こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

惑星シェイクスピア。-【57】-

2024年05月27日 | 惑星シェイクスピア。

 

 わたしが「アヘン」ということに最初に興味を持ったのは、シャーロック・ホームズが「アヘンを嗜んでいた」といった場面が、作品中のどこかにあったそのせいだと思います

 

 それは今からもう△□年も前の読書の記憶であるものの(笑)、「え?アヘンって特に社会的に隠れもせず、嗜んじゃっていいものなの?」と読みながら驚いた記憶があるというか

 

 確かに、学校の社会の授業か何かで、「アヘン戦争」についても勉強した記憶がありましたが、そもそも頭の悪い子だったので、「1840~1842年、アヘン戦争。なんかイギリスと中国がアヘンのことで輸出入の規制がどーしたこーしたで戦争になったらしいよ。あとは南京条約のことくらい覚えておけば点数とれんじゃね?」といったような覚え方しかしてなく……しかも、テストが終わった瞬間にそんなことも忘れてしまうという素晴らしき鳥頭。コケッコ☆

 

 でも今回、↓のお話の中にアヘンのことが多少なり出てくるため(ギベルネスもこれを医療用に使おうと考える)、「アヘンとはそもそも何か、どうやってケシから抽出して使うものなのか」について少し調べてみようかなと思ったわけです。。。

 

 そこで購入したのがトップ画の「ポピーの文化誌」という本だったのですが、ポピーという植物について、またアヘンについても、わたしがある程度「知りたい」と思うことについては、大体書いてあったと思います

 

 以下は、そうした関わりあいについて、わたしが興味深いと感じた部分について抜粋してみた……といったところですm(_ _)m

 

 

 >>ポピーはアヘンを生産する。そのせいで、はからずも良くも悪くも人間の振る舞いに多大な影響を及ぼす犯人になった。

 使用の初期段階では薬物は神経系に魔法のような効果を及ぼし、アヘンも含めほとんどすべてが高い中毒性を有し、このため人々はそれを得るためにどんなことでもするし大金を払う。よく知られているように、常用すると、しだいに多くの量が必要になり、影響は無害には程遠く、しばしば使用者が重大な犯罪を犯すことになる。直接的には薬物の影響から、間接的には費用をまかなおうとするためである。薬物は、人間の歴史において最良のこと(多くの場合、偶然に)と最悪のことに寄与してきた。

 アヘンの性質のいくつかは、少なくとも古代エジプト文明、おそらくはメソポタミアの最古の文明の頃から知られている。その効果は大きく、たいていためにならない。詩やそのほかの著作、音楽、映画に大きな影響を与え、少なくともふたつの戦争を引き起こし、少なくとも別のふたつの大規模な軍事衝突で医療目的の非常に貴重な薬品を提供し、幻覚を起こさせる違法な薬物の巨大な市場を生み出した。

 アヘンを生産するポピーは、緋色のヒナゲシとはまったく異なる種である。ケシ(Papaver somniferum)(このラテン語の文字通りの意味は「眠りを作るポピー」である)は、もっと大きくてしっかりした植物で、茎と葉を帯白色、つまり青みがかったロウのような艶でおおわれている。花は通常、すみれ色、紫、ピンク、あるいは白で、たいてい中心部が黒っぽいが、ヒナゲシより少し暗い色の赤い種類もある。成長しているところを見れば、ケシをヒナゲシと間違える人はいないだろう。それにもかかわらず、絵のなかでケシがしばしば緋色に描かれており、おもにそれは名前からの連想によるのだろう。ヒナゲシと同じく一年生植物で、成長すると普通、およそ1メートルの高さになり、たまに1.5メートルになることもある。ケシは通常は農地雑草ではないが、庭や空き地に現れる。

 ケシは広く植えられてきたため、ヒナゲシと同じように、もともとどこから来たのか知るのは難しい。栽培されているものか、人間によって耕されたか掘り返されたことのある場所のありふれた雑草としてのみ知られている。

 ケシは何千年も前から人間によって広げられてきたため、自生植物としてどれくらい広く分布していたのか誰にもわからない。とくに生産力のあるものが、数千年にわたって選ばれてきたのだろう。非常に長い間栽培されてきたため、栽培されるか耕作地のありふれた雑草としてのみ存在する実質的に別の種になったと考えてかまわないだろう。

 アヘンは、未熟な莢、つまりポピーの果実の乳液からできる。果実に浅い切込みを入れて集めるが、近頃は普通、3~4枚刃があるナイフを使い、刃は3ミリかそこら離れている。白い乳液がにじみ出て乾くと黄色の付着物になるので、それを掻き取って乾かすと生アヘンができる。理想的な場合、これが2~3日の間隔でひとつの莢につき3~4回できる。そのようにすると最大で1ヘクタールのケシから年に12キロもアヘンを生産できる。

 アヘンに含まれるもっともよく知られていてもっとも重要な薬物がモルヒネで、強力な鎮痛剤として医療で広く使われている。モルヒネはケシから最初に分離された薬物で、じつは1804年に植物から分離された最初の薬物でもある。アヘンに含まれる鎮痛剤や向精神薬はそれだけではない。それとコデインとテバインというふたつの重要なアルカロイド剤があり、コデインは鎮痛作用と幻覚作用をもつ。テバインは未精製の状態では興奮剤だが、化学的に加工すると多数の麻酔性のアルカロイドを作ることができる。そのほかにもアヘンには、おもに腸の痙攣の治療に使われる血管拡張剤パパベリン、モルヒネと似た性質をもつがもっと穏やかなナルコチン、そしてこうした性質をもたないほかのアルカロイドがいくつか含まれている。莢に含まれるこうした薬物の量は非常に変動が大きい。何世紀にもわたる選抜育種により、3つの主要薬物が生アヘンの91パーセントにもなるものが作られたが、その量が14パーセントという低い値になることもある。

