ええと、あと数回で終わるだけあって、ここの前文に書くことなくなってきちゃったな、なんて思いつつ。。。
なので、今回はこのお話を書くに当たって、参考にさせていただいたような本を2冊ほど紹介させていただこうかな~なんて(^^;)
わたしが「チップス先生、さようなら」のことを知ったのは、映画のほうで、でした。
といってもわたし、実はこの映画、途中から見たんですよね(^^;)
でもわたし、大体この時代くらいの頃の雰囲気を映しだした映画にもともと弱いというのがありまして……途中から見たのに、「この雰囲気、絶対好きだ!!」と思って、最初から見てなかったことを悔やみつつ、テレビで残りの全部を見たというか。。。
>>イギリスの、とある全寮制のパブリック・スクールに、真面目で物堅いチップス先生が赴任してきた。チップスは面白味がなく、生徒たちの人気も今ひとつ。だがキャサリンと出会い、結婚したことから、少しずつ人間味のある教師に変わっていく。やがて態度も柔軟になり、生徒からも慕われる有名な先生になっていった。愛妻キャサリンが亡くなり、かつての教え子たちも出征した第一次世界大戦を経た今、年老いたチップスは、学校の門前に住み、 生徒たちの顔を見ながら余生を過ごしていた……。
(密林さんの商品の説明よりm(_ _)m)
まあ、なんというか、作中に出てくるアダムス先生は軽くチップス先生の面影がなくもないかもしれません(^^;)
チップス先生は魅力的な女性と知り合って結婚したことで変わった部分があると思うのですが、アダムス先生は面白味のない堅物の教師のままだったというか、なんていうか(笑)
アンディがお話の中で食らってる「百行清書」という罰も、「チップス先生さようなら」の中に出てきたり。。。
といっても、今のパブリックスクールではこんな罰を食らわせられたりすることはないだろうな~とは思うんですけど
そして、2冊目がヘルマン・ヘッセの「デミアン」。
>>ラテン語学校に通う10歳の私、シンクレールは、不良少年ににらまれまいとして言った心にもない嘘によって、不幸な事件を招いてしまう。私をその苦境から救ってくれた友人のデミアンは、明るく正しい父母の世界とは別の、私自身が漠然と憧れていた第二の暗い世界をより印象づけた。主人公シンクレールが、明暗二つの世界を揺れ動きながら、真の自己を求めていく過程を描く。
(『デミアン』ヘルマン・ヘッセ、高橋健二さん訳/新潮文庫より)
デミアンもとても面白かったと思います♪
今、手元に一応本のほうはあるんですけど、何分読んだのが結構前なもので、もしかしたらちょっと間違ってるかもしれませんが(汗)、主人公のシンクレールくんは、ちょっとした嘘からフランツ・久ローマーという男の子にお金を貢いだりなんだり、そんなことをさせられるんですよね。ところが、マックス・デミアンという男の子が、そんなシンクレールの窮境を救ってくれます。
彼がどうやったのかはわからないのですが、以後、シンクレールはクローマーから悩まされることはなくなり……確かあとがきのほうに「デミアン」のデミアンはデーモン(悪魔)から来ている――とあった気がするのですが、確かに彼はちょっと悪魔的というか、何かそんなところのある子な気はします(^^;)
おそらく、当時の価値観からいって、キリスト教以外の神さまを求める抜け道を探す……といったことは、大きなタブーであったでしょうし、本の中にはそうしたシンクレールくんの精神的旅の過程が描かれていると思うのですが、こうした「精神遍歴」のようなものは何か特定の神や宗教を信じていなかったとしても、十分に理解でき、共感できることだと思うんですよね。
そして最後、物語は戦争で閉じられるのですが――もちろん、誰もがご存じのとおり、ヘッセはドイツ生まれの作家さんです。
一方、イギリスの作家であるジェイムズ・ヒルトンさんが原作の「チップス先生さようなら」の映画のほうにはこんなシーンがあったように記憶してます(何分、見たの相当昔なもので、間違ってたらごめんなさい)
ドイツの兵士が飛行機に乗って攻撃してくるのですが、そのうちの一機が墜落して、チップス先生はそのドイツの兵士を助けようとします。ところがこの、自国を攻撃してきた憎い兵士が自分の教え子たちとそんなに歳が変わらないと知り……チップス先生は愕然とする、確かそんなシーンがあったように記憶してます。
お互い、「戦争は嫌だ」、「戦争だけは嫌だ」という共通認識がありながら、何故それが起きてしまうのか――もうすぐ終戦記念日ですが、ほんのちらとでも第一次世界大戦、第二次世界大戦の場面の出てくる映画を見ると、平和ボケしていると言われて久しい日本ですが、本当に「戦争だけは嫌だ」、「いかに平和ということが有難いか」ということをつくづくと思わされます。
もちろん、今もパレスチナの問題ですとか、いわゆるイスラム国のことですとか、色々いろいろあるわけですけど、生活の多くをもっぱらパソコンでネットを見たり、携帯をいじることに使えたりする日本の今の姿って、自分的にはたま~に「もしかしてこれって奇跡かも(^^;)」と思ったりすることがあります。。。
それではまた~!!
ぼくの大好きなソフィおばさん。-【24】-
「それで、何故あなたは義理の息子と愛の逃避行をするでもなく、セスという男性の元に戻ったのですか?」
ロイは患者のソフィ・デイヴィスより、ここまで聞き出すのにとても長い時間を要していた。にも関わらずこの時、精神科医らしくもなく好奇心に満ちた聞き方をしてしまったのは、やはり彼をしてソフィの人生があまり一般的でない過程を途中で辿ったためと思われた。
「怖かったのですよ、単に」
自分の若い頃の話をしていると、目に見えて老人が若返って見えることがあるが、この時のソフィもまたそうだった。彼女は七十歳とは思えぬ輝きを顔に宿し、瞳だけは当時と同じく若いまま、自分の過去にあったことを述懐している。
「わたしはセスよりもアンディのことを愛していました。彼と体の関係を持ったことでそんなことが起きるとは……わたし自身思ってもみないことでしたけれど。それからもずっと、セスの傍らにいながらも、アンディのことを愛し続け、時々あのまま彼と一緒にいたらどうだったろうなどと、夢を見たりして過ごしたのです。先生にはおわかりにならないかもしれませんが、夢というのは本当に素晴らしいものですわね。もしかしたら時と場合によっては、叶わなかった夢のほうがより素晴らしいかもわかりません。わたしはその後風の噂にアンディがフェザーライル校の教師になったと聞いて、とても嬉しく思いました。そしてこのこともまた風の噂によって、アンディが父親の全財産を受け取ったということや、彼が父親の晩年、よくバートのことを支えていたと聞き……離婚したことを悔やんだものです。もちろん、わたしは父と息子の両方と関係を持っていたのですから、そのふたりの間に挟まれて妻であり母であることなど、到底出来はしなかったのですけれど」
「バートランド・フィッシャーとの離婚後、セス・グラントという男性とは御結婚されなかったのですか?」
「ええ。わたしのほうで彼との結婚なぞ、どうでもよくなってしまったものですから。彼のほうでは昔から、結婚なんて紙切れ一枚の上でのことだと、馬鹿にしてるような感じでしたし……十年ほど前でしょうか。彼が脳腫瘍で倒れた時、それでも手術の前に「結婚しよう」とは言われました。けれどその後病状が悪化して、それどころじゃなくなってしまいましたの。と同時に作家のアレクシス・ピアーズも亡くなってしまったんですけど、わたし、彼が残した五十冊もの本を読んでると、今も彼の魂が生きてそこらへんを漂ってるような気のすることがありますわ。そのセスが残した本のために、随分わたしも苦労しましたし、結局のところ彼とわたしの関係が最後まで男と女として続いたのも――この本たちのお陰という気がすると、なんだかとても不思議ですわね」
