(ちなみにわたし、こちらの本について読んでなかったりします(すみません)。萩尾先生と荒俣先生の対談を残してくださってる方がいて、そちらで読ませていただきましたm(_ _)m)
今回は、↓の本文にまったく関係のない、わたし個人のメモ書きです(^^;)。
あ、萩尾先生のお言葉を最初に引用しますが、萩尾先生関連の文章ということでもなかったり……いえ、萩尾先生は小さな頃、他人との「境界」を意識しない子供だった――というのを、『思い出を切りぬくとき』の中で読んだことがあったんですよね。
>>あとがき 私と他者
私は対人関係の距離をうまくとることが出来ません。幼いときからそうで、まず人見知りというものをしませんでした。人見知りとは自分と他人を区別する能力で、親しい人になつき、見知らぬ人を用心するわけですが、その能力がなかなかうまく発達しなかったわけです。
無用心に他者になついては、〃変な子〃と拒否されて傷つく。それで私はだんだん、どうも〃他者〃は〃私〃ではないらしいと気づき、〃他者〃とは何か考え始めるわけです。
他者には他者の都合がある。気持ちがある。こだわりが、価値観がある。そして、相手を理解すればするほど、私は〃他者〃という人間から遠ざかっていきました。
遠ざかると孤独になるので、やはり近づく。近づくとまた無防備になって傷つく。それで用心深くなる。ここが距離がとれないところで、無防備と用心深さの両極端をいったりきたりするのです。ブランコのように。
(『思い出を切りぬくとき』萩尾望都先生著/河出文庫より)
それで、荒俣宏先生との対談で、戦争をなくすには、共有意識を持つところまでいくしかないのではないか……みたいに萩尾先生がおっしゃってるのを読んで、その時は「う~ん。でも、いつかSF級に科学技術が発達したら、不可能ではないかなあ」と思いつつ、そもそもそれまで人類がこの地球上に存続しえているかどうか謎かもしれん――なんて思ったりしてたわけです。。。
その数日後、これもたまたま偶然、とある心理学系のセミナーを聞いていて(あ、ブレーネ・ブラウンさんのです^^;)……「わたし(自分)と他者の間に何故境界が必要か」という話があって、「自我を区切るものとして境界は必ず必要なものだ」ということだったんですよね。
確かに、「わたし」と「あなた」の間に境界があるからこそ、わたしたちは互いに対する無理解に苦しんだりするのかもしれない。でも、「自我を区切るものとして境界は絶対必要だ」という前提において、「我々は互いにわかりあわねばならない」……そのために必要なことは何か、ということでした。まあ、簡単にいえばそれは「思いやり」と「共感性」ということだったりするのですが、なかなか深いお話で、聞いていて思わず感動するくらいでした
そして、その翌日さらに、こちらはHKのおんでまんど。でなんですけど、これもよくある言葉かもしれないとはいえ――「あなたはわたしだったかもしれないし、わたしはあなただったかもしれない」……という言葉が語られていたんですよね。それで、わたし的にふと思ったわけです。まあ、確かに究極の「思いやり」と「共感」って、ようするにそういうことだろうな、と。
また、以前とあるSF小説で、科学技術の発達により、簡単にいえば(作品の中ではそうした言い方はしてないものの)、こうした「わたしやあなたという他者」を区切る境界を取っ払って、「個々人である<わたし>」が「ひとつの意識世界として統一され」、「わたしたち」になる……という作品を読んだことがありました
これ、たぶんエヴァンゲリオンの人類補完計画のことを思いだす方多いと思うんですけど(笑)、漫画版のエヴァだと確か、「そうも出来る」けれど、「傷ついたとしても」、「僕は僕でいたい」というか、「みんなの意識がひとつになることで傷つかなくてもいい世界」よりも、シンジくんはそちらを選ぶ――といったような結論だったと思います(本がすぐ手に取れる位置にないので、正確に確認してなくてすみません)。
それで、わたしが読んだSF小説のほうも、「わたし」から「わたしたち」になったことで、人類は幸せになったかといえば、そーでもない……みたいな、ちょっと悲観的な終わり方だったような気がしてます。ただ、一度「わたしたち」になった以上、もう後戻りは出来ず(つまり、もう一度自我を境界で区切って、元に戻りたい人は戻ってもいいですよ、という選択肢はない)、それがいいか悪いかではなく、統一された意識世界の「わたしたち」でやっていくしかない――という結末なわけです。
まあ、でもネット世界が物凄く発達したことで、すでに「そうした世界に意識を移すことが出来ないか(あるいは意識を行ったり来たりさせたり出来ないか)」という作品がいくつもあるように、確かにこれに近いことは起きてくるような気がしますよね(^^;)。