 こうした原料物質を精製し、化学的に改変してもっと効き目の強いものを作るため努力が重ねられてきた。アヘン中に存在する薬物かそれから派生する薬物は、オピエートと呼ばれている。モルヒネを化学的に処理するとヘロインを作ることができ、これにはおよそ2.2倍の効力がある。ヘロインは1895年にドイツの製薬会社バイエルによって初めて商業的に生産されたが、初めて合成されたのはロンドンのセント・メアリーズ病院においてで1874年のことである。バイエルがそれを「ヘロイン」と呼んだのは、使用者を力強く高揚させ、「英雄的な(ヒロイック)」効果をもたらすように見えたからである。そのほかにも、医療に使われるオピエートがいくつかモルヒネから精製されている。

 アヘンにもともと存在する3つの薬物のうちテバインはほかのふたつに比べて知られていないが、最近ではコデインのほかの鎮痛剤、オキシコドン、ヒドロコドン、ヒドロモルフォンなどを合成する原料として使われている。モルヒネと違って、テバインはケシの莢だけでなく根にも存在し、ほかの2種、庭の観賞植物として普通に育てられているオニゲシ(Papaver orientale)とケシの野生の近縁種かもしれないハカマオニゲシの根から抽出されてきた。テバインを精製して得られるいくつかの鎮痛剤は、モルヒネの1000倍も強力なことが報告されている。ポピーに存在するオピエートに化学的によく似ていて、効果も似ているオピオイドが、1930年代以降、化学的に作られてきた。たとえばメタドンやペチジンといったよく知られた薬物がある。これらオピエートとオピオイドはみな中毒を引き起こす可能性がある。

 ケシはアヘンのきわだってすぐれた生産者であり、それはその目的で育種されてきたからである。その性質が最初に発見されて以来、もっとも生産能力が高いものが選択されてきたのだろう。ほかのポピーの種でごく少量のオピエートを含むものはいくつもあるが、商業的生産ができるほど十分な濃度ではない。

 アヘンには、よく知られている麻酔作用と幻覚作用に加えて、ふたつの重要な効果がある。摂取者を便秘させ、そのため下痢、赤痢そのほかの腸の障害に処方される。そして呼吸系に影響を及ぼすため、咳の緩和に使われる。こうした病気の治療薬ではないが、症状を緩和することができる。心臓の不具合、不眠、理由はわからないが痛みを引き起こす問題など、さらに多くの病気に処方されてきたが、一般的な苦痛の除去はおもにその麻酔性によるものだった。目の瞳孔を収縮させる効果もある。過剰摂取の危険性が古くから知られており、よく事故死や意図的な自殺の原因になっている。

 

(「ポピーの文化誌」アンドリュー・ラック先生著、上原ゆうこ先生訳/原書房より)

 

 ええと、ちょっと引用が長くなってしまったんですけど……興味のある方にとっては、かなりのところ「へええ~」となる文章ではないかなと思い、少し長めに引用させていただきましたm(_ _)m

 

 それで、「アヘン戦争」が何故起きたかについても本の中で触れてあり、>>「中国は大量の絹、茶、香料をイギリスに売っていたが、逆方向の貿易は非常に少なく、すべて銀で支払われていた。銀の供給量は限られており、イギリスは何かほかのものが必要だった。アヘンがその品物になったのである」とあり、この当時中国には400万人以上もの中毒者がいると推定されていたことから、医療用以外での使用が規制されるようになった、そこで起きた貿易摩擦の高まりによりアヘン戦争が起きたという、大体のところ短くまとめたとすればそうしたことだったらしく(まあ、学校の成績の良かった方は「そんなもん、世界史の教科書に書いてあらあな」という話かもしれませんが、一応念のため^^;)。

 

 他に、わたし割とつい最近「巨大製薬会社の陰謀/THE CRIME OF THE CENTURY(前編「世紀の犯罪~オピオイド危機の真相~)、後編「処方箋の対価~合成麻薬フェンタニルの蔓延~」というちょっと長めのドキュメンタリーを偶然見たわけです。オピオイドと聞いて大抵の方がパッと思い浮かべるのはたぶん、「ああ、がん患者の方の疼痛コントロールとして使われる……」ということだと思うのですが、アメリカの製薬会社が「金儲けのため」に、FDA(食品医薬品局)の規制の目を逃れて――というか、法の目をかいくぐる形でというか、いやむしろはっきり「不正をして」、オピオイド系の鎮痛剤により驚くべき巨万の富を築いた。そのやり方のほうは、大体のところ次のような形によってでした。がん患者にのみにこれらの強力な鎮痛薬が使われるというのでは、市場が限られていて製薬会社は儲からない。ゆえに、市場を広げるために……それが怪我による軽度の痛みであれ、「腰痛」といった慢性の痛みに対してでも医師が強い鎮痛剤を処方できるようにしたわけです。

 

 このやり口のほうが実に悪どいわけですが、もともと悪いのは製薬会社であったにしても、製薬会社が多額の金を賄賂として支払ってくれることによって(講演会の講演料といった形を取る)、お医者さんのほうでもはっきりそう気づいていて(金のために)処方箋を書いている場合もあれば、薄々そうと気づいていながらも、「患者が痛みを訴えてきたら、その痛みを取るのは医者の当然の役目である」と考え、患者が望むとおり、痛みが取れる量になるまで大量に鎮痛薬のほうを処方し続けた。

 

 こうして、十代の交通事故に遭った若者から、中年やそれよりも上の年代の腰痛患者の方に至るまで――お医者さんから強い鎮痛剤を大量に処方された結果、アメリカでは普段麻薬といったものとはまるで無縁の生活を送る方の間にまで、中毒患者が恐ろしいほどの数、増加する一途を辿った……というのが、大体のところのドキュメンタリーの内容です。

 

 しかもさらに恐ろしいのが、司法に訴えても、製薬会社が政治家の議員に多額の金を贈るなどしてこうした製薬会社のほうは罰金を支払う程度でその罪を免れ……なかなか根本的解決のほうには手が届かずに終わるわけです。もちろん、こうして長いドキュメンタリーが製作されているくらいですから、これら大手製薬会社などは逮捕されたり、多額の賠償金を支払うことになるなどして、問題の解決にはようやくどうにか手が届いた――ということに最終的にはなっています、一応は。

