ取ったのは、彼がこれまでどのような人物からも感じたことのない、深い憐みの情だったからである。
リッカルロは小さな頃から『あれまあ。なんて可哀想な……』とか、『本人が悪いわけでもないんだろうに、気の毒な』といった哀れみの視線に出会うことには慣れていた。だが、彼がこの時ギべルネスの眼差しから感じたのは、それすらも越えた、彼自身今の今まで向けられたことのない深い憐みの情であるような気がしたのである。そして彼はそのことについて(なるほど。この人物は確かに、並々ならぬお人であるようだ)と、直感的にそのように感じていた。
もっとも、リッカルロにこの時、ギべルネスが何をどう感じ考えているかなど、わかるはずもなかったろう。というのもギべルネスにはリッカルロの顔を見た瞬間から――この口裂け王とも呼ばれることのある王が、<口唇口蓋裂>であるとわかっていたからなのである。彼は美容形成外科医となってから、そうした子供たちの形成手術をしたことが何度もある。経済的問題から手術に踏み切れずにいる患者の両親には、無償によって手術することを申し出たことすらあった。それゆえに、よくわかっていた。この先天的奇形によって生まれた子供がどのようなことで悩み、その両親や家族も本人のことを思い、いかに苦しむかということも……。
ギべルネスはこの時、一瞬にして、宇宙船カエサルの手術設備のある医療ルームにて、リッカルロに麻酔をかけて手術する自分の姿さえ思い浮かべていたのであるが――そのような夢想が数秒にして破られると、この東王朝の王さまに対する計り知れない尊敬の念が湧き上がってきた。というのも、王族でありながら、このように自分の素顔をさらすことさえ臆することなく、堂々とした態度を保ち続けられるなど、並の精神の持ち主でないということが彼にはよくよく理解されたからである。
最後にディオルグであるが、この無骨で無口な武士は、王に対して失礼にならぬ程度の態度で挨拶してみせたとはいえ、それ以外ではなんの感情もないかのように、まったくもって無表情だったものである。また、リッカルロのほうでも実に不思議であった。というのも、少しくらい彼のほうで『かつて昔、我らの間にはそのようなことがありましたね』と、懐かしむような顔の表情くらいするのではないかと想像していたのだが……ディオルグは『あなたさまとわたくしの間には、一切なんの関わりあいもございません』とでも言いたげな態度だったからである。
「はい……もし、星神・星母の導きなくば、我々がこのように国境を越え、王さまの土地へやって来ることはありませんでした。ただ、『らい者を癒すためにリノヒサル城砦へ行け』といったように……夢とも現つともわからぬ世界で語りかけを受けまして、なんにしても神の言葉に聞き従うのであれば旅の安全も守られようと、このようにやって来たのでございます」
キャシアスはリッカルロ王の御前ということで恐縮しきっていたし、隣のディオルグのほうをちらと見ても、彼がむっつりだんまりを決め込んでいるのを見て――ギベルネスは不本意ながら、そのように申し上げていた。具体的にらい者たちが癒されている以上、こう語ったところで何かの咎めを受けるとは思われなかったし、まさか、魔術を使ったかどで処刑されることまではあるまいと思われた。
「その……俺は思ったのだがな」と、リッカルロは落ち着かなげに石のテーブルを指で叩きつつ言った。最初に会った瞬間から感じていたのだが、このギベルネという医師のことが、リッカルロは妙に気になった。こうした感覚を覚えるのは彼にしても珍しいことだったが、何か気圧されるものさえ感じるところがあったのだ。「俺はここのリノヒサル神殿に住まう聖女リノレネに、まだ王子であった頃、いずれ自分がこの国の王になること、またその時結婚したいと望む女性のことでも悩んでいたのだが、その娘と結婚して何も問題ないとも言われ……事実、今そのようになってもいるのだ。それは俺がそれと望んで簡単にうまくいくようなことでもなかったため、確かに天上の神リノルから予言の言葉を受け取るという聖女リノレネには心から感謝している。そこで思うのだがな、西王朝でもっとも権威を持つと伝え聞く、その星神・星母の神というのは、かなりのところこの天上の神リノルと同一人物……いや、俺にもうまくは言えないのだが、少なくとも同族の神、同じ繋がりを持つ神々なのではないかという気がするのだが、どうなのだろうか」
