こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

残酷な庭で遊ぶ子供たち。-【6】-

2021年07月05日 | 日記

(※萩尾望都先生の漫画『残酷な神が支配する』のネタばれ☆を含みますので、閲覧の際は一応ご注意くださいm(_ _)m)。

 

 さて、今回はバレンタインのことから始めたいと思いますm(_ _)m

 

 バレンタインは、ジェルミがグレッグから性的虐待を受けていた時……藁にも縋る思いで訪ねた、心理学者のお孫さんでした。彼女自身、何もしゃべろうとしないというあたり(会話のほうは筆談)、何か問題を抱えているのだろうなと察せられるわけですが、ジェルミは彼女との間に自分と共通するものを感じ、お互い惹かれあいます。

 

 そしてその後、ジェルミは偶然、ペネローペ心理療法研究所というところで――バレンタインの兄エリックと出会い、その後、ジェルミはエリックと彼の妻のポニー、ふたりの赤ちゃんエポニィと一緒に、バレンタインのいるスウェーデンにある島のほうへ訪ねてゆきます。

 

 そこでジェルミは、バレンタインが双子の兄エリックとの間に出来た赤ちゃんを殺してしまったという事実を知り……自分が何故彼女に惹かれたのかの理由を知ります。形は違えど、ある意味同じ<殺人>という罪を犯しているふたり……このバレンタインのいる島は、詩人イェイツの有名な詩「イニスフリー」に出てくる理想の場所のようで――ジェルミもここにいたいように願いますが、そこにいてもいいのは、バレンタインのように自分の罪を告白した人だけなのだと思い、「自分はまだ、サンドラに告白していない」と、己の苦悩に立ち返ります。

 

 こののち、ジェルミの元に届いたバレンタインの手紙は、短いながらとても感動的です。

 

 

 >>ジェルミ、死者はわたしたち生者のすぐそばにいて、語りかけてきます。

 わたしの手の中にあるあの子も語りかけてきます。

 その小さな神の声を、わたしは一生きいて生きていくのでしょう。

 どうぞ、エリックがポピーと一緒に、いつまでもしあわせであってほしい。

 ジェルミ、またいつか島に来てください。

 ――ふしぎですね。ぼくも殺すといったエリックの言葉、ふるえるほどうれしいのに

 ねえ、人間は告解するために、神に許してもらうために神を創造したはずなのに

 わたしは許してくれるわたしの神から遠ざかる……エリックは泣くでしょうね。

 だってそうしないとわたしは……バレンタインという一人の人間になれないから……

 わたしを許すわたしの神は幼いのです。

 ジェルミ、話を聞いてくれてありがとう。

 

 愛をこめて。

 

 バレンタイン

 

 

 >>「わたしを許すわたしの神は幼いのです」……ジェルミもまた、彼のことを赦してくれるはずの神を、彼自身の手で葬り去りました。そして、罰する神がいないのであれば、すべてが自由であり、ジェルミも罪の意識から解放されていいはずです。けれど、ジェルミの中にもまた、神がふたりいて――あるいは、ひとりの神と呼ばれる存在が、ふたつの顔を持っているということなのかもしれませんが――罰する顔を持つ残酷な神のほうは、今も彼のことを放しません。そして、もうひとりの神は赦しの神ですが、それは母親のサンドラの顔をしています。でも、ジェルミは彼女の「愛している」という言葉を一切信じられません。

 

 そして、ここからさらに、ジェルミの心の快復が順に進んでゆくわけですが、バレンタインと会ったことで、彼女の持っていた悲しみを知り……ジェルミはそれだけでも快復の階段をさらに一段、あるいは数段上がったように思います。ただ、普通の精神治療の過程でも、一段進んだかと思えば、あっという間に五十段も下まで転げ落ちたり――といったように、そうしたことを繰り返すものですよね。

 

 また、ジェルミがそのように心の快復を進む過程で、イアンは彼が「自分から離れてゆく」ように感じ、ある種の苛立ちや焦り、フラストレーションのようなものを感じています。このあたりも、読んでいて「わかる、わかる」といったように感じる読者さんは多いのではないでしょうか。

 

 こののち、マージョリーの命が助かるかわりに、<取引>として林檎を食べてしまったジェルミは、再び処罰の檻から姿を現したグレッグに、そちらのほうへ引きずり込まれそうになります(あ、この処罰の檻というのは、わかりやすいようにそう書いているだけのものであって、原作のほうにそんな言葉は出てきません^^;)。

 

 イアンはジェルミがグレッグのいる処罰の檻へ引きずり込まれそうになるたび、彼を助けようとすることを繰り返すわけですが……この時、実存的な夢の共有というか、幻のような精神世界の中で、イアンはジェルミのかわりに何度となく彼を犯す変態グレッグを殺してゆきます。でも、何度そんなことを繰り返しても、根本的な解決にはならない――最終的に、この時ジェルミは母のサンドラに「知っていたかどうか」聞くことが出来ず、自分の罪を告白することも出来ず、彼女のことを銃で殺してしまいました。

 

 こののち、血を吐いて倒れるイアン。この前から、胃の調子が悪いらしい……といった描写は少しありましたが、何度助けようとしても同じことを繰り返すわけですから、これから先もずっとこんな状態が続くのだと思ったら、確かにそれはイアンにとってもストレス値が大きいことだったのでしょう。その上、ジェルミは自分が望んだとおりに彼の愛に応えてくれるわけではないとなったら尚更ですよね(^^;)

 

 また、このことから、ひとりの人間をジェルミほど深い闇やトラウマを持つ人でなくても――立ち直らせよう、救おうとするならば、それはその人の全人格をかけて、時には命をもが懸かってくることなのだと、そうも言えることなのではないでしょうか。

 

 こののち、イアンは病院へ運ばれ、彼の健康状態を気遣ったジェルミは、「このこと」でこれ以上イアンに迷惑や負担をかけられないと思い、ふたりは距離を置くことになります。

 

 けれど、再びあのグレッグとサンドラを殺害したクリスマス時期が巡ってきて――ジェルミは再び心身に、深刻な変調を来たしはじめます。この時、ナディアとしていた約束を反古にしてまで、イアンはジェルミについていることにするわけですが……ここから先の内容については、大体10巻に入ってくるので、次回に回すことにしますね(^^;)

 

 9巻では、ジェルミの罪悪感とそこから罰を受けねばならないという無限ループが何故生じるか、問題のかなり根源的なところまで迫るところまでやって来たように思います。

 

 確かに、読み方としては、「何故ジェルミがマージョリーの食べた林檎を代わりに食べたことで、再びグレッグが力を盛り返すのか」不思議に感じる方もおられるかもしれません。また、林檎っていうのはわかりやすすぎる比喩でもあるので、そのたとえをむしろ逆に陳腐と感じた方もおられたかもしれません。

 

 わたしも、自分の読みが正しいとは思いませんが、それでも、「罪悪感」というのは――人間の根源を遡ってみると、確かに聖書のアダムとイヴのあのお話にあるわけですよね。蛇に騙されたイヴが林檎(善悪の知識の実)を食べてしまったことから、そこから人間は「自分はなんて悪いことをしたんだ。神が食べてはいけないと言われた林檎を食べてしまうだなんて」ということで、何か悪いことをすると、強い罪悪感を覚える存在になってしまった。

 

 この林檎(原罪)というわかりやすい象徴と同時に、このあと、ジェルミの問題はかなり根源的なところまで掘り下げられるということになり……その後、再びまたあのクリスマスがやって来るということになるのです

 

 それではまた~!!

 

 

 

 


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