 

 でも、問題がわかっていながら長きに渡って解決が遅れたことにより、その間も今も、アメリカ全土の夥しい数の人々が中毒に苦しみ、たくさんの方が死亡しました(死亡した米国人50万人以上、何百万人もの米国人が中毒に苦しんでいる……それが「オピオイド危機である」と最初のほうに字幕がでます)。「国が罪の根本を担った」という意味でも、恐るべき大罪であり、これだけのことがアメリカで長期間に渡って起きていた……ということすらまったく知らなかったので、自分的に色々な意味で驚いたというか

 

 そもそも最初に巨万の富を稼ぎ出した製薬会社のパーデュー・ファーマ社は(築き上げた財は140億ドル以上とか)、オーストラリアに広大なケシ畑を所有し、栽培しているに等しいのですが(正確にはジョンソン&ジョンソンにケシの栽培や収穫などを依頼するといった形)、アフガニスタンといった国がその貧しさゆえにケシを栽培して少しでもお金を稼ごうとする……といったこととは違い、機械化されているので、恐ろしく広大な大地に栽培されたケシの、必要な部分のみを機械で大量に刈り取っていくという形なわけです。

 

 そういうのを見てると……本当に、ただ「金儲けのために」人間が自然を利用することの罪深さみたいなことを感じて、愕然とします。もちろん、そうした恩恵に与っていればこそ、今日もわたしの元にはアマンゾその他から商品が届くっていうことであるのは、わかってるつもりなんですけどね(^^;)。

 

 全部見るのは結構大変な気がするので、特段人にお薦めするものではないのですが、「巨大製薬会社の陰謀(アメリカのオピオイド危機)」は、薬物に関して造詣が深いか、興味のある方にとってはすごく考えさせられるドキュメンタリーと思います

 

 それではまた~!!

 

 

 

 ↑に出てくる「オキシコンチン」が、↓のオキシコンチンに繋がります。製薬会社パーデュー・ファーマは、オキシコンチンが末期がん患者のみにしか使用されないのでは儲からないと考え、FDA(食品医薬品局)の局員を買収し、うまく法をすり抜け、「中毒性は低い」イメージによって医師が処方できるようにします。こうしてオキシコンチンを簡単に手に入れらるようになった患者さんたちに中毒者が増えていき……さらには、他の製薬会社もパーデューと同じ手法によって儲けようとする。それがオキシコンチンよりさらに強力な鎮痛薬フェンタニルであり、製薬会社の営業の人たちは医師を接待したり賄賂を贈ったりして、とにかく処方箋を書かせる――という異常な状況が生まれていたと言います。この間、そうした「中毒性」について何も知らない、「お医者さんが処方する薬なんだから安全だろう」くらいにしか考えてない人々の間にまで中毒者が際限なく増えていったということに、驚愕を通りこして戦慄を覚えました

 

 

 

 

      惑星シェイクスピア。-【57】-

 

「おまえ、よくあんなところに一時間もいられるな」

 

 フランソワ・ボードゥリアンは親友という名の悪友――レイモンド・ボドリネールに対し、呆れたように言った。彼らはつい先ほどまで、地下の穴蔵のような集会所にて、邪宗教ネクロスティアの信徒たちが悪魔崇拝する中、その片隅で黙って見学していたのである。

 

 邪宗教の教祖は何度も神を呪い罵り、悪魔ネクロスティアを賛美した。「我々は神の存在を信じず、その存在も認めず!!」と、いつもの合言葉から、教祖クエンティスの信徒と悪魔を繋ぐ呼びかけは始まった。「おお、汝らにとって神とはなんだ?神など信じて一体何になる?まさか、神を信じて正しく生きた褒美が死に際によってでも与えられ得るとでも?ああ、我々は悪魔ネクロスティアさまをこそ賛美する!!ネクロスティアさまは深淵なる神。闇の深きを司り、宇宙を遠く果てまでも統べておられる方……おお、汝ら、光など崇めるな。闇をこそ信じよ。我々はみな、そこから生まれ、そこへ帰ってゆくのだから。愛だと?笑わせるな!!神が愛ならば、この世界に孤児など存在しはしない。娼婦が体を売って金を稼ぐ必要もない……人々は神を信じぬ我々をおぞましいと言う。そうとも!我々はこの社会から疎外されている!!一部の貴族たちが権力と富を握るための犠牲の供物として、我々は生贄のようにみなされているのだ。ああ、この世に神などいない。神など存在せぬのだ!!おお、みなのものども、何もしてくれぬ神などではなく悪魔をこそ賛美せよ。我らがネクロスティアさまをこそ……!!」

 

 こののち、五十数名ほどの信者らにより、特殊な発音による呪いの言葉を綴った賛美歌が続き、信者らのなんとも言えぬおぞましい証言が続いた。ある者曰く、「不正によって金儲けしている貴族の肖像画を手に入れ、ネクロスティアさまの御名を唱えつつ、目の部分を刳り貫いてやりました。すると、本当にあやつは眼病にかかり、今病いの床に臥せっておるのでございます。ああ、闇の神ネクロスティアさまにこそ栄えあれ……!!」、またある者曰く、「神官どもが列をなしてウルスラ神殿へ詣でる姿を見、地面につばきして呪ったところ、奴らめ、階段のところでずっこけて転んでおりましたわい!!わっはっはっ!!聖ウルスラ神殿が一体何者ぞ!!これこそ、我らが崇めるネクロスティアさまがあやつらの拝む神なぞより強いという何よりの証拠!!」などなど……他に、「ずっと疎ましいと思っていた姑をネクロスティアさまの御名により呪っていたところ、ようやく死にました」(ここで、信者らからは拍手喝采が起きる)、「締まり屋の親方の人形を作り、毎日ナイフで刺していじめたところ、とうとう屋根から落ちたのでございます」(「素晴らしい!!」、「ブラヴォー!!」といった声が上がる)――といったような調子で、レイモンドとフランソワは下層階級の者どもの鬱屈した呪い話を聞くうち、だんだんうんざりしてきて、暫くとせぬうち、その地下の闇教会をあとにしたというわけだった。