「そうですね。私もそう思います」と、ギベルネスは、自分の思うところを率直に語った。あれから一応、『星母神書』やその他の神学書などを苦労して読破していたギベルネスであったが、それでもこの宗教の専門家としてはディオルグやキャシアスのほうが遥かに上だとわかっている。だが、キャシアスは王に対する恐れからおいそれと口を聞きそうにないし、ディオルグがだんまりを決め込む覚悟であるともわかっていた。そこで彼はこれも不承不承ながら、<神の人>としてそう答えざるをえなかったわけである。「というより、こちらの土地の砂や土を踏む前からそう考えていたわけではありません。ただ、リノヒサル神殿にて、聖女リノレネから神の託宣を受けた時に……おそらくそうなのだろうと思いました。とはいえ、私はそのことに関して聖女リノレネと神学的議論を戦わせたということでもありませんし、お互いの間にある聖典になんと書かれてあるかといったことも、実は問題でないのだろうと感じたのです。つまり、神は霊であり、その言葉を人間に理解できるよう伝えようとする時……そこにはおそらく、誤訳と言いますか、神の言葉は完全ですが、それを理解する人間が不完全であるがゆえに、人間の限界ある頭や心によって理解し、それを言葉で書き記そうとする時に――いかに最善を尽くそうとも、多少の誤りはどうしても含まれてしまうものなのではありますまいか。神は、西王朝にも東王朝にもそれぞれ、呼ばれる名こそ違いこそすれ、同じようにお現れになったのです。つまり、大切なのはそうしたことなのではないでしょうか」
「うむ」と、リッカルロは頷いた。テーブルを叩いていた指が止まる。「ギベルネ殿、もしかしたらそなたらには不思議に思われるかもしれないが、俺は西王朝の国の文化といったものに強い興味を持っている……ゆえに、こちらで捕えた捕虜や間者らから話を聞いていて思うに、星神・星母への信仰といったことには興味があるのだ。つまりだな、こちらの東王朝では簡単に言えば神の数が多すぎる。毎日が、鍛冶の神やら錠前の神やら石工の神やら……その他守護天使や聖人の日に当たっているため、こういってはなんだが、神といっても何やらあまり有難みがないのだな。いや、俺は乞食の守護聖人の日には彼らに施しものをする決まりになっていたりと、文化としてそうした風習は好きなのだ。とはいえ、そちらの<星母信書>を読んだりすると、俺としては驚くものがあるわけだな。ほら、たとえば『自分で作った石像の神を拝んでなんになる、火にくべれば燃えかすになる木像を彫刻して「嗚呼、我が神」などと拝んで何になる。そんなものは神でもなんでもない。我らを創りたまいし星神・星母である神々をこそ敬い拝め』と書いてあったりするだろう?となるとだな、俺は東王朝の王である以上、西王朝で最高神として崇められている神や神々がもし色々と納得するまで調べて、そうとしか思えぬという結論に至ったとした場合……非常に都合が悪いということになる。だがもし、リノヒサル神殿の天上の神リノルが、そなたらの言う神とどうにか同族ということであってくれたとしたら……俺自身もこの国の民らも救われると思うのだ。そのことについて、そなたらはどのように思い、考え巡らすものだろうか?」
ギべルネスはこの時、非常に心苦しい思いがした。というのも、結局のところどちらの神も、本当の意味では神でないなどとは――そんな真実を口にすることは出来なかったからだ。だが、直感として、聖女リノレネから託宣を受けて王になったことから見ても、リッカルロ王もまた、精霊型人類である彼らに気に入られているのではないかという気はしたわけである。
「西王朝においては、その人それぞれに、その人のことを守護する運命の守護星があると信じられています……ですが、私が思いますのには、物事には運命や宿命といった本人にもどうにも出来ない問題がある一方、努力や本人の才覚によって変えていくことの出来る部分も多分にあるものだと信じております。そして、そのような者をこそ神は喜ぶ……人が生きるとは、そうしたことなのではありますまいか」
「確かに、そなたの言うことはもっともだ」と、リッカルロは首肯すると、再びテーブルを音もなく叩きはじめる。彼としては時間があるのならば、もっとこうした議論を続けたくはあるのだ。だが、今はそれよりも他に気になることがあった。「実はな、俺がこうしてはるばる王都からここまで巡幸の旅をしてきたのには、ある理由があってのことだったのだ……」