ただ、わたし自身は自分がそう選択する事態に迫られる前に死ぬだろうと思ってますし、あくまで個人レベルで言えば「傷つくことは悪か」といえば、決してそうとは言えない。自我を区切る境界がなくなって、「わたし」から「わたしたち」という統一された意識世界になった時……すべては曖昧模糊とした地続きの意識世界になるということなら――「わたしはわたしである」と自覚しない世界、「我思うゆえに我あり」ではなく、「我々思うゆえに我々あり」という世界というのは――なんかあんまりはっきりスッキリしない世界なんじゃないでしょうか。つまり、「こっからここまでを区切って、自分ひとりの自我だけ持ちてえ」といくら思っても、巨大な脳の神経細胞の一部でありつつ、それでいてそこからすべて統一された世界について思う存分理解し堪能できる……そうした特典を味わいつつ、同時に「個」であることは不可能と言いますか。
でも、「自分が統一世界にアクセスしたい時だけアクセスして、それ以外では自我の世界へ戻ってこれる」モデルというのは、理論上可能な気がするんですけど、どうなんでしょうか。とはいえ、問題なのはおそらくその場合、その世界のトップに立ってコントロールしている神にも等しい立ち位置にいるのは誰か……ということであり、最近の動向でいうとどうも、それは最終的にAIになるっぽい感じがしませんか?(つまり、そうした意識の共有世界を最初に創ったのは人間でも、その後AIに乗っ取られ、人間は意識を管理されるようになった、等々)。
また、映画の「マトリックス」みたいに、そのくらい科学技術が発達した頃には、「実は自分たちを管理しコントロールしているのはAIである」とは誰も知らずに、管理・コントロールされている人類――とか、これもまたSFあるある設定といった気がするのは、わたしの気のせいだったでしょうか(^^;)。
それではまた~!!
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↓一応、誤解のないように、萩尾先生×荒俣先生の対談部分を引用しておきたいと思いますm(_ _)mわたし、「終わりなき戦い」という作品を読んでないものの……確かに、コミュニケーションの成功というよりは、その形だとコミュケーションが敗北し続けるしかないので妥協案として意識を共有せざるを得なかったということなのかなって思ったんですよね(^^;)なんにしても、「コミュニケーションの消失」という萩尾先生の理解が素晴らしいです
>>萩尾先生:私の共同体意識というのは、エマニュエル・レヴィナス(1906~1955)という哲学者がいるんですけど、この人の論文というか、そういった本を読んでいるときに、思いついたことなんです。互いが互いのことほ考えるのはどういうことかっていうそこから来ているんですけれど、それの前提となる話が、人間は通じ合うことができない、だけど通じ合うように努力しなければいけない、その努力こそが人間らしいし、わかり合えないということはないのだという非常に宗教的なポジションのお話で、それを極端に発展させたのが『バルバラ異界』の青羽ちゃんです。いっそ意識体が一つになればいいんじゃないかとちょっと思ったんですね。
荒俣先生:「レヴィナスとは、またすごい本をお読みですね。私も読んだことないです」
萩尾先生:「たまたまですよ。だけど、そういうことで『バルバラ異界』を描き始めましたけど、実は描き始めた途端にまずいと思ってしまいました。有名なSF『終わりなき戦い』をかいたジョー・ホールドマン(1943~)が、戦いに行った兵士が全部相手の兵士との共同意識体になって戦争ができなくなったというエピソードを書いていたからです。でも、やはりこうしたストーリーに対してはすごく憧れがあるんですよ、これで収まるんじゃないかと。ただですね、収まるということは、コミュニケーションが成功したというよりはコミュニケーションが消失したというのと一緒だなと思って」
荒俣先生:「あ、それすごいですね。消失に非常に近いですね」
萩尾先生:「だから、あれを描きながら、最初の載せたときにやばいと思ったけど、設定しちゃったからこれで終わらないといけなくなりました」
(「日本まんが第参巻~きらめく少女の瞳~」荒俣宏先生編著/東海大学出版部)
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惑星シェイクスピア。-【58】-
「こんなまずいもの、食べられやしないわ!今すぐ作り直してちょうだいっ!!」