ソフィから話として聞く限り、<アレクシス・ピアーズ>という作家は実は、ソフィとセス・グラントという男が合体して生まれた人物ではなかったかという気がしてロイはならなかった。何故といって、セスは小説のネタや展開などに行き詰まるたび、ソフィに相談し、彼女のほうではそれを彼の頭脳が考えだしたというふうにして作家のことを支え続けたようだったからである。他にも必要な資料の収集や整理、取材のための旅行の同行や出版社との折衝などなど……ソフィは古参の女房よろしく、随分献身的に愛人のことを支え続けたようである。
「でも本当に、セスとの間にあった愛情も、本当に素晴らしいものだったんですよ。わたしには何かものを書く才能はありませんけど、彼にはきちんと自分の想像したものを形に出来る才能がありましたし……そこにほんの少しでも参加させてもらえることは、本当に胸躍る素晴らしい体験でした。わたしとセスとの間には子供があったわけじゃありませんけど、それでも全部で五十人以上生んだくらいは、愛し合いましたものねえ」
もはや性的な情事などといったことは、遥か過去の産物であるといったように、ソフィはさもおかしそうにくすくすと笑っている。そんな人生の先輩を前に、ロイのほうはといえば、精神科医らしくもなく言葉を失っているという始末だった。
「ねえ先生、結局わたしは――たぶんどっちの道を選んでも後悔したろうと思うんですよ。先生はきっと、わたしがバートとの間に本当の愛情はなかったなんて言うもんで、彼と離婚した時にはそれこそさっぱりしたろう……なんてお思いになられるかもしれませんけど、離婚した時はわたし、寂しい気持ちを味わいましたわ。わたしがバートとの離婚を望んだのは何より、セスがそうせっついてうるさかったからなんですけど、彼と離婚することはアンディとの絆が完全に断たれることでもありましたし……今にして思うと、バートはバートで決して悪い男ともいえなかったような気がします。もちろん、かなりの時が経過して、すでに亡くなってる人のことを述懐する時には、人は誰だって相手を優しく見るものだとは思いますけどね。だから、そういう意味で言うんですけれど、彼はある意味不器用な人だったのかなと思わなくもないんです。『これだけ金を出せば、おまえは何が出来る?』とか、『やった金の分は俺を楽しませてくれ』っていうような人ではありましたけど……でも彼、お金を仮に愛情で換算したとしたら、そりゃ結構な額をわたしに投資してくださいましたものね。にも関わらずわたしのほうでは他に愛人を作ったっていうのに、『この売女め』なんて、罵ることさえされませんでした。協議離婚するっていう時も、バートのほうではそうしようと思えば出来たのに――わたしを苦しめるようなことは何もしませんでした。慰謝料もたっぷり支払ってくれて、セスなんかはそのことを『自分が一応有名な作家だからスキャンダルを避けるためだろう』なんて言ってましたけど、わたしはそうは思いませんでしたわ。だからわたし……彼が病気で倒れたって聞いた時は、お見舞いに行きたかったんですけれど、でもそうすればアンディに会ってしまうかもしれませんし、そんなわけで亡くなったあとにお墓参りするのが精一杯でした」
実業家として数々の偉業を成し遂げたバートランド・フィッシャーの墓は、ユトレイシア郊外にある古い墓地に設けられ、彼は今自殺した前妻の隣で眠っている。フローレンス・フィッシャーの遺書を読んでいてソフィが思ったのは、彼女が夫を実際はとても愛しているということだったかもしれない。手紙自体は表向き、結婚生活への不満の発露といったことが目立つものの――そうした言葉の裏にあるものを読んでいったとすれば、そもそも最初には輝くばかりの美しい愛があったのだろうということがわかる。
ソフィはフィッシャー家の墓に献花した時、不思議とこんなことを思った。バートが生前何人の女と浮気していたにせよ、今彼の魂はそんなどうしようもない夫のことをそれでも地上へ迎えにきたフローレンスとともにあるのではないだろうか、といったようなことを……。
「本当に、あなたのお話をお聞きしていると、ソフィさん、あなたの人生をそのまま本にでもしたほうがいいような気さえしてきますね。それで、僕は思うんですが……その、あなたとアンディさんとの間には二十歳近い歳の差があるわけですよね?つまり、彼は今おそらく五十歳くらいでしょうか。もし、良ければ――今のうちに会っておかれたほうが良くはありませんか?」
「もういいのですよ、そうしたことは」
ソフィはそう言って、どこか寂しそうに笑った。
「わたしは、実際とてもずるい人間なんです。ウィリアム・レッドメインとの間にあったゴタゴタで、母にはきっと相当迷惑をかけたと思うんですけど……わたしはその時母のことも障害のある姉のことも顧みませんでした。自分のことしか考えてなかったんです。その後、バートと結婚して、結構なお金が自由になったもので、母に送金しようとしたんですけど、断られました。そして次に母と会ったのはお葬式の時でしたし……姉のほうは、母が残してくれた貯金や障害者に対する補助金などで施設で十分暮らしていけるような感じでした。というより、そうなるよう、母が整えてから死んだということですけどね。わたしも、母に対して随分ひどい親不孝をしたとの思いから、母が亡くなってしまったもので、今度は自分の呵責する良心を守るために、姉の面倒を見ようかと思いました。いくら知的障害があったとしても、妹が家族を捨てたということくらいはわかってて、恨みごとを言われるかと思ったんですけどね、まあ、うちの姉ときたらまったく、天使みたいなんですの!「随分長く出かけてるから、どこへ行ったのかと思った」なんて言われて……わたし、涙が出ましたわ。小さい時には彼女がいることで、わたしも嫌な思いをすることがありましたけど、今は考えがまるで変わりました。姉のクレアがいてくれて良かったと思いますし、一見何もいいことがなかったような母の人生からも、わたしは随分多くのことを学びました。若い時にはね、「母のようにはなりたくない」とか、そんな一心で生きていたような気もしますけど、母のような人の人生こそ、真の意味で本当に貴いものです。今はそのことがわかる自分に感謝しているくらいですわ」
一時間という制限時間が大幅に過ぎていたため、ロイはこの時、ソフィの病室から立ち去らざるを得なかったのだが――それでもやはり彼は、ドアのところで一度振り返ると、先ほど聞いたのと同じことを聞かずにはいられなかった。
「ソフィさんがお母さんの死に目に会えなくて悲しい思いをしたように……アンディさんもまた、風の噂であなたが亡くなったと聞き、ひどく後悔するのではないでしょうか?」
「まあ、先生はきっとわたしの話を聞いて感情移入するあまり、わたしとアンディのことを再会させたいんですのね。でもわたし、あの子に会う気はありませんわ。そして、結局それが一番いいのです。あの子には、こんなしなびた白髪頭のおばあさんをではなく――若かりし頃の美しかったわたしのことだけを覚えていて欲しいんですもの」
「そうですか……」
ロイは釈然としないものを感じつつも、一旦廊下に出、カンファレンスルームへと急いだ。今はもう時刻が五時を過ぎており、すっかり遅刻してしまっていたからである。最初、ロイはソフィ・デイヴィスという患者から話を聞く時間を、午後の一時とか二時くらいに設定していたのだが、彼女の話を聞いていると惹き込まれるあまり、以降の患者の時間にずれこむことが常態化したため――今ではソフィはいつも一番最後に相談を受ける患者ということになっていた。