「リッカルロ王が来られること、ギべルネ先生への聖女リノレネの託宣にて、我々も先に聞きましてございます」と、キャシアスが思い切って言った。というより、彼としては<神の人>ギべルネの存在感をそのことで際立たせたかったということがある。「また、その託宣によりますれば、今後、リッカルロ王はこれから西王朝の王となるハムレット王子と和平条約を将来的に結ぶことになると、先生よりお聞き致しました」
「ふうむ……こう言ってはなんだがな、こちらからも西王朝の王都テセウスへは間者を潜り込ませてあるのだ。その間者の報告によれば、クローディアス王にはレアティーズという息子がひとりいるきりだと、そのように聞いた気がするのだが……」
「賢き王のこと、そのクローディアス王が拷問を趣味とする残虐な王であることは、おそらくすでにお聞きおよびのことでございましょう」と、キャシアスに重要な国の外交を任せられないと思ってか、ディオルグが初めて口を聞いた。「ハムレット王子は、このクローディアス王の亡き兄、エリオディアス王の息子なのです。クローディアスは兄王のことを人にそれと知られることなく毒殺すると、その息子であるハムレット王子のことも手にかけようとしました。ですが、そこを忠実なエリオディアス王の家臣ユリウスが救い、まだ赤ん坊であったハムレット王子のことを連れて逃げたのです。その後、王子は自分の父や母が誰とも知らず、ヴィンゲン寺院にて十六歳になるまでお育ちになりました。そこへ、星神・星母の使いが現れ、僭王クローディアス王を斃して王となれと、ハムレット王子に託宣が下ったのでございます」
「なるほどな……」
この時、リッカルロは一瞬にして様々なことに対して思いを巡らした。また、ギべルネスにもキャシアスにもディオルグにもそのことがよくわかっているため、暫し押し黙ったままでいた。
「このことに関して、俺はおそらく一国の王として、今軽々しくそなたらと何か約束したりすべきではないのだろうな。というより、俺には大臣としてもっとも信頼する臣下がふたりいるのだが、そのような約束を王の名において勝手にしたと彼らが聞けば、きっと怒り狂うことだろう……とはいえ、そのハムレット王子とやら、神から託宣があったというのは大変結構なことだが、先ほどギべルネ先生がおっしゃったとおり、その神の言葉が成就するまでには本人の努力といったことも必要不可欠なのは間違いないところだろう。して、勝算のほうはあるのか?」
リッカルロは一国の王として、あえて人間的な聞き方をした。彼としては、ディオルグにかつて自分が幼き頃、命を助けられたことに対し、先に礼を言いたい気持ちがあった。だが、それではそのことと引き換えして、そのハムレット王子を助けるか、あるいは将来的に和平条約を結ぶと、今ここで約束してしまうことになるだろう。それでは良くないということが、ディオルグにはよくわかっているのだと、リッカルロは直感的にそう感じた。
「ございます」と、ディオルグは迷いなくそう答えた。「元より、それが星神・星母の御心ならば、ハムレット王子はどのような道筋を通られようとも、必ず西王朝の王となられることでございましょう。とはいえ、戦争に犠牲はつきものでございますゆえ、その点においては我ら家臣が奮起するしかありませぬ」
「そうか……」
この時、リッカルロとディオルグは目と目がしっかりと合った。そして、その一瞥だけでリッカルロは次のように理解していたのである。過去におけることにおいて、特段自分に対するなんの礼もいらぬこと、褒美も欲しくないこと、故郷を追われるようにして隣国へと渡ったものの、そのことを決して不幸と思ってもいないということなど……いや、そこまでのことは流石に勝手な想像力が過ぎるというものだったろうか?だが、この時リッカルロは、そんなディオルグでも喜ぶのではないかと思われる、あるひとつの提案をすることにしたのである。
「そういえば、先ほどふと思いだしたのだがな……やはり西王朝において最上神とされる星神・星母の神というのは、呼び名こそ違いこそすれ、天上の神リノルと同族なのかも知れぬな。そうだった、俺は今から約四年ほど前、西王朝へ攻め入り、その際にティーヴァス城塞にいたらい病患者たちや戦争で傷ついた傷病兵らをこちらのリノヒサル城砦へと移した時、聖女リノレネよりやはり言われていたのだ。今から約四年後、西王朝で内乱が起きるが、その時を好機とばかり隣国へ攻め上ってはならないと……そもそも、四年前の戦争にしてからが、俺の本意というわけではまるでなかった。というより、はるばる砂漠を越えて西王朝へなど行きたくもなかったのだが、先代のリッカルド王、つまり俺の親父だが、王の命令で仕方なく戦争へ出向いたようなものだった。また、多大な犠牲を払って攻め込む以上、それ相応の戦果を得ねば、兵士らにも申し訳が立たん。結局のところ、なんのために莫大な金をかけて戦争をしたのかもわからんような結果しか得られなかったわけだが、今、もしかしたらおぬしらのために、それが多少の役には立つやも知れぬ」
