(※萩尾望都先生の文庫本『アメリカン・パイ』のネタばれ☆がありますので、くれぐれも御注意くださいませm(_ _)m)
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初めて聴いたのですが、すごくいい曲だなって思いました♪
ただ、歌詞の意味がよくわからなかったので、少しググって調べてみたのですが……すごーく深い意味がこもってるらしく、ある程度大体「こーゆー感じのことなんじゃないかな 」とわかるといった、そんな感じだったと思います(^^;)
たぶん、萩尾先生の漫画の『アメリカン・パイ』と関係があるとしたら――歌詞の中の「音楽が死んだ日」は、1959年2月3日のことで、この日、バディ・ホリーとリッチー・ヴァレンス、ザ・ビッグ・ボッパーの三人は飛行機事故で亡くなったというところ
そして、バディ・ホリーの奥さんはこの時結婚したばかりで妊娠6か月だった……作中のリューもまた、治らない心臓病で、いつ死ぬかわからない中、生きる意味を求め彷徨っている。そんな彼女が何度も口ずさむ歌が『アメリカン・パイ』。
簡単にいうと、「人生の無常」ということだと思うのですが、心底心配しているフランスの両親の元を逃げだし、ローマ、カリフォルニアを経て、最後にフロリダへ辿り着いたリュー。そこで、売れないミュージシャンをしているグラン・パにリューは拾われます。
ステージで歌を歌う間、なんともいえず生き生きしているリューですが、でもそれは彼女の体力を奪い、病気のために息も絶え絶えといった状態へリューを追い込むことでもありました。「生きている充実・充足感」と、「死への恐怖」が隣あわせになっている。けれど、そんなふうにもっとも強く「死」というものを意識している時こそ……人は魂を一番深いところから輝かせることが出来るのかもしれません。
『アメリカン・パイ』の歌詞の中には、エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ビートルズ、ローリング・ストーンズ……といったミュージシャンを思わせる歌詞がありますが、その中のひとりにジャニス・ジョプリンがいます。彼女はいわゆるトゥエンティーセブン・クラブ(27クラブ。メンバーには他に、ジム・モリソンやエイミー・ワインハウスなどがいます)のひとりで、27歳という若さでオーバードーズで亡くなりました
あれほどの音楽的才能に溢れたバディ・ホリーといったミュージシャンが、運命の非常な手ともいうべきものにもぎ取られるようにして亡くなり、ジャニス・ジョプリンは「ステージでは、集まった観客の全員とセックスしたくらいの気持ち」になるにも関わらず、プライヴェートにおける孤独を埋めるものが唯一ドラッグだったことから……そのような理由によってジャニスは若くして亡くなり、リューは心臓病という誰にもどうにも出来ない病いによって、生きる時間を極めて短く制限されているわけです。
リューを拾い、心を通わせて生活を共にしていたグラン・パは彼女の両親に言います。>>「リューは今、ツルツルの壁に爪を立て、死の底に落ちる前に、何かに、何かにすがろうとしてるんです」……時々、「自分の生きた時代になんらかの爪あとを残したい」なんていう言葉を聞くことがありますが、リューには彼女の両親が望むような「生きた証し」は立てられない。これが、リューと彼女の両親とが愛しあっていても離れていなければならない理由だったのではないでしょうか。
また、グラン・パは作中で「天国はない」とも言います。いえ、あるのかもしれませんが、飛行機事故で死んだバディ・ホリーたちの死を思えよ(しかも、この広い世界で彼らのように突然運命の力にもぎ取られでもするように亡くなるのは彼らだけじゃない)、ジョン・レノンはマーク・チャップマンに銃殺された(銃殺だぜ!意味わかんないよ)、ジャニス・ジョプリンも麻薬のやりすぎで悲しい死を遂げた……この世に神なんていないんだ、天国なんてもの、ありゃしないんだ……『アメリカン・パイ』の歌詞とも照らし合わせてみると、ようするにそうしたことなのではないでしょうか。
