(※清水玲子先生の漫画『月の子』のネタばれ☆がありますので、くれぐれも御注意くださいませm(_ _)m)
コミックス全巻持ってるファンの方でもたぶん、文庫版の第8巻に関しては、萩尾先生の解説目当てで買う――という方もいらっしゃるという意味で、文章あんまし載っけたりしちゃいけないような気がするものの(汗)、自分的に気になるとこだけポツポツ☆とm(_ _)m
清水玲子先生は、萩尾先生の大ファンとのことで、この解説の『月の子-サファイアを溶かしたような物語-』は、きっと読んでいて鳥肌が立ったり、涙がでたりされたのではないかと想像してしまいます
『彼女の絵は線の音楽だ』なんて、最大級の賛辞の言葉であると同時、長く清水先生のファンの方でも、「美麗な線」、「秀麗な造形」といったくらいの言葉はいくらでも思い浮かぶにしても――萩尾先生ほどズバリ清水先生の漫画の本質を詩的に表現できた方はおられないのではないでしょうか
>>彼女の絵は線の音楽だ。髪の曲線、魚の尾ひれ、水の流れ、血の滴り、幾重ものドレスのカーブ、レインコートの長い線。その曲線のものがたる、かたちのひそやかさ。美しさ。やわらかさ。ため息がでる。
そして、わたしが最初に読んだ時には「セツも無事卵を産めて、その子をティルトと名づけられてよかった」ということが、何よりの感動ポイントであり、重要ポイントであったため……他に、ティルトは最後どうなるのだろう、リタはどうなるのだろう、ジミーとアートは恋人同士として本当にうまくいくのかどうか――ということが気になっているため、チェルノブイリ原発事故であるとか、チャレンジャー号爆発とか、実は物語の背景にあることなどは、そんなに気にしていませんでした(何より、十代で、わたしの場合そんなにむつかしいことを考えてない馬鹿な子だった……というのが一番にあるにしても・笑)。
でも、今回は福島の原発のこともあるし、作品中では湾岸危機が回避されていた気がしますが、実際には9.11があり、イラク戦争があり、その前にコロンビア号空中分解事故があり(このことを、イラク戦争をすべきでないという<警告>と受け取った方は多かったと思います)、イランは再び核開発をはじめていたり……などなど、ジミーのいない「もうひとつの世界」を生きてるわたしたちは大変なわけですよね
また、萩尾先生の解説を読んでいてハッ☆としたのですが、わたし、1回目に読んだ時も2回目に読んだ時も、今回3回目に読んだ時も――「魔女とは一体何者か?」なんて、一度も考えつきませんでした(^^;)
どちらかというと、「こんな体、虫に喰わせるなり八つ裂きにするなり好きにするがいい」というティルトの言葉を聞いて、魔女などと取引した彼の末路が怖かったという、そちらに毎回気を取られていた気がします(あと、地球の環境汚染のせいで、セツは早死にすることになった……とか、そういうこともあまり考えてなかった気がする)。
でも、萩尾先生に>>「いったい、深海の魔女とは何者だろう?グラン・マのような、長寿の人魚族なのだろうか」と問われると、ちょっと「う゛~ん」と考えこんでしまいますよね。自分的には、たぶんきっと――人魚族、あるいは別の種族であるにせよ、なんらかの事情によってその一族から追放された、早い話がセイラのようになんらかのタブーを犯して排除された存在だったのではないか……という気がします。だから、ティルトが案内を受けたあの、醜いコボルト……う~ん。コボルトではないか(笑)。あの醜いモンスターっぽい存在も、同じように追放・排除された者だったのではないかと。
つまり、簡単な予測としては、魔女もこの魔女の手先っぽいモンスターも、かつてはセイラほどでなかったにしても、元はきっと美しかったのが、ギリシャ神話のメデューサと似た理由によって海の底、滅多なことでは人の近寄らぬ深海で生き延びることになってしまったのではないか……何かそんな気がするというか(きっと彼女たちには彼女たちで、とても悲しい酷い物語があったのだろうと、そんな気がする)。