マリアローザは巫女姫である彼女だけの部屋で――テーブルの上にセットされた白磁の食器類をガチャッと押しやった。彼女は本当に機嫌が悪くなると、皿や茶碗類を壁や床に叩きつけることもあったが、どうやら今日はそこまでではないらしい。
(フランソワさまとお会いしたからかしらね。それにしても困ったこと……あの方との関係が終わりになったとしたら、巫女姫さまは一体どうなることやら)
「何が御不満なのですか?」と、ミラベルが聞いた。部屋にはまだ給仕係の若い巫女がいたが、どうしたものかと、彼女はこのふたりの顔色をおどおど窺ってばかりいる。「今は、来月ある聖ウルスラ祭に向け、神官方は断食をし、我々巫女も交替で断食祈祷及び、食事に際しては精進料理を少々……といったところでございます。ところが、その中でもっとも祈りに励まねばならぬ巫女姫さまのお食事といえば……ほほほ。お肉料理もあればキノコのパイ包みもあり、その他果物も野菜もたっぷり。これで、一体何が御不満なのか、第一側近巫女であるわたくしめには、まったく理解に苦しむところですわね」
そう言うと、ミラベルは給仕係の娘に(これ以上とばっちりを食わぬうちにお下がり)というように手で合図した。すると、娘のほうでは左手で左肩を押さえ、足を屈めるという挨拶をしてのち、料理をのせてきた木製ワゴンとともに部屋を出ていった。
巫女姫は物心ついた頃からずっと、食事をするのは常にひとりきりだった。何故か、というのは誰にもわからなかったに違いない。ただ、伝統的にそのように決められていたのである。おそらく、神の代理人とも言える立場の巫女姫が普通の人間たちと一緒に食事するということ自体が禁忌(タブー)とされたのだろう。だが、その時代の巫女姫によっては、何人かの気に入りの巫女を呼び、自分の私室にて午餐会や晩餐会を開くといったことはよくあったようである。
「わかったわよ。食べればいいんでしょ、食べれば……」
マリアローザは、ぶすっとした顔のまま、スプーンを手に取るとスープを啜りはじめた。彼女は、自分の教育係であったミラベルには弱かった。また、巫女姫には側近巫女と呼ばれる者が数名いるのが普通だったが、大抵は巫女姫の教育に小さな頃から関わっていたものがそのままその座に収まることが多い。
「それで、フランソワさまとの逢瀬はいかがだったのです?」
「どうって……どういう意味?」
マリアローザはパイの柔らかな薄い膜をフォークで破ると、中のシチューに浮かぶキノコを意味ありげな仕種で食べた。現在、聖ウルスラ神殿にいる巫女の中で、タブーを破っている者は決して自分だけではないと彼女は知っている。その点、このいかめしい顔の四十女は自分の養育のみに熱心で、そのような色恋とは無縁であったらしいと、マリアローザはよく知っていた。
「お言葉の意味、そのままでございますよ。もしフランソワさまのほうで……御自分に相応しい身分の娘とご婚約、などということにでもなれば、巫女姫さまの悲嘆はいかばかりかと察するにあまりありますからね」
「でもあんたも、よくあんなことをわたしに許可したものよね。事が露見した暁には、ミラベル、あんただってただでは済まないとわかっているでしょう?それなのに、祈祷の間でわたしの身代わりになることさえして……そうよ。だのに結局あいつはわたしを裏切って、誰か適当な貴族の娘とでも結婚するでしょうよ。そしたらあたし、その女のこと、終生に渡って呪ってやるの。巫女姫ともあろう者が、祈祷の間で民の暮らしの平安をではなく、ひとりの女の不幸を願うのよ。そんなことでここ、聖ウルスラ神殿はいいのかしらね?」
給仕係の巫女の代わりに、ミラベルは白磁の茶碗に茶を注いだ。常にここ、聖ウルスラ神殿には最上の茶葉のみが献上品として奉納されることになっている。ゆえに、この茶葉もまた、メレアガンスの南西地方にある茶畑の最上級品だった。
「すべては、巫女姫マリアローザ、あなたのお考え次第なのではありませんか?わたくしや第二側近巫女であるサビーヌや、第三側近巫女であるディアンヌあたりが何を言おうと無駄なこと……あなたさまという巫女姫を形作るのに、教育係となったのは十数名ばかりもおりますが、結果としてわたくしたちが自分たちの力量のすべてを尽くし、あなたという巫女姫を最上のお方として作り上げようと苦心したにも関わらず――結果、このようにしかならなかったということは、何よりもまず、第一教育係にして第一側近巫女であるわたくしの手落ちでございます。あなたさまよりも、より一等ひどい刑罰によって処刑されても仕方ありますまい。そのかわり、わたくしはよくよく存じておるのですよ。ここいる限り、わたくしたちは世間の穢れとも飢えともまったくの無縁であり、食物と身の回りの調度品にも困ることは今後ともないでしょう。そのこと、このミラベル、星母神さまに日々感謝の祈りを欠かしたことは一日たりともございません」