>>たぶん、この一瞬一瞬が〃想い〃なのだろう
幾億年の昔から、時の流れの中、輝きつづけるものなのだろう
だれも見ずにはいられない おまえの生きた足跡を
なぜなら人の想いは そのように流れてゆくものだから
……古い古い歌が
だれが作ったのかわからないくらい古い歌が
それを作った人のことも
歌った人のことも
すべて忘れさられ、消えさっても
その歌は残ってるように……
幾世代すぎても
想いはともに時をこえ
歌いつがれ、歌いつがれて
そこに残っているように
そんなふうに
命の消えぬ限り
時の消えぬ限り
いや、もし何もかもが失われ消えても
……果てぬ闇の底に、想いは残るのだ……
『アメリカン・パイ』の歌詞はA long, long time ago……とはじまるわけですが、リューが死んで長い時が流れた時――グラン・パはきっと、もう一度出会うと思うのです。その日はきっと、彼が死んだ日、彼の死ぬ日、グラン・パは彼の歌を褒めてくれたというおばあちゃんとも、彼より先にこの世を去った友人たちともきっときっと出会うのでしょう。
>>「わたし、なんにもやってない……グラン・パはわたしのこと忘れちゃうね。わたしがいたこと、歌ったこと、みんな消えてしまう。いっそ、だぁれもしらないように。わたしが生きてたことなんて。そして、わたしが死ぬことも」
「オレは忘れないよ」
「忘れちゃっていいよ」
「あのなぁ、オレはずっとマイアミに住んでるだろ?それで世界中から友達がやってくるんだ。それが時どきさ、二年目とか四年目とか、世界旅行してるヤツもいる。ギリシャへいったヤツもいる。ベネズエラへいったジョーなんざ、六年も便りをよこさない。でもオレ、みんな覚えてる……オレ、忘れちゃいない。だってこまるだろ。友だちはまたいつか、たずねてくるかもしれんだろ?」
「また、いつか?」
「ああ、そうさ。ある日、ヤツら、またやってきて〃よう〃ってんだ。〃よう、グラン・パ。ひさしぶりだな、覚えているかい!〃、〃もちろんさ〃ってオレはいう。覚えてるともさ……」
「わたしのことも?わたしが目のまえで死んでも、信じないでいてくれる?どこかにいってまた会えるかもしれないってことにしていてくれる?」
「もちろんさ、リュー」
「やあ!っていってくれる?いつでも?そういってくれる?」
「もちろんさ。もちろん……」
あと、わたしこの『アメリカン・パイ』っていう歌、今回初めて聴いたのですが……すごく長い歌な割に、ずーっと聴いてられる気のするのが不思議でした そしてそこに、永遠のループといったものを感じたりもするんですよね。「生」とは、「人生」というものは、死んだらその瞬間に途切れてしまうといった類のものではなく、メビウスの輪のように、その瞬間くるっと死を境に回転してしまうというだけのもので――その巡る輪の中で、もう一度きっとわたしたちは出会えるんだよ、という……。
以上、色々書いてきましたが、他の方のレビューに「感動した 」、「号泣した 」と書いてあったのが、この本を読もうと思ったきっかけだったにも関わらず……わたし自身は涙腺が緩むこともなければ、まったく感動もせずに読み終わりました。人ですみませんww(このお話の中の一番のわたしの好ポイントは、グラン・パが『メッシュ』のミロンに似てることです。そして、グラン・パもミロンも、わたしにとっては全然ブサメンなどではありません )
では次!『白い鳥になった少女』。
いえ、実はわたしこの、アンデルセンの元のお話の『海つばめ』大好きなのです♪
読んだきっかけは、 HKでやってた『パンを踏んだ娘』を見て、でした
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怖いですよね(特に後編 )
わたし、このお話の中の地獄の描写みたいのがおっかなくて、アンデルセンの原作ではどんなふうに描かれてるんだろう……みたいに興味を持ったのが、『パンをふんだ娘』を読んだきっかけだったと思います