 

「おまえこそ、聖ウルスラ騎士団の騎士団長さまがあんな邪宗教に少しでも関わりがあったなんて知れたら……大変なことだぞ。俺のような穢れた人間と長く関わりがあるというだけでも、何か問題が起きた時には不利に働くことだろう。そこらへん、本当に大丈夫なんだろうな?」

 

 ふたりは第十四区の夜の貧民街を肩を並べて歩いていた。通りの薄汚れた集合住宅の路地裏をちらと覗き見ただけでも、浮浪者で溢れていることがわかる。集合住宅、と言えば聞こえはいいが、その三階建ての建物は、親族含めた家族四十数名が狭い部屋にぎゅう詰めになって寝ていたり、どこの誰とも知れぬ者数十名が出入りし、交替で外に出て眠ったり、仕事先で休んできたりと、一部屋につき人口密度が極めて高かったと言える。彼らの多くが定職を持っておらず、昼食や夕食後を狙って貴族街や神官街をうろついては、食事の残り物を順に与えてもらったり、祭りの時には小銭を恵んでもらったりと……あるいは、ちょっとした繕い物や洗濯仕事をもらってきて仕事にしたり、工廠街で出る廃棄物の鉄クズや木材の残りを広場で並べて売ってみたりと、彼らは飢えのひどい時には自分の指でもしゃぶっているしかないというほど貧しかったのである。

 

 また、レイモンドとフランソワが歩いている通りの路地裏にいる浮浪者の多くがアヘン中毒者でもあった。彼らは貧しさや日頃の憂さを忘れるためにアヘンに依存しているわけではない。いや、そうした部分もあったに違いないが、根本的な理由としては飢えである。メルガレス城砦の外にある城壁町には芥子畑が広がっており、アヘンのほうはエール酒などより安く手に入った。そして、酒で酔うためには相当量飲まねばならぬのに対し、アヘンのほうは少量でも自分が空腹であることを忘れることが出来たのである。

 

 こうして心身ともに荒廃した者が城砦一の貧民窟と呼ばれる第十四区には溢れていた。彼らふたりが今までいた闇の地下教会にしても、集まった者のうち、おそらく半数以上はアヘン目当てにやって来たのだろうことを、レイモンドは知っていた。というのも、集会の最後には必ず<ネクロスティアさまのお恵み>として阿片膏の入った煙管(キセル)を信者は順に喫むことが許されていたからである。

 

「今さら、何を言ってる」と、同情でも軽蔑でもない眼差しを浮浪者たちに向けながら、フランソワは言った。「俺たちは、言わばすでに同じ穴のムジナだぞ。ただ、確かに俺には失うべき社会的地位と名誉があるには違いない。さらには拷問のあとの死罪か?まったく、近ごろ俺はレイモンド、おまえのことが羨ましくてならないくらいだぞ」

 

「この俺の一体どこに、騎士団長さまが羨ましがらなきゃならないところがある?墜ちるところまで落ちた、堕落しきったどうしようもない男がいるってだけじゃないか。ところがだな、ここまでどうしようもない俺でも、自分よりも下の、さらには底の底の底辺にいるしかない人間がいるってことを今はよく知ってる。唯一、そこだけだな。俺が騎士に叙任されていたとすれば、ただ蔑んで終わっただけだったろう人間に……今ではまったく別の感情を抱くことが出来たというだけでも、堕落しただけの価値ってのは確かにあったろうよ」

 

「なあ、誤解しないでくれ。俺は今もおまえのことを尊敬している。むしろ、あれから何年もした今でさえ、レイモンド、おまえが俺の代わりに騎士団長になってくれていたらと思うくらいなんだぜ。それはおそらくおまえの弟のフランツだってそうだろう」

 

 レイモンドは、フランソワがフランツを副騎士団長にしたと聞いた時も、内心では思うところがあったようだった。『あいつでは、副騎士団長の荷は重かろう』と心配そうな顔をしていたくらいである。だが、フランソワはその本当に意図したところまでは親友に語ることをしなかった。

 

「何を今さら……おまえにしても、そんなくだらん昔話をしに俺に会いに来たわけではあるまい。なんだ?お姫さまとふたりきりで会うのに、どこかそれとわからぬいい部屋を貸せというのなら、いくらでも協力してやろう。だが、最初から言っていることだがな、百パーセント絶対に安全とまでは保証しかねるぞ。神殿のお姫さまは祭事の時などには民衆たちの前に姿を現すし、顔をはっきり見られた場合でも『こんなところに巫女姫さまがおられるはずがない』という思い込みから……大抵は他人の空似くらいの問題ですむには違いない。とはいえ、危険な火遊びについては、なるべく早くやめて安全な結婚とやらをして身を固めることをお奨めするな。ついこの間も、街外れの処刑場では絞首刑が執行されたらしいぞ。情婦の首を絞めて殺した殺人の角で、とのことだったが、王都あたりでは拷問刑が凄まじいことから、近ごろではみな、うかうか愛人のひとりも持てぬという噂だからな。というのも、処刑のための処刑がただ王の楽しみのためだけに行なわれるという話だから……罪状などなんでもいいわけだ。となるとどうなる?姦通しているところなぞ見つかり次第即刻死刑、そのうち犬を蹴っただけでも、道にツバを吐いただけでも拷問刑ののちに死罪が課されるんじゃないかとの、もっぱらの噂だぞ」

 

「今のような状態は、確かにそう長くは続かないだろう」

 

 フランソワは溜息を着いて言った。今朝も、自分の父がヴァンセンヌ家やディディエ家の娘たちとの縁談がどうだの言うのを聞いて、耳にタコが増えたばかりだったのだから。

 

「人間、引き際が重要ということもな、一応わかってはいるつもりなんだ。危ない橋というのは時間をかけて渡るべきものでないということもな……だがレイモンド、このことをどう思う?あれはそもそも本物の巫女姫などではないのだぞ」