「ミラベル、あんたのその話はもう耳にタコが出来るほど聞いたわ。だけど、おかしいじゃないの。本当の巫女姫はわたしじゃなくて、あの赤毛のディミートリアのほうだっていうのに、実際に神事に携わるのはこのわたしだなんて……そのうち、この聖ウルスラ神殿に神罰が下らなければいいけどね」
ミラベルは今でも、ひとつだけ神に対し恨んでいることがある。というのも、マリアローザの父であるセスラン=ウリエール卿が、巫女姫である自分の娘の帰宅時に――書斎にて、次のようなことを語っていたことがあるのだ。その頃、彼女はまだ数いる教育係のひとりであって、ウリエール卿が神殿に寄進したという別荘についていった時……初めて知ったのだ。「今は亡き我が妻、アリアーナの最高の私に対する贈り物さ。あの娘はね……今後も、巫女姫として祭り上げて御機嫌さえ取っておけば、金と権力は我が思いのままというわけだ」
マリアローザは生まれながらにして、感受性が強く、賢い娘だった。それゆえ、まだ十になるかならずかというその時、その言葉のみによってすべてを理解した。つまり、自分が父と呼んではいけないが、そうと慕う男は本物の愛によって巫女姫たる娘を愛しているわけではなく、ただの政治の道具に過ぎぬということを……。
「本物の巫女姫が他にいるかだって?さあねえ。私のマリアローザがそうじゃないなら、あの赤んぼたちの中にいたってことを君は言いたいのかい?ハハハ。そんな考えは少々……いや、少々どころでなく不敬なのではないかな」……自分を決して裏切ることはない、同じ既得権益によって結ばれている貴族の友人相手に、セスラン=ウリエールはそんな話をしていたのである。すぐ隣の部屋で、マリアローザとミラベルが聞いているとも知らずに。
その日から、すべてが変わった。マリアローザはすっかり手のつけようのない我が儘な娘となり、二言目にはすぐ「あんたなんかもうクビよっ!」とか、「ここから出て行ったら、どこへも行くとこなんかないくせにっ!!」と、大人たちを困らせるどころかいびるようにさえなっていったのである。このあたりの微妙な事情を知る巫女は、ミラベルとサビーヌとディアンヌの三人だけだった。彼女たちは自分の神殿内における保身のことなど考えてはいない。ただ、赤ん坊の頃から育てたマリアローザのことが、自分の娘でもあるかのように可愛いというそれだけだった。
だが、それゆえにこそ不憫でもあった。普段は我が儘な振るまいの目立つマリアローザではあったが、ひと度神事を司ることになれば、「心得まして候」とばかり、完璧なまでに巫女姫の務めを果たすことが出来たのだから。とはいえ、彼女は知っていたのである。偽の巫女姫である自分がその立場にあるということは、「神など実はこの世に存在せぬ証拠」だということを……また、マリアローザは聖ウルスラ神殿内における茶番のカラクリについても理解するようになると、自分と同じ星の元に生まれたという赤ん坊の中に<本物の巫女姫>がいるのではないかとすぐに探した。無論、彼女たちには理解できなかったろう。ひとりひとり、巫女姫の寝室へ呼ばれると全裸になるよう命じられ、自分たちの教育係でもあるミラベルやサビーヌたちに「いいから、言うとおりになさい」などと言われたのが何故だったか……。
結局のところ、この時体のどこかに竜の痣と思しきものが見られる娘は三十九名いた巫女のうち、誰もいなかった。そのことから、ミラベルもサビーヌもディアンヌも、「おわかりになりましたでしょう?これこそ、やはりマリアローザ、あなたさまこそが巫女姫であることの何よりの証拠」と、そのように上手く話をまとめようとした。だが、当のマリアローザは違った。巫女たちの身につけている最上の亜麻布で出来た巫女服の胸のあたりをはだけると――「これは、あの血も涙もないあの父親が、泣きながら『やめて!お父さま、お願いだからやめさせて!!』と叫ぶ娘の声を聴きもせず、無理やりに刻印させたものだもの。ということはやはり、他に本物の巫女姫がいるということなのよ」と、彼女は狂気じみた目をして言うのだった。
その後、湯浴みをしている時に、赤毛のディミートリアの背中の肩あたりに赤い痣が浮かび上がることがある……と、ある巫女がなんの気なしに語ったことがあった。だがそれは、ディミートリアが感情的に激しく揺さぶられた時、あるいは風呂に入るなどして体温が上がった時等に見られるもののようだ、と。
マリアローザはその痣が竜の形までしてはおるまい――そう思っていた。だが、自分の湯浴みを手伝わせた時、ディミートリアの背中には確かに、竜の形をしたそれがはっきり浮かび上がって見えたのである!!