「……と、申しますと?」
一瞬、場がしーんと沈黙に支配されたため、キャシアスが咄嗟にそう聞いた。
「おぬしらに、これから王都へともに来いというわけにもいかないのであったとすれば……どうすれば良かったであろうな。俺と、俺の信頼する参謀ふたりとで、これまで西王朝と行われた戦争の資料を調べ、色々と策を練りに練ったわけなのだが、まあまず我々はアル=ワディ川が枯れる頃合いに戦争を開始した。ゆえに、もしハムレット王子がアル=ワディ川が氾濫する雨季に戦争をはじめるというのでなかったら、バロン城塞の堀を渡るのに使った木道を貸してやろう。いやまあ、貸すなどと言っても返す必要はない。また、運搬のための兵士らも国境付近まで与えよう。そこから先は、ハムレット王子の軍の誰かしらに持っていかせればよい。どうだ?もし星神・星母の神や天上の神リノルが同じ同族の神であるとするならば、俺のことをこの国の王として立てたその神々の託宣に、この俺自身もまた逆らうつもりはない。とすれば、このハムレット王子の軍に対するささやかばかりの贈り物が、将来和平条約を結ぶ第一歩ということになりうるのではないか?」
「あ、ありがとうございます……!!」
そう礼の言葉を真っ先に口にしたのはキャシアスだった。彼はこの偉大な王の贈り物に心底感動していたのであるが、ギべルネスからもディオルグからもなんの反応もないため、一瞬(あれ?)と思い、ふたりのことをきょろきょろ見返していたほどである。
「では、そのためには我々三人の中で誰かひとり、残らなければならないでしょう」と、ギべルネスは顔には出さなかったが、喜びとともにそう言った。「そのためには、ディオルグ、あなたが一番の適任者だと思いますよ。これから私とキャシアスは西王朝のほうへ戻ります。そして、このことをハムレット王子たちに伝え、ティーヴァス城塞近くにまで、素晴らしいそのリッカルロ王の贈り物を受け取るための兵を派遣させましょう」
「…………………」
ディオルグはこの瞬間も黙り込んでいたのであったが、それまでとは様子がまるで違った。彼はなんと――右腕を目頭に持っていくと、忍び泣くようにして静かに涙を流していたのであった。
「リッカルロさま、ご立派になられて……!!」
「いや、ディオルグよ。そなたあってこそ、今の俺がいる」と、リッカルロもまた、瞳に涙を滲ませて言った。「実に不思議なことなのだがな、ここへ来る前に、ずっと忘れていたある夢を見たのだ。俺は母上のことはずっと肖像画でしか覚えてはおらなんだが、母が死んだ時のことと、そなたが自分の命を懸けてオールバニ公爵の元まで連れて来てくれた時のことをな……大体のところ思いだした。何分、俺は今はもうこのようにして王ともなり、愛する女性と結婚して跡継ぎにも恵まれた。それゆえにな、少しばかりわかるところがあるのだ。今よりもっとずっと早い時期に母上のことを思いだしていたとすれば、それは俺の心に深い傷として残り続けたことだろう。だが、人の子の親ともなった今――どう言ったらいいか。とにかく、何かが耐えられるというのか、そのような心境へ至ることが出来た時に思いだせて……今は本当に良かったと思っている。母上のことは確かに悲しい記憶ではあるのだが、それでも俺は彼女に愛されていたのだとも感じることが出来たし、何よりディオルグ、おまえのことを思い出せて良かったと思っている」
「…………………っ!!」
ディオルグが嗚咽を洩らして泣く姿など、ギべルネスもキャシアスも、今後もう二度と見ることはないだろうと思うのと同時――ふたりきりで話したいこともあるだろうと思い、彼らは一旦席を外すことにしていた。
こうして、バロン城塞攻略のための策略のパーツが、またもうひとつ埋まることになったわけだが、ディオルグはリッカルロとともに王都コーディリアへ向かう道々、バロン城塞攻略についてさらに色々と策を練っていたものである。というのも、リッカルロの話では「もし俺が何かどうしてもやむをえぬ事情によって次にバロン城塞へ兵を派遣するとしたら、必ずそれ以前に密偵を放ち、情報収集させ、内部の状態をよく知ろうとすることだろうな」ということであった。「つまりな、簡単にいえば内部に裏切者を作るのだ」と。