 

「しっ!!」と、レイモンドは唇に人差し指を立てた。誰か聞いている者でもなかったかと、瞬時にして周囲に鋭く視線を走らせる。「こんな誰が聞いているかもわからぬ街頭で、滅多なことを口にするものじゃない。そういう話は俺の淫売宿にでも到着してからするものだ」

 

「やれやれ。用心深いのは結構だが、我々の話を盗み聞いた者がいたとして、一体誰がこんな話を信じるというんだ?」

 

「いいから、悪いことは言わない。とりあえず黙っておけ。確かに、巫女姫さまの花の顔(かんばせ)を近くで見たことのある貴族がこのあたりにいることはまずないと、そのことは請け合おう。だがそのかわり、ここいらにはそこいらの雑草を摘み、それで石に色をつけ、それがあたかも霊験あらたかな石であるとして高値で売りつけるような手合いならばいくらでもいるんだぞ。となるとどうなる?おまえの今言った言葉が、明日にはウリエール卿が敵とする政治勢力の誰かの耳に入っているということだって、ありえぬことではないだろう」

 

「まあ、確かにな」

 

 フランソワは肩を竦めて同意した。どのみち、レイモンドが淫売宿と語った場所までは、角を曲がって数メートルの距離だったからである。

 

 レイモンドはメルガレス城砦内に彼が<隠れ家>と呼ぶ場所をいくつか持っているが、その娼館は政府の認可を受けているという意味でも比較的健全に運営のほうがなされていたと言えるだろう。レイモンドは教会で正式に結婚式を挙げるといったタイプの婚姻を交わした女性はいなかったが、いくつかの娼館の経営を任せている女主人と長く愛人関係にあった。彼女は嫉妬深くもなく、レイモンドが毎日いつどこで何をしているかと、目くじらを立てるようなこともなく――彼の自由を尊重してくれるという意味で、心から愛し信頼している女性だった。名前をアリューラと言ったが、それが彼女の源氏名なのか、それとも本名なのかもレイモンドはいまだに知ってはいない。

 

 レイモンドは娼館の、角燈が下がった正面入口からではなく、裏口のほうから中へ入った。彼の顔を知らぬ娼婦に客と間違われたくなかったからだが、聖ウルスラ騎士団の騎士団長さまが自分のような裏町の人間と一緒にいるなどということが……人の噂に上るということを避けたかったからでもある。

 

「あら、いらっしゃい」

 

 娼婦たちの肖像画が壁に飾られた階段を上り、二階の入口にあるところの部屋で、アリューラは帳簿に目を通しつつ、下働きの女中頭とあれこれ話しているところだった。お抱えの娼婦たちの健康管理ということもあり、ここではなるべく栄養のある物を食べさせるようにしているが、近ごろ食費がかさむばかりなので、もう少し削れないかという相談をしていたのである。

 

「三階のいつもの部屋を借りるが、茶だ菓子だなんだ、気を遣わないでくれ。食事なら、外でしてきたところだから」

 

「ああ、そう。じゃまあ、ゆっくりしていってくださいね。その際にはまた、どうぞご贔屓に」

 

 口ではそう言ったものの、アリューラの物言いはどこかつっけんどんで、むしろ(用が済んだらとっとと帰っとくれ)とでも言っているかのようだった。だが、どこの夫婦も――彼らは正式に結婚してはいなかったにせよ――何年も一緒にいれば、こんなものだったろう。ふたりはこう見えてもしっかりした絆で結ばれており、表面的な挨拶なぞはお互いどうでもいいという関係性だった。

 

「おまえの女房は相変わらずいい女だな」

 

「巫女姫と寝ている男が、一体何を言う。それより、ここの一室が嫌なら、第十区にある貴族向けの娼館か、あるいは俺が所有する別荘を貸してやろう。して、今日のおまえの用向きはそれだけか?」

 

 三階は女将であるアリューラの私室の他に、特別な上客にのみ提供する豪華な部屋が五部屋ほどあった。その中の空いている部屋のドアを開けると、ふたりは天蓋付きのキングサイズのベッドのことは無視し、娼婦たちが客とその前やその後に慎ましい話をするのだろう飾り暖炉の前で、それぞれソファに腰かけた。

 

「俺は、用がなきゃ親友に会いにも来ちゃいけないのか?」

 

 フランソワは肌触りのいいベルベットの背もたれに両腕を投げだすと、疲れ切ったような溜息を着いている。

 

「そういや、忘れていたが、おまえの弟に兄貴は邪宗教にまで関わりあっているぞ、なんてからかい調子につい言っちまった。そのうち、あの真面目なフランツ君が『兄さん、邪宗教に関わりあってるなんてほんとなの!?』なんて、青ざめた顔で、手をぶるぶる震わせながら問い詰めにやって来るかもしれん。その時にはそういうことなんだと思って、あいつのことを軽くいなしてやってくれ」

 

「アホらしい」レイモンドはさもおかしいといったように笑いだしていた。「まさかおまえ、俺があんなものを本気で信じているでも思っているわけではあるまいな。というか、前に話さなかったか?」

 

「いや、聞いた覚えはないな」

 

 天蓋から垂れ幕のかかったベッドは、貴族の寝室のそれになんら劣るところはなかっただろう。むしろ、ここでは性病への感染を恐れるあまり、清潔ということにアリューラが拘りを持っていたから、月に一度シーツを交換するかしないかの新婚夫婦のベッドなどより――毛ジラミやノミの繁殖率はずっと低かったろうというのは、なんとも皮肉なことだったに違いない。

 