マリアローザは狼狽し、その後三日間寝込んだほどであった。だが、気力が回復してくるうち、徐々にあるひとつの計画が彼女の頭をもたげ始めた。すなわち、今後ディミートリアを自分の身の回りの世話をする巫女としていじめ抜いてやり、それで何か変化でも見られるものかどうかということを……。
もし赤毛のディミートリアが本物の巫女姫であるならば、なんらかの逆転劇が起きてしかるべきである。つまり、偽の巫女姫である自分自身に神罰が下って病いの床に伏せるなり、他の巫女たちがすっかり現在の巫女姫である自分を見捨て、金にも近い赤毛である以外では、なんの目立つところもない地味なディミートリアにこぞって味方するといったような――何かが起きるのではないだろうか。
そこで、マリアローザはありとあらゆる手段を尽くしてディミートリアのことを困らせてやった。食事の給仕の仕方がなってない、部屋の掃除後に小さなゴミが落ちている、洗濯を頼んでおいたベッドカバーに染みがついている……いびるための材料ならばいくらでもあった。そのうち、ディミートリアはマリアローザがちらと視線を向けただけでも、次は何を言われるだろうかと身を震わせて待機するようになった。そして、マリアローザはこの時すっかり満足していたのである。偽か本物かどうかなぞ関係ない。仮に肩のところにあれほどはっきり竜の痣が浮かび上がって見えようとも――巫女姫とはそれに相応しく幼き頃より教育されねばなれぬものなのだ。彼女はそう納得すると、ディミートリアのことは犬か猫のように首輪にでも繋ぎ、飼い殺しにすればいいのだと考えるようになった。この聖ウルスラ神殿という広いようで狭く、狭いようで広い檻の中で、自分とまったく同じように。
(一度は、このわたし自身の手で汚してやるか、フランソワが言っていたように外の男にでもそうさせてやろうかと考えたこともあったけれど……偽の巫女姫であるわたしに対するあの卑屈なまでの怯えっぷりを思えば、最早そんなことすらどうでもいいくらいだわ)
そうなのである。偽の巫女姫が純潔を守っていようといなかろうと、おそらく神々にとってはどうでもいい瑣末なことなのだろう。また、本物の巫女姫と考えられる娘が虐げられようとどうしようと、助けるつもりもないのだ。つまりはそのような形式上の空中楼閣の座に座る姿なき神の与える罰など――恐れる必要などない。そして、自分もまたその目に見えぬ空座に座らされた巫女姫として、生涯に渡り王侯貴族や民衆を騙し切ってみせよう。その与えられた<巫女姫>という名の役割を理想的な形で演じることによって……。
(こんな皮肉な役を与えた神など、もしやって来たらわたしのほうで追い返してやる。そもそも、おまえのせいでこのような手違いが生じたというのに、そのことでわたしに文句を言うなど間違っていると、そう逆に断罪してやればいいのよ)
「ミラベル、あんたも一緒に食事なさいよ。この聖ウルスラ神殿にまつわる偽善について、すべて知っていてあんたがなお肉を断とうというのが何故か、わたしは理解に苦しむけどね……いつも言ってるでしょ。食事中にただ脇でぼうっと突っ立ってられると、食事がまずくなるのよ」
「左様でございますか。では、こちらの塩漬けニシンを少々と、豆料理でもいただきましょうかね。マリアローザさま、あなたさまはこうしたものは下々の食べるものだとして、お嫌いでしたでしょうからね」
こうして、ミラベルは部屋の隅から椅子を持ってくると、マリアローザの隣に座って一緒に食事した。マリアローザは巫女たちの中でも、特別に信用している者としか食卓を囲むことはなかった。そしてそれは巫女姫である彼女の教育係だった者がほとんどであり、年の近い巫女の姿はほとんどなかったのである。ゆえに、だからこそミラベルやサビーヌやディアンヌの悩みは、彼女たちの額や頬や目尻に刻まれた皺のように徐々に深くなっていったのである。もし今後、自分たちが死んだとしたら、巫女姫マリアローザは一体どうなってしまうのだろうということを思うと……。
>>続く。