毎日四時半から行われるカンファレンスが一時間ほどで終了すると、ロイは医局にある自分の部屋で、四十年も昔に発行されたセレブ誌の小さな記事を眺め、溜息を着いた。映画のプレミアで撮られたものらしいが、そこにはブルーのスーツを着こなしたロマンス・グレイのバートランド・フィッシャーとシャンパン・ゴールドのグッチのドレスを着たソフィとが、仲睦まじい様子で写っている。
大体、こんなものを休日に古本屋を回って探し出したというあたりからして――精神科医としての自分のソフィ・デイヴィスへの関心というのは、度を越したものだということが出来る。そしてロイはそう自覚していながらも、たった今電話帳をめくり、フェザーライル校の寄宿舎に繋がる番号を探しだしたところだった。
もちろん彼はこの時、電話の番号をプッシュすることを長くためらった。受話器に手をかけ、私立学校の名前が並ぶ電話帳を何度も見、そしてやはり電話をかけるということに決めたのである。ひとつは、先ほどのカンファレンスでリチャード・レイノルズ医師より、ソフィの癌による疼痛緩和のため、鎮痛薬が増加される旨の報告があったことが大きい。これからさらに量が追加されていき、意識が朦朧とした時間が多くなっていった場合……意識が鮮明な状態で会い、長く話もできる体力があるのは、もしかしたら今だけかもしれないのだ。
「すみません、わたくし、聖十字病院のチャプレンで、ロイ・アンダーソンと言う者です。そちらにお勤めのアンドリュー・フィッシャー先生をお願いしたいのですが……」
* * * * *
ロイがフェザーライル校に電話してまず一番驚いたのが、校務員の男性が電話に出、「そりゃ校長先生のことですな」と言い、そちらに電話を回したことだったろうか。
ほどなくして、明るい快活さの中にも、優しい人柄の滲んだような声音の男性が出、「こちらフィッシャーですが……」と、どことなく半疑問形で名乗った。おそらく「聖十字病院のチャプレン殿からお電話です」といったように聞いていたのだろう、その声音にはどこか、「そんなところから電話のかかってくる用向きなどないはずだが?」と言いたげな響きがあった。
ロイは自分の身分を名乗ると、すぐに「今こちらにソフィ・デイヴィスという女性が入院しておられまして……」と口火を切った。彼としてはそれですぐ話が通じるものと思ったのに、意に反してフィッシャー校長の反応は極めて鈍いものだった。
「我が校には今、デイヴィスという生徒が三名ほどいるのですよ。そのうちの誰と関わりのある女性なのか、いまひとつ把握しかねるのですが……」
「あなたにとってソフィといえば、生涯にただひとりしかいない女性のはずではないのですか?」
ロイが思わずズバリそう言ってしまうと、受話器の向こうには一瞬沈黙が落ちた。
「すみませんが、あなたは一体何を言いたいのですか?」
今度は憮然とした声が返ってきて、ロイとしても慌てた。普通に考えた場合でも、今ような自分の物言いはすべきではない。
「申し訳ありません。こちらに今、ソフィ・デイヴィスという女性が入院していまして……遠からず、彼女はいずれお亡くなりになられると思います。ここはホスピスで、そういう場所なものですから。そしてわたしは精神科医として彼女の話を聞いていて思ったのですが、あなたとご連絡を取ったほうがいいと思いまして。もっともこれは、わたしの独断でしていることであって、ソフィさんは何もご存知ありません。彼女はむしろあなたとはお会いしたくないとおっしゃったのですが、わたしとしては……」
「ソフィおばさんがそちらに入院しているのですか!?」
先ほどとは打って変わった高音の、ボリュームのほうも大きな興奮した声が返って来、ロイも驚いた。
「ええ。それで、その……わたしとあなたとの間で先に少し、お話を詰めておきたいと思ったんです。つまり、わたしは連絡など取るなと言われたのに、今こうしてあなたにお電話しているわけですから。フェザーライル校のあるリシディア町と、ここサウスルイスとでは相当離れてますが、実はわたしは明日の土曜とその次の日曜とは休みなんです。もしご迷惑でなかったとしたら、二三時間で構いませんので、お会いできないでしょうか?」
「それは構いませんが……しかし、チャプレン殿もお忙しい身でしょう。わざわざご足労いただくのは申し訳ない限りですが、わたしのほうも外せない学校行事などがあるものですから。それで、ソフィおばさんの容態のほうはどうなんですか?」
彼の声音にはどこか、心底心配で堪らないという気持ちの他に、事実を聞かされるのを恐れる気持ちも入り混じっているようだった。
「彼女は乳癌で……これまでに二度手術しているのですが、また再発しまして。他の臓器にも転移が見られるものですから、それで現在はこちらのホスピスに入院しているのです。本当はこうしたこともご家族以外の方にお話するのは守秘義務違反となることなのですが、僕はソフィさんから話を聞いていて、貴方は今も彼女にとって家族も同然と思ったものですから……」
「ありがとうございます、感謝します」と、アンディは厳粛な声音で言った。「もしあなたがお電話くださらなかったら、僕は何も知らないまま、随分あとで風の便りに彼女が亡くなったとでも聞いたことでしょう。幸い今は六月ですから……もうすぐ学校も夏休みに入ります。それまでにソフィおばさんのことをどうにか説得していただけないでしょうか?突然僕が訪ねていったというのでは、おばさんも心の準備が出来てなくてびっくりするでしょうし……」
「ええ。僕としても説得は続けようと思うんです。ですが、今日のソフィさんの言い方だと、そう簡単には頷いていただけない気がするんですね。そこで僕が思ったのは、僕が直接フィッシャーさんにお会いして、今あなたがどうされているのかを伺って……もう一度彼女にそのことを話したいということだったんです。僕がわざわざ休みを利用してリシディア町まで行ったと知れば、ソフィさんも「先生がまさかそこまでなさるなんて」と言って、会うことを承諾してくれる気がするんですよ。そんなわけで明日か明後日、ご都合の良い時間にお訪ねしたいのですが、よろしかったでしょうか?」
「ええ、もちろんですよ。わたしのほうはいつ来てくださっても大丈夫です。校長室に在室はしていないかもしれませんが、学校のどこかにいるのは間違いありませんからね。妻のラナに言付けていただければ、なるべく早く屋敷のほうに戻るようにしますから。それと、もしよろしければうちに泊まってくださって構いませんよ。サウスルイスからリシディア町まで来るとなると……電車で六時間ほどもかかりますからね。出来ればそうしてください。妻に客室の用意をさせておきますし、お疲れのようでしたらその日はお休みいただいて、話のほうは次の日にということも出来ますし」
「是非、そうさせてください」電話を切ったら切符と宿の手配をしなくてはと思っていたロイは、アンディの申し出を有難く受けることにした。「フィッシャーさんのご迷惑でない程度にお邪魔して、早々に帰ろうとは思ってますから」
「いえ、他でもないソフィおばさんのことですからね。作家のアレクシス・ピアーズが亡くなったことは知ってましたし、その後彼女はどうしたろうとはずって思っていたんです。でも僕も結婚して子供が生まれたりして、うちに引き取るなんて言っても、そんなことはおばさんも喜ぶまいと思いましたし……」
「そうなんです。そうしたお話を是非、僕はたくさんお伺いしたかったんです。ちょっと今これから適当な時間の切符が取れるかどうかを調べて、またお電話します。たぶん到着するのは夕方頃になるとは思うのですが、早朝の切符しかないということでしたら、たぶんそれに乗ることになると思います」