「今日俺たちが祭壇の上に見ましたる、あの悪魔崇拝の教祖クエンティスさまはな、もともとは熱心な星母神教の信徒だったらしい。ところがだな、一生懸命働いているのに両親の貧しい暮らしは変わらない、自分も兄弟姉妹の生活もいつまでも苦しいままだ。そして、そんな人間は自分たちだけじゃないというわけで、クエンティスさまは『実は神などいないのではないか』と疑いはじめたそうだ。善人は苦労するばかりで報いなくして虚しく死んでいくが、一方悪人こそは栄え、弱い者を虐げつつ金持ちになっていく……だが、三つ子の魂百までというべきか、クエンティスさまは完全に棄教するという決意まではなかなかつかなかったのだな。ところがだ、毎日『善人のことを省みてくださる神はいるのかいないのか~』と悩むうち、何故かある時から今度は逆に悪魔のことを考えるようになったとか。つまり、神がいるかどうかはわからない。だが、悪魔の存在を否定しきることが出来たとしたら、神が存在することの証明になるのではないかと……ところが、なんとも馬鹿な話だが、クエンティス先生はこの悪魔のことも神同様否定しきることが出来なかったんだと。となるとどうなる?神同様、悪魔も存在する!!ということに気づいたクエンティスさんは、ある時その悪魔ネクロスティアとやらから啓示を受けたそうだ。『神なぞ信じてもなんにもなりはしない。死んでも天国なぞない。ただ、果てしなく広がる暗闇があるばかりなのだ』というその闇の世界を見せられ、深淵の深みにネクロスティアさまがいて、そこから人間の霊魂が出入りするのを見たとか見ないとか……」

 

「くだらん!」と、フランソワも長身の体を二つに折って笑いだした。「しかも、なんとも安っぽい教義だが、人生で面白くないことがあったり、あるいは誰かを殺したいほど憎んでいたとすれば……そんな時には、クエンティス先生のお説教のほうは、ある一定の影響力を持つのは確かだろう。そして、あのアヘンの効力があれば、なんとなく気持ち良くなってまたここへ来よう……愚かな者であれば、そんなふうになっていくことも理解できなくもないが」

 

「まあな。だが、俺にはあそこに集っていた者たちの嘆きや恨み節を、ただ笑ってすませることは出来ない気がする。確かに、人生というものは不公平なものだからな。事実、ここメルガレス城砦ではほんの十パーセントにも満たない貴族階級の人間が富と権力のほとんどを牛耳っているわけでもあるし……まあ、その恵まれた数少ないパーセンテージであるところの身分を自分から捨てた俺自身にしてからが大馬鹿だという意味でも、俺には決して笑えんことでもあるのさ」

 

 それでもふたりは、この件に関してひとしきり笑った。確かに、聖女ウルスラ伝説にしてからが、本当にあったかどうかもわからぬ、おとぎ話めいた話ではあるだろう。だが、その聖女ウルスラに啓示をもたらした星母神のほうは彼らにとってそうではなかった。宇宙を創造した星神ゴドゥノフは、妻のゴドゥノワとともに次から次へと星々を創造していったという。そして、ゴドゥノフは星の生まれた源たる深淵にとどまり、星母神ゴドゥノワはここ、アズールという惑星を特別に愛して、この星と近くに七つある娘惑星たちとともにこの星に住む人々を見守っているのである。この創世神話からはじまり、星母神書には、遥かな神話の時代の物語から、この惑星上で起きた歴史物語と、その時々でいかにして女神たちがこの地上の人々を救ったか、助けを与えてきたかが書き記されているのである。

 

「あんな悪魔憑きと関わりあって、俺に一体どんないいことがあるやら……という話ではある。だがな、そもそも俺があのクエンティスさまに興味を持ったのには、あるひとつの理由があったのさ。大神官のゴーマドゥラ=グザヴィエールのことは、フランソワ、当然おまえも知っていよう?」

 

「そりゃまあな。俺たち聖ウルスラ騎士団というのは、もしひと度リア王朝の連中と戦争ということにでもなれば、あいつら神官どもや巫女姫さま方の祈祷とともに送り出されるということになるのだし……たとえば、来月ある聖ウルスラ祭では、あいつらのことを護衛するといった任も仰せつかることになるわけだしな」

 

 フランソワは、当然レイモンドがそんなことも知っているとわかっていつつ、あえてそう説明した。

 

「ところがたな……」と、レイモンドはまたしてもこみあげる笑いを堪えきれぬ仕種で、一生懸命続けようとする。「あの大神官ゴーマドゥラさまと、悪魔崇拝しておられるクエンティスさまとで、一体どのような違いがあるのかと、俺はそう言いたいわけだ。もしあのふたりの大罪を正義の天秤にかけた場合、大法官であるヴォーモン卿であれば、どちらの罪がより重いとお考えになることだろうな、と。というのもだ、神官邸の筋から俺のほうにある打診があったのだよ。十代の若い生娘を大神官さまの生贄として捧げるのであれば……口止め料を含め、相当量の金を支払おう、とな」

 

「なんだって!?」

 

 普段は冷静沈着なフランソワも、流石に目の色を変えた。大神官ゴーマドゥラといえば、でっぷり太ったガマガエルに似た、普段からの罪深い食生活が窺えるような容貌の男なのである。

 

「神官たちの中で、妻帯が許されているのは、一部の助司祭までだけだぞ。それ以上の司祭や司教といった神官たちは、妻帯はおろか、女性との接触も必要最低限以外では慎まねばならん立場だというのに……それを、若い処女の娘の生贄だって!?」

 

「いや、すまん。生贄というのはあくまでもたとえさ。大神官さま方が独自のお考えによって新月や満月の夜に子羊を屠るが如く若い生娘たちの生き血を流しているといった意味ではない。ほら、わかるだろ?前任の大神官さまは十代の若い美少年がお好みだったと聞くが……ゴーマドゥラさまは若い生娘の花をお摘みになるのがお好みだというわけだ」

 

「それでおまえ、その件、引き受けたのか?」

 

「どう思う?」

 

 普段、滅多なことでは動揺しないフランソワが、このことでは顔色を変えているのを見て――レイモンドとしても人が悪いとわかっていたが、少しばかりからかいたくなったのだ。

 