ただ、萩尾先生の漫画のほうは、たぶんページ数の関係で、「なんでパンを踏んだくらい(?)で地獄へ行かなきゃなんないのか 」という説明や、地獄の描写もそんなに詳しくなく、さらに実はそのままインゲルは地獄へいなくちゃいけなかったわけですが、美しい女の子の神さまへの祈りによって、インゲルは鳥になって地獄から逃れることが出来た――けれども、自分が踏んだ分のパンを他の鳥たちに与え終えるまで、そのままの鳥の姿でいなくちゃいけない……ということだったと思います。
>>冬のあいだじゅう、この小鳥はこうして、たくさんのパンくずを集めては、ほかの鳥にわけてやりました。そのパンくずはつもりつもって、とうとう、小さいインゲルがくつをよごすまいとしてふんだ、あのパンと同じくらいになりました。こうして、さいごのパンくずが見つかって、それをほかの鳥にやりますと、そのとたんに、灰いろのつばさがまっ白になって、大きくひろがりました。
「あそこに、カモメが一羽、海の上を飛んでいくよ」と、子どもたちが白い鳥を見ていいました。その鳥は、海に沈んだかと思うと、また、あかるい太陽の光の中にのぼっていきました。太陽がきらきらかがやいていましたので、その鳥がどうなったか、見ることはできませんでした。人々の話では、まっすぐ太陽の中へ飛んでいったということです。
(『アンデルセン童話集2』大畑末吉さん訳/岩波少年文庫より)
というのが、わたしの持ってる本のラストの文章です
このアンデルセンの『パンをふんだ娘』を取り上げた萩尾先生の着眼点は流石!と思いますし、たったの16ページしか与えられてないにも関わらず、その厳しい制限の中で本当にとてもうまくまとめ上げている……と思うんですよね(^^;)
自分的にこのお話の結構怖いと思うところは、地獄へいってのちも人が天国へいった時と同じように――地獄でもこの「意識の継続」があると表現されているところではないかという気がします。だから、インゲルはカエルがドレスの中に入ってきて気味が悪いと思ったり、頭に蛇が絡まる感触も同じように気色悪いと感じたり……さらには「おなかがすいた」という空腹の感覚も残っているわけです。
たぶん、もし今再び萩尾先生が十分ページを与えられて同じアンデルセンの『パンをふんだ娘』を描かれたとしたら、もっと完成度の高いものが出来あがるんだろうなあ……なんて思ったりします♪
では次!『妖精の子もり』。
ちなみに、『白い鳥になった少女』は、1971年発表、『妖精の子もり』は1972年発表とのことで、たぶんどちらも大泉時代にお描きになられたものじゃないかなって思うんですよね。
なので、絵のほうは昔風なのですが、『妖精の子もり』に関してはもう、ほとんど完璧でないかと思います
ウォルトは家の近くの森(たぶん☆)で、ひとりの女の子と出会う。犬のイーグを挟んで、あれこれ遊ぶうち(?)、最後は池の中へボッチャン!!
女の子はウォルトの家で着替え、その後ウォルトの服を借りて慌てて出ていってしまいます。パラソルも忘れて……でも、別れぎわ、キスをしたふたりの間には、すでに恋の予感が
その後、ウォルトの母親の再婚相手が娘と一緒に挨拶にやって来て――その娘というのが実は、この時キスをかわしたバーバラだったのでした。バーバラは最初、父親の再婚に反対だったようなのですが、ウォルトと兄妹になれるのなら大賛成!!と、180度考えが変わった様子。
ウォルトは「お兄さんねえ……」と、微妙な気持ちのようですが、結局自分がプロポーズするのはもっと何年も先のことだと思えば――まあ、それまでは「妹」ということでもいっか☆というように、妖精のように美しいバーバラの額に、家族としてのキスをするのでした。
大体あらすじのほうはそんなところかな、なんて。。。
実はあと残り7編収録されてる作品があるのですが、次の『アロイス』については、少し長めの感想書くかもしれないので、今回はこんなところで!でもこの『アメリカン・パイ』の文庫本に収録されているお話は、自分的には粒揃いというくらい、本当に面白いお話ばかりでした♪
それではまた~!!