アンディは、自分はこれから生徒をひとり校長室に呼んであるので、話のほうは妻に通しておいてくださいと言い、最後に「アンダーソンさんがお越しになるの心待ちにしています」と嬉しそうな声で言って、電話を切っていた。
明日のリース湖方面行きの電車は、どこも席が空いており、ロイは十時十一分発のを選んで切符を買うと、校長の屋敷にある電話番号に直接電話をかけ、アンディの妻ラナ・フィッシャーにその旨伝えておいた。
ロイは仕事の後片付けを終えると、病院の近くにある自宅マンションへ戻り、軽く旅行用の荷造りをしてからその日は眠った。明日、アンドリュー・フィッシャーに会うのが彼はとても楽しみだった。声を聞く限りにおいて、アンディはロイが頭の中で想像した人物そのままだったし、今はもう結婚もし、子供がいるのだとしても――若い頃にしたああした体験というのは当人にとって決して忘れられるものではない。
というのも、ロイにもそうした若い頃の<忘れえぬ記憶>のようなものがあり、その時彼は相手をひどく傷つけて別れてしまったのだが、相手の女性が自分に与えた(また与えようとしてくれた)優しさと善意については、今も心のどこかに苦い後悔の念とともに残っているほどであった。
――こうしてロイは、六月のよく晴れた初夏の空気の中、サウスルイス駅からリース湖方面行きの電車に乗り、乗車中はほとんど寝て過ごした。普段の仕事の疲れが溜まっていなければ、車窓の景色を楽しむ余裕もあったのだろうが、彼は自分で思っていた以上に疲労が蓄積していたのだろう。終点に辿り着き、支線に乗り換えるという時、彼は車掌に起こされてようやく自分が今どこにいるのかに気づくという始末だった。
リシディア町行きの支線に乗り換えてからは、頭の中もさっぱりと冴え、今度はあまり乗客のいないガラ空きの電車の中で、美しく緑したたる森や草原の景色を眺めつつ、ロイは鈍行がゆっくりと進んでいくのを楽しんだ。一度、カートを押して売り子がやって来たので、ロイはサンドイッチとコーヒーを頼んだ。そして自然の豊かな田舎の景色を見やりながら「人生は素晴らしい」などと彼が思っていた時、一度電車がなんの前触れもなしに停まって驚いた。
車内に流れたアナウンスによると、数頭の鹿が線路を横切っていったため、一度停車したのだということがわかり、ロイが窓を開けて外を覗きこんでみると――丈の高い草原の中、またその奥の森のほうへと五頭ほどの鹿が軽やかに駆け去っていくところであった。
ロイは漠然と「とても良いものを見た」という気がし、リース湖の方面へ彼が来たのはこれが初めてのことだったが、このあたり一帯のことが「とても好きだ」と魂に直感され、これから会うアンディ・フィッシャーとの面談がますます楽しみになった。
リース駅に辿り着いてみると、小柄で褐色の髪をした四十台くらいに見える女性がプラットフォームでロイを待ち受けており、彼女はなんと、「フェザーライルへようこそ!ドクターアンダーソン」というプラカードを掲げ持っていたのである。
「これはうちで毎年新入生をここで出迎える時に上級生が持って出るものですの。<ドクターアンダーソン>というのは、きのうわたしが急いで付け足したものなんですけどね、まあこんな田舎町じゃあこんなものも必要ないかもしれません。ただ、顔も全然知らない方なものですから、何か行き違いがあるといけないと思ったんですの」
「わざわざどうもありがとうございます、ミセス・フィッシャー」
ラナは「どういたしまして」というように微笑むと、駅舎の前の駐車場に停めた車にロイのことを案内した。それは黒のランドクルーザーで、ロイはトランクのほうに荷物を入れさせてもらうと、次に助手席のほうへ身を落ち着けた。というのも、ロイは最初後部席のドアを開けようとしたのだが、そこにはすでに三毛猫が一匹、鎮座していたからである。猫はまるでロイに媚でも売るように金色の瞳を瞬きさせると、一言「ニャオン」と鳴いて尻尾を振っていた。
「うちで飼ってる猫で、パメラっていうんです。最初に飼ってた二匹もパメラっていうもんですから、この子はパメラⅢ世……ううん、Ⅳ世ってことになるのかしら。というのも、うちの主人が小さい時可愛がってたデブ猫がパメラっていって、それが名前の由来なもんですから」
「知ってますよ」と、ロイは笑って言った。「なんでしたっけね……確か、海辺の別荘の地下室にネズミがいて、それを捕獲するために雇われた派遣猫だったとか。一度、ソフィさんが居間のソファで昼寝していたら――枕にしていたクッションの横にぼとっとくわえていたネズミの死骸を落としたことがあったそうで。彼女が一言「キャーッ!!」と叫ぶと、当時まだ子供だったアンディさんが聞きつけて、大事なおばさんの危機とばかり、バットを片手に居間へ飛び込んだそうですね」
「まあ先生、随分色々なことをご存知なんですね」
ラナは驚くと同時、黒のランドクルーザーを発進させ、三十数年前よりは多少発展したかのように思われる、懐古色の強い町の中央通りに向かって車を走らせていった。
「わたし、主人の<ソフィおばさん病>には本当に辟易してますの。それさえなかったら本当に主人は、わたしにとっても子供たちにとっても完璧な夫であり父親だと思うんですけどね。夏休みは絶対にヴァ二フェル町の別荘で過ごさなきゃいけない決まりなもんで、他はどこへも行けませんし……そういえば去年ようやく十六になった息子のバートが、初めて夏に友達に招かれてスイスへ行きましたわ。それで妹のソフィがブーブー文句を言うもんですから、宥めるのに骨が折れました。でも、主人の前じゃうちの家族は誰もこう言えませんの。『夏にヴァ二フェル町で過ごすなんてもううんざりだ』なんていうことはね」
フィッシャー夫人の溜息の深さから推し量るに、アンドリュー・フィッシャー氏はある一面においては相当頑固な質なのだろうということが伺われ、ロイは少しおかしくなった。とりあえずきのう彼が話していて受けた印象としては、相当柔軟性のありそうな人物だとの印象が強かっただけに。
「この車もね、そうなんですよ。単にソフィおばさんが同じ車に乗ってたからっていう理由だけで、うちで買う自家用車は必ずこのランドクルーザーなんです。それでもまあ、かなり前に車会社のほうでモデルチェンジがされて、子供たちはその時もキャンペーンを張ったものですわ。『この機会に黒以外の他の車を買って、お父さん!!』なんてね。でもまあ見てのとおりですわ。モデルチェンジしたからそれがどうしたという感じで、主人はこの車種以外には決して乗ろうとしませんの」
「でも、ヴァ二フェル町はラナさんの御実家のある場所なのではありませんか?そこへソフィさんの乗ってた黒のランドクルーザーに乗って出かけるというのは、きっとフィッシャーさんにとっては大切なことなんだと思いますが……」
「まあ先生、そんなことまでご存知なんですか?」
ここからフェザーライル校へ向かう坂がはじまるという手前の交差点で――信号が赤だったので停まりながら、ラナはちらと隣のハンサムな精神科医のことを振り返った。
「いえ、ソフィさんもラナさんのことはあまりお話されなかったのですが、初めてアンディさんとソフィさんがヴァ二フェル町へ出かけていった時、家にやって来た子供たちの名前にあなたのお名前もあったように記憶してます。『ラナとユ二スっていう、女の子の友達同士が……』なんていう、軽い話だったのですが、なんとなく記憶に残っていて。これで名前がもしメアリとかエミリーとかだったら、忘れてたかもしれないんですが、可愛らしい子たちだなと思って、なんとなく覚えてたんですよ」