「いや、そのような話、聞きたくもない。無論、俺だって人の罪を裁けるような人間ではないと承知しているつもりだ。だが、俺の場合はそれでも自分の命を賭けた関係なのだぞ。一方、ゴーマドゥラの奴のそれは……ただの自分の抑えがたき性の欲望を若い娘の体で贖おうというそれだけではないか。しかも、一度寝たその娘のその後は一体どうなるのだ?神官としての自分の屋敷で女中として囲っておいて、自分の気の向いた時だけ夜の相手でもさせようというのか?」

 

「それならば、人間としても、あるいは男としても少しはまともであったろうな」と、レイモンドもからかうのをやめ、真面目な顔に戻って言った。「ゴーマドゥラの奴は、処女の若い娘にしか興味がないのさ。しかも十代の生娘で、若ければ若いほどいいときてる……この話、俺としてはまったく気乗りがしなかったが、それでも一応アリューラに相談することにしたんだ。何故といって、俺が断った場合、結局のところどんな形にせよ、この城砦のどこかから――あるいは外の城壁町からでも――若い娘がさらわれるか、金を支払われるかしてこっそり奴の屋敷まで連れて来られるってことだろう?俺はそのあたり、アリューラならどうするだろうと考えた。で、相談したところ……『そんな気持ち悪い男、絶対やだ』って言われて、それで終わりさ。ようするに、金の問題じゃないということだな」

 

「確かにな、その取引は流石にどんなに金を積まれたところで気違いじみてる」フランソワもまた、心底呆れたといったような溜息を着いている。「だが、それもまたこのメルガレス城砦の抱える大きなスキャンダルのひとつではあるだろうな。やれやれ。俺もそうしたこの町の抱える罪の円環に自分も繋がれていなかったとしたら……遠くから俯瞰するような立場で、『おまえはあれが良くない』とか、『あんたはこういうところが悪い』とでも言って、涼しい顔で裁きの座から罪人どもの姿を見下ろすことが出来ただろうにな」

 

「人間、誰しもそんなものさ。完璧な奴などいやしない」

 

 レイモンドはマントルピースの上から、ワインの酒瓶とゴブレットをふたつ取ると、片方の杯を親友に渡し、濃紫色のそれを注いでやった。騎士聖典には、『己自身の罪には厳しくあれ。だが、罪を犯しやすい庶民や婦女子の罪にはなるべく寛大であれ』といったように書き記されている。だが彼らふたりも、聖ウルスラ騎士団のフランソワ派の騎士たちも――騎士聖典に書かれたことの半分以上も守っていないというのが現在の実態ではあったろう。

 

「それで、おまえは一体これからどうするんだ?」

 

「どうもしないさ」と、騎士団長は悪友と杯を交わしながら苦笑いする。「俺はただ、レイモンド、おまえには本当に心から感謝しているんだ。俺は騎士団長として、神官方とはつかず離れずといった適切な距離を保っているつもりだ。だが、聖ウルスラ神殿の巫女さま方というのは実に活発的だからな。もし今後、マリアローザのことで遠回しにでも当てこすりのようなことを言ってきたら、つまりはゴーマドゥラのガマガエルの奴は、そのあたりのことを知っているということになる。ところがだな、その際には俺のほうでも切れるカードが二枚ある……ひとつ目は、今親切にもおまえが教えてくれた処女の生き血をヴァンパイアのように啜るという話、そしてふたつ目が、あれが実は本当の巫女姫ではないということだ」

 

「確かにな。現在ゴーマドゥラの配下として、奴についている年嵩の神官どもというのは、今の巫女姫さまがウリエール卿の娘だからこそ、『この赤子こそ、ウルスラさまの生まれ変わりでごじゃりまする』なんて恭しく膝を屈めたってことなんだろうからな。それで?巫女姫さまは自分の他に本物の巫女姫らしき女がいると知っているのに……その娘に何がしかの罪を着せて追放しようとは思わんのか?」

 

「さてな。俺にはあれの考えていることはわからんよ。いや、そもそも女の考えること自体、わかっていたことがあるのかどうかすらあやしい。とにかくだ、マリアローザの口振りから察するに、問題にもならないような娘ではあるらしい。『肩のところに紅い竜の痣があることから、いじめてやったこともある。だが、今はそんなことをするのも馬鹿らしくなるほどの、びくびくするばかりの臆病な小娘だ』ということでな」

 

「へえ……なるほどな」

 

 この時、天井のあたりでコトリ、と音がした。フランソワとレイモンドは、途端言葉もなく視線を見交わした。レイモンドはそっと口許に人差し指を置き、反射的に腰の剣に手をやった友人を黙らせた。そして彼自身は――部屋の片隅に、ただのインテリアとして飾られている騎士の甲冑の元まで足を忍ばせていった。それから、そのガントレット部分に握られた槍を手に取る。

 

「そこだァっ!!」

 

 そう一声叫ぶのと同時、レイモンドは人の気配のしたあたりを一突きにした。部屋の天井自体は木製であり、コンクリートの屋上部分との間には人が体を屈めて入れるくらいの空間があると、彼は知っていたからだ。

 

 瞬間、確かに間違いなく人が慌てて逃げるような物音がした。レイモンドはその物音のした先を追い、すぐ部屋を出ると廊下を走り、隣の部屋、さらに隣の部屋と、遠慮なくドアをバタンバタンと順に開けていった。最後の四つ目の部屋のみ使用中であり、カツラを外した中年男がベッドで勤しんでいる最中であり――レイモンドは「失礼した」と一声かけ、ドアのほうをすぐに閉めた。

 

 フランソワもまた、すぐに屋上へ通じる階段を上がり、そこに人の姿でもないかと探したが、猫が数匹寝そべっているばかりだったのである。だが、彼は見た――一体どのようにして逃げたかまではわからないにせよ、裏の通りを一目散に走っていくあやしい影があるのを……。

 

「ただの覗き趣味の変態だったという可能性もあるぞ」

 

 同じく、屋上へ上がってきたレイモンドがそう慰めた。だが、フランソワのほうでは楽観出来ないと考えていたようである。

 