>>ずっとティルト(ギル)は魚を殺して、セツとジミーを養っていた。人魚族にしてみれば一種の共食いだ。そしてジミーは魚がかわいそうと言う。〃ティルトよく平気で殺せるねえ。ぼくはこわくてだめだなあ〃
ティルトの殺した魚を食べて生きていながら、自らの手を汚さないジミーの、あまりに無神経なティルトへの批判。〃絶対に許さない〃というティルトの怒りは当然だ。そして――私はこのジミーの幼さを笑えない。ジミーに、心やさしい現代人の姿が重なるのだ。
そうなんですよねわたしも一番最初に読んだ時には、ジミーの無神経っぷりに驚き、ティルトが「絶対許さない!」と思う気持ちが、痛いほどよくわかったものでしたでもその後、2回目、3回目と読んでくると、「ジミーって実はわたしのことじゃない?」ということに気づいてくるという(^^;)
>>しかし、待て!ここに至って邪魔者が登場する。リタ!リタだ。大柄な女性。大地の母のような恰幅の良さ。ギルを愛する女性。
彼女はギルを殺す。泣きながら。
〃もう悪いことをしてほしくない〃と。
まるで、地球の母性――ガイアが魔女と契約したギルを排除するかのように。しかし、リタは正気か?盲愛に目を眩ませてはいないか?
わたしの頭の中にはガイア=リタといった図式は存在しませんでしたが、流石萩尾先生!と思います確かにあのリタのガタイの良さ……という言い方は女性に対してなんですが(笑)、あの大きな包容力は大地母神ガイアといった感じがします。
そして、最初の時には全然そんなことなかったんだけど(一体どうなるのか、ドキドキハラハラ☆していたから)、3度目ともなると、何故かリタが登場するたびに笑ってしまったり……いえ、リタ大好きなんですけど、ティルトの横にいて、読者がまったくイラつかない女性という意味でも、本当に見事な人物造形と思うのです
2回目に読んだ時から相当経っているため、「そういえばギルとリタって最後どーなるんだっけ?」と思ったりしたのですが、偽りとはいえ「愛している」という彼の言葉を信じれた彼女は幸せでなかったかと思いますし、またギルの罪というのは確かに、リタの愛によって浄化された部分があったのではないか――と思ったりもするわけです(^^;)
そして、『月の子』は最後、ある意味<夢オチ>で終わるわけですけど、大抵の場合、その漫画なり小説なり映画なりが「夢オチで終わる」と聞いた場合……人が連想するのは「駄作なのか?」という疑いかもしれません。でもわたしは、最初に読んだ時、人類が火星に到達し、有人探査を行なったというジミー側の世界を信じましたし、実際のところ「なんでもいいから、ジミーとアートが幸せになって良かった」くらいな感じだったんですよね。
2回目に読んだ時も、このあたりのことはそんなに深刻に考えなかった気がする。でも今回、この夢オチかもしれないラストが、ずーん☆と胸に重く迫ってきたのは――9.11や東日本大震災が起き、自分たちは明らかにジミーのいない側に住んでいる……ということが、如実にくっきりはっきりわかってしまったからだ、といったような、そんな気がしています。。。
ですから、わたしがまたかなり時が経って再び『月の子』を再読した時、チェルノブイリ原発事故も、パルメ首相暗殺も、ネバドデルルイス火山噴火も、チャレンジャー号爆発も……その後実際に起きたなんらかの別の事件や事故、天災を連想させることによって、1986年前後が仮に舞台になっているにせよ、『月の子』という作品はまったく古びることなく新しく甦りくる作品である――と、そのように思うわけです。
名作は滅びないと言いますが、人魚たちが地球に戻ってくる周期があるように――わたしもやはりまた再び、「読みたい周期」が巡ってきた時、4度目に1から『月の子』を読み返していることだろうと思います。そしてその時にもおそらく、1~3度目に感じたのと同じ、この上もなく完璧な、素晴らしい愛の物語……そう思いながら、感動とともに本を閉じることに変わりはないでしょう
それではまた~!!