「そうですか。まあ、先生は人のお話を聞くのがお仕事でいらっしゃるから……わたしたちとは人の話を聞くポイントですとか、記憶に残るポイントなんかが違うのかもしれませんわね。ソフィさんは、まあそりゃ綺麗な方でしたよ。夏にヴァ二フェル町の商店街で買い物なんてしてると、女優か有名人でも来たのかって感じでしたわ、わたしたち田舎者にとってはね。ご本人もそう自覚してらっしゃるのかどうか、殊更地味な格好をされてることが多くて、子供の時分にはわかりませんでしたけど、男の人っていうのはそういうのが「いい」んでしょうね。アンディのほうはアンディで、どこか貴族風な佇まいをした子供だったものですから、わたしなんて一目惚れしちゃったほどですもの」
「それはまた、凄いですね」
小さな頃に経験したそうした初恋が成就することは少ないものである。ソフィと別れてのち、アンドリュー・フィッシャーがどういった経緯を経て親友の妹と交際し、結婚へと至ったのか、そのこともまたロイには興味あるところだった。
「凄いって、何がですか?」
「いえ、小さな頃一目惚れした男の子と何年ものちに再会してゴールインだなんて……とてもロマンチックな話だと思ったんですよ」
「そうですわねえ」と、信号が青に変わったので、車を発進させながらラナはどこか幸福そうな吐息を着いた。「本当ならわたしは、主人と結婚できるほどの女じゃ全然ありませんでした。容貌のほうも美人ってほどじゃありませんでしたし、スタイルのほうもまあ普通並みといった感じでしたから。けれどまあ、主人にはソフィさんとの想い出の深い地にわたしが属する女だってことが、もしかしたら大切だったのかもしれません、今にしてみると。わたしのほうでは実際、理由なんかどうだって良かったんです。ヴァ二フェル町で夏祭りのあった夜、天から星が降り注いでくるような海辺で求婚された時には、それこそ天にも昇る心地でしたわ。わたしなんかで本当にいいのかしらと思いましたけど、主人のアンディはああした人ですから、自分が一度愛着を感じたとなると、猫でも車でも一筋に大切にするんです。そんな具合でまあ、妻や家族のことも大切にしてくれますし、うちの主人に限って絶対浮気だなんだということはありえないということだけは疑いなく信じられますわね。世間一般の男性とは違って」
「そのかわり、ただ唯一ある欠点というのが……」
「そうですわ。主人が罹患してる<ソフィおばさん病>なんです」
そう言ってラナとロイとは心置きなく車中で笑いあった。フィッシャー夫人は自分のことを評して「大して美人でないし、スタイルも普通並」と言ったが、ロイ自身はあまりそう思わなかった。美人というのとは別の独特の可愛らしさが彼女にはあったし、何よりも話していて夫人が実にチャーミングな女性であるとロイは感じていた。
ロイがフェザーライル校の校長の屋敷へ到着した時、時刻は五時になるところであったが、フィッシャー氏はまだテニス部の練習を見ている頃合だとのことで、まずは二階にある客室へ通された。その部屋は中央に煉瓦の暖炉があり、その脇には甲冑の置物が据えられ、マントルピースの上には数えきれないほどのトロフィーが置いてあり、壁のてっぺんにはフェザーライル校の校章が飾られているといった具合の部屋だった。
ロイはそこで軽く荷物の整理をし、トランクをベッドの下へ置くと、レースのかかった出窓の向こうから運動部の生徒たちのものと思しきかけ声を聴いた。どうやら、野球のグラウンドが近くにあるらしく、監督のノックによる練習でもしているのだろうか、金属バットの「カキィン!」と鳴る小気味いい音がある一定の間隔を置いて聴こえてくる。
(僕はこんなところじゃとても、暮らせないな)
ベッドの縁に座りこみ、両方の手を組みながら、ロイは自嘲気味にそんなことを思った。何故といってロイには、<学校>という場所に何ひとつとしていい思い出がない。そして今でも通りすがりに小学校や中学校、高校といった建物を見ただけで、反射的に「おえっ!」と感じてしまう。本当に吐き気を覚えるというのではないのだが、四十になってもそのように思春期の頃の殻を引きずっているというあたり……学校生活というものはまったく、その後の人生の命運を決してしまうところのようである。
ロイにとって<学校>という建物自体にすら嫌悪感を覚える原因となったのは、中学の頃にあったいじめだったろうか。彼は子供の頃、女のように白い肌をしていて、見た目もなんとなくなよっちい感じだった。そこでオカマだのゲイだのいうレッテルが貼られ、一度など「本当に男かどうか確かめるために」、アメフト部の連中に裸にされそうになったことまであった。たまたまアメフト部の中に、男気のある紳士的な先輩がいて、彼が助けてくれたのだが――もしそうじゃなかったとすれば、今ごろ真っ裸の写真を撮られ、それがロビーの掲示板あたりにでも貼られていたに違いない。
当時の身の毛もよだつような嫌がらせの数々を思いださせる場所であるため、ロイは<学校>という建物が今も好きではないし、そのただ中で暮らして教鞭を取り、豚のように物ごとをわきまえぬ子供たちを養育するなどとは、まずもって死んでも彼には無理だと思った。その後、この時のいじめの体験を機に、ロイは男らしくなろうと思い、体を鍛え――高校を卒業後は軍隊に入った。その後、軍隊生活で得た資金を元に大学へ進学し、精神科医となったのだが、今は自分が経験してきたすべてのことが益になっていると彼は感じている。
もし思春期の頃にああした傷を負わなかったとしたら、おそらく自分は学校でいじめにあった子供をカウンセリングしていても、もしかしたらどこか人事だった可能性もある。ところがロイの場合、それがいかに小さな悩みであれ、いまだに我がことのように親身になって子供たちの話を聞くことが出来たし、それは相手が大人であっても同じ傾聴感が彼の場合あったといえるだろう。
(自分が持つ過去のトラウマが疼く場所へ好んでやってくるとは……)
ロイは自嘲気味にそう思ったが、今では次のようなこともよくわかっている。というのは、自分の行動原理としてもそうであるし、これまでにたくさんの人々のカウンセリングを通してわかったことなのだが――人が何がしかの苦痛を耐え忍ぼうと思う動機は、その先により大きな目的や希望が見出せる時だけである。たとえば、ソフィは「内側もさ男」という言い方をしていたが、家に引きこもって万難を排し、自分の殻に閉じこもっている患者のような場合、外の世界により大きな目的や希望が見出せないからこそ、現状維持に固執しているともいえる。ロイは今、<学校>と呼ばれる自分の嫌いな場所へ身を置いているが、過去の亡霊たちは彼を襲ってくるほどの力を失っていた。もちろん、フェザーライルという超一流校の学校が持つ独特の雰囲気がそう感じさせるのだろうが、こんな落ち着いた空気の中で、品行方正な子息に囲まれてなら、他者から人格をねじ曲げられるでもなく、幸福な青春時代というのを過ごせそうだと、ロイはそのように何か心の癒されるものさえ感じていたかもしれない。
ロイが着替えて下りていくと、校長室のちょうど真裏側にある校長の家族が居室とするスペースでは、紅茶とスコーンが用意されていた。フィッシャー家のディナーは毎夜七時からとのことで、フェザーライル校に通う長男は寮のほうで食事をするため、こちらの食堂に集うのは、フィッシャー氏とフィッシャー夫人、それに娘のソフィの三人だとのことだった。
「そういえば、娘さんの名前はやっぱり、ソフィおばさんから取ったものなんでしょうね?」
ダマスク織りのテーブル掛けのかかったテーブルの上には、中央に銀の燭台があり、それを囲むように八つの背の高い椅子が配されている。フェザーライル校開校以来、ずっとそのまま使われ続けているのだとすれば、相当な年代ものの家具や調度品類などがここには会しているのだろうとロイには思われた。ここもまたロイが通された客室と同じく、フェザーライル校の古き良き伝統に支配された空間といった趣きで、白亜の暖炉の上には例によって数々のトロフィーがたくさんと、ウィリアム・モリスの壁紙の貼られた壁には、金と青と臙脂という三色で構成された校章が飾ってあったものである。