「いや、俺も自分の身辺には今後気をつけよう。来月の聖ウルスラ祭である馬上試合のほうはな、結局のところ我が君を優勝させねばならんもので、馬術以外ではさして熱も入らなかったのだが、そろそろ気持ちを引き締めたほうがいいかもしれん」

 

「ようするに、伯爵さまの馬鹿息子エレガンを蝶よ花よと女のように褒め称え、適当にあしらいつつ最後には負けねばならんということだろう?まったくくだらんな。おまえもサイラスが死んでからは自分の力量に見合うだけの騎士がいなくてつまらんことだろう。なんにせよ、俺たちも暫く会うのは控えたほうがいいやも知れんな。次に大切な話をする時には、今以上によくよく気をつけるとしよう」

 

「……そうだな」

 

 サイラスの名前が出ると、フランソワは心の底で苦しい溜息が洩れた。レイモンドは知らないのだ。自分がいかに卑劣な手を使い、サイラス・フォン・モントーヴァンというひとりの素晴らしい騎士を死に至らしめたかということを……。

 

(もし、時を巻き戻すことが出来たなら)と、フランソワはところどろころに灯りが点在するのみで、暗闇に沈む城砦都市に、今の己の心の姿を見る思いがした。(俺もあんなことはせず、正々堂々とサイラスと戦ったことだろう。今にして思えば、あれがすべての間違いのはじまりだったのだ。そのことが今はよくわかる……だが、その場合はどうだっただろうか。何分、勝負は時の運ともいうからな。サイラスではなく結局のところ俺が勝ち、マリアローザとは今のような関係を続けていたろうか。なんにせよ、俺が今も後悔しているのは……サイラス、おまえがまさかあのような形で死ぬことになるだなどとは、予測してなかったということなんだ……)

 

 フランソワが使ったのは、命まで奪うほどの毒グモの毒ではなかった。ゆえに、フランソワが試合中、サイラスのことを気遣ったのも、また彼が葬式で読み上げた感動的な弔辞も――欺瞞的であるとは彼自身自覚していたにせよ、文面自体についてはフランソワは悔恨とともに泣きながら書き記したものだったのである。

 

「いつか、この俺にもこうしたすべての罪の罰が下ろうな」

 

 屋上にて、よく見ると猫どもが一匹のネズミをいじめているのがわかり、フランソワは誰にともなくそう呟いた。ネズミにはまだ息があるようだが、もはや身動きすることもままならぬようである。やがて、猫同士でネズミを巡って奪い合いになったが、それもまたただのじゃれあいであり、その隙に最後の力を振り絞り、逃げようとしたネズミのことを――四匹の猫たちが追うと、今度こそネズミのほうは完全に動かなくなった。

 

「あん?なんだ、フランソワ。何か言ったか?」

 

「いや、『人間は何も獣に勝っていない』という、騎士聖典にある言葉を思いだしていただけさ」

 

 壁にかかっていた角燈のひとつを元に戻すと、フランソワは今度ははっきりそれとわかる形で溜息を着いた。彼にも落ち込むということはある。ただ普段は(なるようにしかならない)として、あまり考えないようにしているという、ただそれだけで……。

 

「おまえは騎士としては剛の者だが、案外繊細だよな」と、レイモンドは元の部屋へ戻りながら笑った。「あんな、猫とネズミのお遊戯を見てそんな言葉まで思い浮かぶとはな。つまり、ネズミはこの世の富と権力ってことか?そして、強欲な猫どもが順にネズミの美味しさに与り、その旨みがなくなればポイ捨てにするといったところなんだろう」

 

「そんなことまで一瞬にして考えつくほど、俺は詩人じゃない」フランソワもまた笑った。「だがこの場合、ネズミは誰ということになる?俺は騎士団長なぞと名乗ってはいるが、政治的にはただの使い捨ての駒程度の男にしか過ぎぬ。大神官のガマガエルの奴は今後ともつつがないだろう。というのも、あやつはどこで何をどうしたものか、色々な人物の弱味を握っておるらしいのでな……ウリエール卿にしても、よほどのことでもない限り、今後ともその地位と金回りのほうは磐石なままだろうよ。マリアローザについて言えば、あれにはなんの罪もない。まわりの人間にただ巫女姫として担ぎ上げられたという、言ってみればただの女にしか過ぎんのだからな」

 

 彼らはふたりきりになると、再びこのメルガレス城砦の、引いてはメレアガンス州の中枢を揺るがしかねぬ、そんな話を続けた。しかも、時々冗談さえ交えながら……。

 

「俺はその意見には反対だな。巫女姫さまについて言えば、マリアローザはおまえがただの女にしたのさ。して、先ほどの間者らしき男についてはどう思う?ただの変態覗き見男でなかったとした場合……どこの手の者だったのだろうな?」

 

「あの身のこなし……ただ者じゃないことだけは確かだ。おまえこそ、何か裏の世界で影の大物の恨みでも買ったりしたんじゃないのか?神官方が蜘蛛の糸をこの州の政治中枢に張り巡らせているのは確かだが、俺とマリアローザのことが神官たちにバレたところで、それは聖ウルスラ騎士団と大神官ゴーマドゥラの勢力が互いに裏切らないという条約に署名した程度のことにしか過ぎん。果たしてあれは、一体どこの手の者だったのか……」

 

「俺は、こう見えて割と裏の世界ではうまくやってるもんでな」と、レイモンドはどことなく得意気に言った。「何分、貴族出身で、そのままであったとすれば騎士に叙任されていたところを自分からその身分をかなぐり捨てたということで……メルガレスの裏のボス連中どもには気に入られているのさ。それに俺は縄張りのほうも分をわきまえて守っているほうだし、今では何か向こうに困ったことがあれば情報を提供したり、相談に乗ったりすることさえあるくらいなんだぜ?」

 

 こののち、レイモンドとフランソワはこの件について十五分ばかりも話しあったが、結局のところ相手の正体については憶測すら出来ぬまま終わった。無論、彼らにはわからなかったろう。それが実は大法官セシル=ヴォーモン卿の放った、忠実な間者のひとりだったということなどは……。

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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