実をいうとこの点において、リッカルロとディオルグの意見は最初から一致していたのである。ディオルグはずっと、ロドリアーナにあるマリーン・シャンテュイエ城にて、ただ黙って軍事会議に参加していたわけだが――それはその多くが、城壁や胸壁の高さ、矢狭間の数、敵兵の数とその戦力についてなど、外的な力に対してどう対抗すべきかという部分に議論の多くが割かれていた。そんな中、その昔は敵軍の将のひとりとしてバロン城塞を攻略しようとしたこともあったからこそ、兵の数の多さに頼っただけでは、バロン城塞が陥落することはないと、ディオルグには痛いほどわかっていたわけである。
つまり、なんとしても内通者が必要だということなのだが、ディオルグはギべルネスとキャシアスと別れる前夜、ふたりにそのことを強く語って聞かせた。これから、ライオネス、ローゼンクランツ、ギルデンスターンと、砂漠の三州からも数万の兵士が馳せ参じてやって来るにせよ、ただ、それらの兵の数だけに頼るような戦略しか立てられていなければ、自分が戻るまで戦争をはじめず待っていよと、そのようにハムレット王子には伝えて欲しい、と……。
「サミュエル・ボウルズ卿はエリオディアス王に近しい人物であったからな、クローディアス王がボウルズ卿のことを排斥した理由は、そうしたところにもあったのかもしれぬ。とにかく、ボウルズ卿亡き今、バロン城塞の内部には新しく領主となった男爵殿に不満を持つ者が非常に多い。こうした不満が爆発していないのは、ひとえにクローディアス王の虐殺刑の犠牲になりたくないからだとも聞く……つまり、こうした不満分子と繋がることさえ出来れば――間違いなく、バロン城塞は内部と外部、その両方からの圧力によって必ず落とすことが出来る」
ディオルグと別れ、再び長く旅をしてティーヴァス城塞を通り、帰国の途へ着こうという時……キャシアスの様子がなんとも上機嫌であったため、ギべルネスはくすりと笑っていたくらいである。というのも、ティーヴァス城塞の門戸を叩こうかという時には、彼はすっかり青ざめた顔をし、心なしか震えているようにさえ見えたものだったのに……この時には逆にすっかり、憂いのない、前途に希望しか抱けぬ若者のような顔をして口笛さえ吹いているほどだったからだ。
「あれ?ギべルネ先生、今もしかして笑いました?」
「ええ、そうですよ。これから味方同士の国で戦争が起きるというのに……あなたが明るい顔をしているという、そのせいです」
「いやあ、もちろん戦争なんてこと、僕みたいな臆病者はびびっちゃってまるで駄目なんですけど」と、キャシアスは照れたように頭をかいた。「その戦争という、一番嫌な、おっかないところだけすっ飛ばしたとすれば――とにもかくにも、将来的にはもう東王朝が攻めて来ることはないんじゃないかって思うと、嬉しかったんです。これはタイスやカドールが話してたことなんですけど、クローディアス王の旧政権を倒せたら、新政権を樹立して新体制へ移行するまで、毎日眠る時間も惜しんで働かねばならんだろうとかって……でも、苦労のし甲斐はありますよね。僕、そうした色々な忙しさが通りすぎたら、もう一度この東王朝側の土地へやって来たいなあ。ほんの少しですけど、友達も出来たことですし……」
「そうですね」と、ギべルネスはもう一度くすりと笑った。「キャシアス、あなたはもうすでにリッカルロ王とも知りあいなのですし、次にはもしかしたら戦争を勝利に導くため、協力してくださったことを祝した贈り物を携えて、ここティーヴァス城塞の門を叩くことになるかもしれませんよ」
「そうだといいんですけどねえ……あっ、違いますよ。僕が今言ったのは、そううまく戦争に勝てりゃあいいのになあといったような意味じゃないんです。ハムレットが勝利することはわかっていますし、そう信じてもいます。ただ、リッカルロ王が僕のこと、覚えておられるかなあと思って。ほら、僕、ハムレットやタイスみたいな美少年ってわけでもないし、どことなく記憶に残らない、印象の薄い顔してるでしょ?」
「いえ、そんなことないと思いますよ」
「そうかなあ。まあ、そうだといいんですけどねえ……」
――こうして、ギべルネスとキャシアスは、砂漠を越え、西王朝側へ戻って来た。そして、ふたりがそこからグレイストーン城塞へ辿り着く前、バロン城塞を遠く望む森の端には、すでに仮の木造城砦が形作られつつあったわけである。
もっとも、あれから一月ほどしか経っていないにも関わらず、彼らがグレイストーン城塞へ戻ってみると、そこでは驚くべき光景がふたりを待っているということになるのであったが……。
>>続く。