「そのことではわたし、主人と初めて大喧嘩しそうになりましたわ」
ジノリのローズブルーの揃いの茶器類を使い、どこか優雅な手つきで紅茶を淹れながらフィッシャー夫人は溜息を着く。
「ふたり目の子供が生まれるまでに、主人の<ソフィおばさん病>が相当深刻だってことがわかってたものですからね、娘の名前を「ソフィ」にするのだけはどうかやめて欲しいって、泣いて頼みました。今にして思うと、わたしも妊娠中で少し気が昂ぶってるところがあったのかもしれません。あの時ほど主人が頑固で横暴な君主のように思えたことはありませんでした……長男のほうの名前をつける時も、わたしは兄から名前をもらって「ブラッド」にしたかったんです。でも主人がどうしてもバートランドと名づけたいと言ったので、譲ったんですよ。というのも、主人は実の父親と信じていた人と本当は血が繋がってなかったんです。主人の父親のバートランドは、そのことを遺書に書いて残したらしく、『血の繋がりはなくても、今ではおまえのことを実の息子と思っているし、誇りに思っている。この手紙は読んだら破って捨てろ』といったことが書いてあったそうなんですね。それでわたし、ホロリときてしまって、長男の名前はバートランドこそ相応しいと思いました。最初は息子が将来女癖が悪くなったどうしようとか思ったんですけど、バートは主人に似て、どちらかというとシャイで奥手なんです。そして今度は娘が生まれてみると、ソフィにするっていうんですから……もちろん結局、最後にはわたしのほうが折れました。ありていに言えば、惚れた弱みという奴ですわね。そして今ではソフィっていう名前にして良かったと思っています。何故といって娘はソフィさんから名前をいただいたのが良かったのかどうか、わたしに似なくて美人でね、ちょっとそのことを鼻にかけてるところもありますけど、まあまあ良い娘に育ちつつありますもの」
そう言ってまたフィッシャー夫人がどこか幸福そうな溜息を着いたため、ロイのほうでもなんとはなし、心が温かくなった。ロイはまだ、フィッシャー夫妻の子供のうちのどちらとも会ったわけではないが、<理想的な家庭の姿>といったものを垣間見るような思いがしたものである。
ロイが三段のハイティースタンドを前に、(一番下のサンドイッチから取るのが礼儀なんだっけな……)と迷っていると、夫人のほうで一番上のショートケーキ、それに二段目のスコーン、三段目のサンドイッチと、適当に皿にのせてくれたので、ロイとしては実に助かった。
「まあ、マナー的なことはあまりお気になさらず、美味しく召しあがってくださいな」
ロイは空腹だったせいもあるかもしれないが、夫人の手作りだというケーキとスコーンとサンドイッチを、実に美味しく食べた。こんなに美味しいものを毎日食べられるフィッシャー家の家族は幸せだと、彼はそう思いもした。
「そういえば、ソフィさんは今もグリーンティを飲んでたりなさるかしら」
ロイの病院での仕事のことや、ここでのフィッシャー一家の暮らしぶりのことなど、一通りの互いの身の上話が済んだ頃、紅茶を飲みながらふと夫人が言った。
「うちの主人ときたら、今じゃすっかりグリーンティ中毒なんです。しかもある時から、日本のお茶とか、中国のお茶のことに妙に懲りはじめて。聞き茶っていうんでしたっけね。なんか匂いを嗅ぐだけでそのお茶の名前を当てるとかなんとか、そんなことを子供たちも巻きこんでやってますの。でもそれも結局、ソフィさんからはじまったことですわ。ソフィさんが美容のために緑茶を飲むのを習慣にされていて、他に中国茶なんかも少し飲んでいらしたみたいなの。もし主人がグリーンティを飲みたいって時にわたしがそれを切らしてたら……大変なことですわ。なんでって、うちの主人はグリーンティ・ジャンキーなんですもの。しかも決まったお気に入りの銘柄があったりして、そりゃうるさいんです。一度、その銘柄が取り寄せ中でなかったもので、他のを淹れたらバレましてね、伊達に聞き茶の修練を積んでるわけではないってことが初めて証明されたものです」
ラナとロイはそんな話をして互いに笑いあい、とても心楽しい時間を過ごした。お茶の時間がすみ、ロイは一旦自分の客室へ下がったのだが、「七時を知らせる鐘が学校のほうから聴こえたら、それがディナーの時間と思ってくださいね」と言われていたので、まさしくその鐘が鳴り響く最中に階段を下り、そして食堂のほうへ向かったのだった。
てっきり給仕する女中などがいるものとばかりロイは思っていたが、食堂へ行ってみると夫人と娘のソフィのふたりが食器類を並べたり、皿に盛り付けたシチューなどをトレイにのせて運んでいるところだった。メニューのほうは、パンにシチュー、それにローストチキンなどだったが、それほど大袈裟でないいつもどおりの家庭の食事といった感じがして、ロイは好感を持った。それに、味のほうが文句のつけようなしに美味しいのである。
ロイが食堂に入っていくと、ソフィがまず礼儀正しく挨拶し、それから「ママの言ってたとおり大したハンサムさんなのね」などと、大胆に大人をからかうようなことを言って彼女は笑った。どうやら兄がシャイで奥手なのとは逆に――妹のソフィのほうは物怖じしない性格で、若干我が儘な傾向にあるようだった。
あとでその原因を、ラナは「主人が甘やかすもんですから」と説明していたが、それだけではあるまいと、ロイはそのように感じた。というのも、娘のソフィとフィッシャー夫人が話しているのを聞いただけでも、何も甘やかしているのは夫だけではあるまいといったように感じられたからである。
三人が座席に着き、食事の用意が万端整った状態になった時、まるでその瞬間を見計らったかのように、アンドリュー・フィッシャーその人が帰ってきた。彼は白のポロシャツにクリーム色のチノパンという格好でどこか颯爽と食堂に入って来、そして上座に着いていた。
「初めまして。すると、こちらがロイ・アンダーソンさんですね?」
ロイはフィッシャー氏から握手を求められ、慌てて立ち上がると彼の手を取った。初めて会った時の握手で相手の人柄がわかる――というのはよく言われることだが、ロイは彼に対して一瞬にして魅了されるものを感じた。
たぶん今は五十歳くらいなはずであるが、氏はまだ四十台前半くらいにしか見えなかった。正直なところをいってロイは、フィッシャー氏のことを見ていると彼の二十年前や三十年前がどんなだったか、わかる気がしたものである。卵型の良い形をした頭を覆う薄茶色の髪は、薄く後退するような様子も見せずむしろ分厚いくらいであった。月に一度理容室にでもいって、ここ三十年ずっと同じ髪型をしているといった雰囲気が漂っているが、それはとても自然で彼によく合った髪形でもあった。いわゆる王子さまがサラサラの髪をかき上げるといった仕種の似合いそうな髪型である。テニスの監督をしているというだけあって、自身の肉体もまた引き締まっており、「さらば!中性脂肪」といった本は一度も開いたことがないといったように見受けられる。しかも、彼の中で特に人が惹きつけられるのが、どこか懐の深そうに見えるその顔の表情であった。そしてここでロイはあるひとつのことに思い当たる――彼とソフィ・デイヴィスとは、血の繋がりのない義理の親子のはずだったが、全体的な雰囲気としてふたりが実に酷似したものを持っていると、ロイは瞬時にして気づいていた。
「どうも。本日はお招きいただいて、本当に感謝します。積もる話は山ほどあるのですが、もしお差支えがあるようでしたら、食事のあとにでもと思うのですが……」
「いえ、構いませんよ。言ってみればソフィおばさんは我が家の有名人ですから。娘のソフィなど、きっと先生の口から早く彼女のことを聞きたくてうずうずしているに違いありません」
「もう、パパったら!」
そう言って父とも母とも似ていないブロンドの髪の娘は笑い、まずは食前の祈りがすんでから、ロイはソフィの病状について改めて説明した。疼痛緩和のための鎮痛薬が処方されているが、これからはこの量が増える一方であろうこと、またそうなると吐き気や眩暈や気だるさといったことの他に、意識が朦朧とする時間が長くなるので、なるべく今のうち、意識の鮮明さを長く保てるうちに、会いたいと思う人に会っておいたほうが良いといったことなど……。
「おばさんは本当に――もう手術をすることも何も出来ないのですか?それに、他に色々な治療法があるでしょう?抗癌剤治療とか放射線治療とか……本当にもう何も出来ることはないと、お医者さんはそうおっしゃっているのですか?」
「そうしたアクティブな治療法というのは、本人が望めば出来ることには出来ますよ。けれど、ソフィさんの場合は、二度目の再発の発見が相当遅れてからのものだったので……本人はもういつ死んでもいいように思っていて、病院へ検査に来なかったというのです。苦痛の大きい延命治療は出来ますが、それは根本から癌を叩くといった種類のものではないので、そうした薄い望みに縋って苦しむより、ソフィさんはホスピスで安らかに亡くなられることのほうをお選びになったんだと思います」
「そんな……」
フィッシャー夫人がスプーンをシチュー皿に沈めて嘆息した。娘のほうでも会ったこともない女性だというのに、沈痛な面差しで目を伏せている。もしかしたら、父親の心痛を思ってのことだったのかもしれないが。
「そして――おばさんは僕に会うことを望んでいないというんですね?」
アンディはどこか青ざめた顔をしてそう聞いた。もしこのアンダーソンという気のいい精神科医が自分に電話をして来なかったらと考え、彼はぞっとしたのである。
「いえ、僕が言いたいのは、口で言っているのと本心とはまた別だろうということです。けれど、フィッシャーさんの御都合の良い時に突然あなたが会いに来るというのでは、精神科医のわたしとしての手落ちです。わたしは月曜日に病院へ出勤したら、彼女との面談の時間にあなたと会ったとお伝えするつもりなんですよ。そうして一度繋がりが出来てしまったと知れば、彼女もきっと意地を張らずに会うことを承諾してくれると思うんです」
おそらく普段であれば、この家族は客を迎えるのが好きで、フィッシャー氏もまた客あしらいがうまい人物なのだろうと感じられたが、食事中、話題のほうはあまり弾まず、氏が心ここにあらずといった様子なのは明らかだった。こういう時の彼には何を話しても無駄とわかっているのかどうか、妻も娘も遠慮がちに言葉を挟まず、粛々とした雰囲気の中で夕食は続けられた。
ロイは意外にも、その静かな雰囲気が嫌いではなかった。というよりもむしろ、フィッシャー家が普段から父親を中心にして回っている家庭なのだということがわかり、そこに一種の面白味すら感じたのである。ロイ自身が育った家庭もそうだったが、大抵の家では母親が太陽であり、家庭の中心だといったことが多いだろう。けれど、フィッシャー家では多くのことが父親の気分次第で変わるものらしいことが、ロイにははっきりと感じられた。それはつまり、彼が一家の大黒柱として、家庭をよく修めていることを表すものだったといえる。
父親があまり発言しないので、妻のほうでも娘のほうでも、遠慮がちに数語ずつ話すようにしか会話は進まなかったが、そうした中でもロイは美味しい食事を楽しみ、かつ周囲の状況や環境を観察することで快くリラックスして過ごした。
一流のフランス料理店でもまずないシックな食堂の雰囲気や、文句のつけようなく美味しい食事、それにどこか慎ましい雰囲気のフィッシャー夫人とソフィ・デイヴィスから名前を取ったという十四歳の美しい娘……ロイはなんとなく彼女は婚期が遅れるだろうなという気がした。美人なことを鼻にかけているから相手を選ぶだろうといったことではなく、彼女が父親のことを崇拝する眼差しで見ていることからそう感じたのである。つまり、父親が理想の男性のタイプといった女性は、それと同等かそれ以上のことを相手に求める傾向が強いだろうと思ったのである。
フィッシャー氏はどこか、心ここにあらずといった様子で食事を終えたのち、裏庭の見えるテラスのほうへとロイのことを誘った。「煙草は吸われますか?」と聞かれ、ロイは首を振った。アンディは「そうですか」と答えると、自室へ煙草を取りにはいかず、そのまま連れ立ってアンダーソン医師とテラスのほうへ出た。そこにはブランコとカウチ、それに花の鉢植えがいくつも並べられた木製の棚とが据えつけてあり、ロイは一目見てその場所が気に入ったものである。そんなことはありえないのではあるが、もし将来自分も家庭を持つとしたら、こうした一画を我が家の片隅に築きたいものだとロイは感じた。
「煙草、お吸いになられるんですか?」
ロイはカウチにフィッシャー氏と並んで腰掛けると、先ほどの発言があまりに意外だったので、思わずそう聞いていた。
「ほんのごくたまに、ですよ。あんまり気分の滅入るようなことや、よく考えなければいけないことがあった時なんかにね、一本か二本吸うことがあるっていう程度です。妻も娘もそのことを知ってるので、僕が煙草を吸うとすぐ『学校で何かあったな』と気づくみたいでね、我が家では一種の悩みのサインみたいなものです」
「そうですか。それはそうと、ここは本当にいいところですね」
大森林と忍びよる闇とが一体化したような中を、すでに沈んだ太陽の残光が輪郭を影絵のように切り取っている景色を眺め、ロイは感嘆して言った。
「僕もこんな自然に囲まれた素晴らしい場所で青春時代を過ごしたかったような気がします。大都会の公立校のような場所はもう、混迷を極めてましてね。健全な青少年の育成に役立つどころか、むしろ害になっている部分のほうが大きいようにさえ感じるくらいですよ」
「そうかもしれませんね。でもここも、お坊ちゃまばかりの通う一流校と言われてますが、まあ一度蓋を開けてみると色々ありますよ。つい先日も、ほら、そこの」
裏の森の闇の入口を指差して、アンディは言った。
「森の中を探し歩いて、うちに伝統的に伝わっている隠れ結社の隠れ家を探すといったことが行われたんですが、何しろ手に懐中電灯でも持っていないことには、夜はこのあたり一帯、本当の真っ暗闇に包まれますから、手の明かりをなくした生徒が森をさまよい歩いた揚げ句大怪我をしましてね。満月の夜に隠れ家の洞窟に集まってる連中にそのことが知れ渡り、危うく大変なことになるところでした。というのも、そうした伝統的に選ばれた階級が存在することが面白くない生徒との対立が生まれてまして、カラーギャングの抗争といったほどではないにしても、両者を治めるのに苦労したものです」
「ふうむ、なるほど」
お坊ちゃまにはお坊ちゃまで色々あるのだろうとロイは想像したが、それでもやはり公立校の混迷ぶりに比べたら、まだまだ可愛いものであるように思えてならない。
「ところでフィッシャーさんはおいくつですか?随分お若いようにお見受けしますが……」
「その言葉はそのまま、あなたにお返ししましょう」
食後のコーヒーを妻から受け取ると、トレイの上のひとつをロイに渡し、自分もデミタスカップを取り、アンディは「ありがとう」と妻のラナに言っていた。彼女はそのまま部屋の奥のほうへ下がっていく。
「これはエスプレッソですか?」
「ええ。うちは食後にエスプレッソを飲む習慣なんです。べつに気取ってそうしてるってわけでもなく、これもソフィおばさんの習慣だったんですよ」
ふたりとも、暫くコーヒーの味を楽しむことに専念し、黙ったままでいた。そして三分ほどしてから、そういえばというようにアンディが口火を切る。
「僕の年齢をお聞きしてましたっけ。僕は今年でちょうど五十になります。大抵、歳より若く見られますがね、それはたぶん若い連中と長く過ごして、奴らから若さのエキスを吸い取ってきたせいだと思いますよ。ヴァンパイアか何かみたいにね」
「そうですか。僕は今年四十になるんですが、フィッシャーさんとは大体同年輩くらいかなという気がしたものですから……もちろん、ソフィさんからお話を伺っておりますので、そんなはずはないと思ったんですがね」
「ソフィ……」
ここでアンディは、カウチの腕木のところをぎゅっと掴むと、もう片方の手では目頭を押さえていた。この感情の横溢を抑えるためにこそ、先ほど食事中にあれほど無口だったのだというように。
「僕の人生の中で、あれほど愛した女性は、他にいませんでした。最初、先生からお電話いただいた時、すぐにピンと来なかったのは、先生がおばさんの姓をデイヴィスとおっしゃったからです。僕にとってソフィおばさんの姓はいつまでもソフィ・フィッシャーのままだったものですから……それで、生徒の親族か誰かの名前かと思ってしまったんです」
「そうでしたか。それにしてもフィッシャーさんとソフィさんは似ておられますね。出会った時、ちょっとびっくりしました。何も顔がというわけではないんです。ただ、話し方やちょっとした仕種や全体の雰囲気みたいなものが……なんだか話していて似てるなって思います。もちろん、血の繋がりがないことは重々承知の上で申し上げるのですが」
アンディは時折コーヒーを口に含みつつ、同じくらいに濃さを増しつつある森の闇とを交互に眺めていた。コーヒーは闇のように黒く、恋のように甘くなければいけないらしいが、砂糖を入れないエスプレッソはとても苦いということをアンディは知っていた。
「なんだか、不思議ですね。アンダーソンさんとは、なんだか今日初めてお会いしたという感じがしません。おばさんからは大体、どのくらいのことを聞いて、僕のことをご存知なんでしょうか?」
「そうですね」エスプレッソの芳醇な味と香りを楽しみつつ、ロイは言った。「大体、一通りのお話はお聞きしたかもしれません。というのも、僕は聖十字病院に勤めはじめて今年で八年目になるのですが……死に際して人生の全体を振り返るというお手伝いをさせていただくということが、僕の持つ仕事の大きい部分を占めていまして。死の恐怖に打ち勝つためのヒントですとか、苦痛に対する恐怖を和らげるといったことに対しても、それは効果のあるアプローチ法なんです。もちろん、癌による痛みはコントロールが可能ではあるのですが、やはり精神が及ぼす影響というのは計り知れないものがありますのでね。たとえば、小さい頃にあった素晴らしいことで、何故今の今まで忘れていたのだろう……といったことを思いだせたりすると、何かそんな些細なことがきっかけで、突然自分の今の状況を受け容れられるようになったりですとか……本当に、人間の心というものほど不思議なものはないと感じます、この仕事をしていると」
「そうですか。女性の年齢のことはあまり云々したくないのですが、ソフィおばさんは今七十歳くらいだったしょうか?何分、あれほどの女性ですから、先生がお聞きするお話はきっと興味深いものばかりだったでしょうね」
「まったくです」と、ロイは屈託なく笑った。「実際、わたしがしていることは、通常の職務の範囲を越えていることなんですよ。患者がそれを望んでいないのに、勝手にフィッシャーさんに会いに来たりして……おふたりを無理にでも会わせようというのですからね。フィッシャーさん、明日わたしはまたサウスルイスのほうへ戻らねばなりませんが、もしソフィさんにお伝えしたいことがあったとすれば、言付かりますよ。あるいはもしかしたら、手紙を書いていただけないでしょうか。彼女があなたと会うことを納得するような手紙をというよりは、内容はなんでもいいんです。ただそれだけで、きっとソフィさんは死ぬ前にもう一度、あなたにお会いしたほうがいいと、会いたいと、そう感じられると思いますから」
「そうですね。手紙……」
<アンディ、あなたの幸せをいつまでも祈っています>、ソフィが最後に残して去ったメモのことを思いだし、アンディはまた胸が熱くなった。手紙など、自分が心の内に隠し持つ気持ちを伝える媒体としては、あまりに不十分だった。そして彼女にしてもあの時、そう一行自分に伝えるのが精一杯だったということも、今は痛いほどわかっている。
「僕も、これから書斎にこもって手紙を書き始めたところで、満足のいくものが書けるとは思わないのですが……それでも、書いてみようと思います。彼女と別れてからの自分がどうだったとか……いや、それは余計なことかな。今は家庭を築いて幸せにやっていますとかいうことも、ソフィには特段伝えたいことではないですし……彼女がこれまで僕にしてくれたことに対する感謝……いや、すみません、どうも考えがまるでまとまらないようで。申し訳ありませんがドクター・アンダーソン。ちょっと僕はこれにて失礼して、ソフィおばさん宛ての手紙を書かせていただこうと思います。ええと、もし屋敷内で勝手のわからないことがあれば……」
「奥さんのラナさんにお聞きしますから、どうぞ、僕にはお気遣いなく。それより、あなたの書かれる手紙を最終的に持って帰れることが僕にとっての重要な使命ですから。今すぐにでも書斎で書き始めてください。よろしくお願いします」
――こうして、ロイがフェザーライル校まで出向いて来た用向きは、ここで半ば完成したといえる。翌日、ロイが午前七時に起きだしてみると、アンディの姿はすでになかったが(テニス部の早朝練習に彼は出かけていた)、フィッシャー夫人が彼の書き上げた手紙を銀の盆にのせてロイに渡してくれた。
手紙のほうはなかなか厚いもので、これを夜半までかかって書き上げ、そして少し眠ってからまたテニス部の練習に彼が出かけたことを思うと……中身を見ずともフィッシャー氏の思いの丈が伝わってきそう気がロイはしたものである。
「あの人、朝起きてきた時、目が赤かったんですよ。きっとこの手紙を書いているうちに、色々なことを思いだしたんでしょう。わたしも娘もきのう、もう主人の<ソフィおばさん病>のことをからかったりはすまいと、約束しました。何より、ソフィさんは主人というひとりの人間のすでに一部なんですものね。その部分を含めてわたしも娘もあの人のことを愛しているんですもの」
手紙は封筒に入れてあったが、糊などで封がされていたわけではなかった。だがアンディは妻が手紙の中身を勝手に読んだり、また精神科医である自分が好奇心から読んだりすることはあるまいと信頼しているに違いなかった。
ロイとしてはこれで用向きのほうがすっかり済んだので、すぐにもサウスルイスへと帰るべく、荷物のほうをまとめた。朝食をご馳走になると、フィッシャー夫人に駅まで送ってもらうことになったが、列車の発車時刻まで少し間があったため、夫人の提案でロイはリース湖を一目見てから帰るということにした。
リース湖は国内でも屈指の透明度を誇る湖だけあって、湖面が透き通るような青さで満ちており、とても美しかった。ただ、湖の広さや生息している生物などを説明する看板を見ていると、あまり多くの生き物が棲息していないことがわかり、ロイとしては妙に納得したものである。水清ければ魚棲まずとよく言うが、ようするにそういうことなのだろうという気がした。だが、そのような場所だけを選んで棲息する生き物もあるのだろうし、またそうした環境が整わない限り、決して生まれてくることはなかった生命もあるに違いなかった。
そしてリース湖を見たことで清々しく心が洗われたロイは、この場所に案内してくれたことをフィッシャー夫人に心から感謝しつつ、駅で彼女と別れたのである。
>>続く。