こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

少女革命ウテナ。-【2】-

2023年04月07日 | 日記

(※『少女革命ウテナ』に関してネタばれ☆があります。一応念のため、ご注意くださいませm(_ _)m)

 

 ええと、『アドゥレセンス黙示録』見ましたよ(笑)。

 

 ただ、残念ながらわたしの期待したような内容ではなかったし、映画公開当時、ものすっっごくピュアな気持ちで見に行かれた方ががっかりしたんじゃないかってことを思うと……なんか、悲しい内容ですらありました、わたし的に(^^;)

 

 前回のウテナの感想はわたし、他の方の感想とか考察等を読んで自分の考えを変えたくなかったので、天ぷら☆のレビューすら読まなかったんですけど、「アドゥレセンス」の意味がわからなかったので検索したところ……ウテナ関連の考察が結構出てきたりしたんですよね。まだちゃんと他の方の考察や解釈を読んでないものの、「アドゥレセンス」っていうのが思春期っていう意味だっていうことと、「世界の果て」とは現実のことである――というのを読んで、わたしがTV版見て思ってたこととは違うんだなって気づいたような次第です(あ、でもひとつの作品を見て何をどう思うかはわたし個人の自由なので、そこらへんはわたし、自分の妄想に満足してます・笑)。

 

 つまり、あの鳳学園っていうのはひとつの虚構の世界で、世界の果てというのは現実、そしてウテナはその現実の世界へ革命を果たして脱出したから、他の生徒たちには忘れられたりしている……TV版のあのラストというのは、ウテナの後を追ってアンシーもまた現実の世界へ彼女を探しにいった――という、どうもそうしたことらしいのです(と、映画のほうを見てあとから思った)。

 

 >>「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らは雛だ、卵は世界だ。世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。世界の殻を破壊せよ、世界を革命するために」

 

 これは生徒会の面々がよく口にしてることだったわけですけど……まあ、これでいくと鳳学園っていうのは、殻を破れない、自分の殻に閉じこもってる思春期の子供たちの集団――ということなのかなって思わなくもありません。

 

 まず、ほとんど全員といっていいほど、肝心なところで人間関係が上手くいってなかったり、そのことで傷ついていて、その傷を引きずっていたり、あとは美形キャラがやたら(いい意味で)イタイ。というか、彼らは自分の城に引きこもっていて、自己完結しているその自分の世界から出て来ようとしない。

 

 わたしがそのことを一番思ったのは、「黒薔薇編」に出てくる御影草時が出てきた時かもしれません。「黒薔薇編」を最後まで見ると、ここまで完璧に自分の塔に閉じこもって自己完結してる人も珍しいと思ったわけですけど、でも自分的にはそこらへん、声優さんグリーンリバーライトだし、お話的にも全体として楽しませてもらったから、最後のほうでちょっと肩すかし食う感じでもべつにいいや……というくらいな感じだったのです(^^;)

 

 でも、「根室記念館」なる場所にて、その昔何かの研究をしていて百人くらい生徒が死んでるって最初のほうでは言ってたのに、最後のほうでは死人はいなかった……みたいになってましたよね、確か。

 

 まあ、このあたりとかも「変なのー」とは思いつつ、あんまり気にしてませんでした。お話の大筋にはあまり関係ないような気がしたし、ウテナって全部で39話もあって長いじゃないですか。だから、スタッフさんも新しい敵キャラ設定作んなきゃ的な感じで、お話をなんとか繋げようとしたのだろうという、何かそうした印象だったわけです。

 

 でも、映画版に「生きながらにして死んでる世界」みたいな言葉が出てきてたと思うので、ある程度なんとなく「そーゆーことなのかなあ」というか、アニメ製作スタッフさん的にはそういう感じのことだったんだな……と、ちょっとわかったんですよね。つまり、TV版放映後の感想や考察として「これは製作サイドの手落ちではないのか」的批判とか、そうしたことに対する「こちらサイドとしてはちゃんとこのように考えあってのことです」という答えがあの映画なのかなって気がしたんですけど、わたし自身はそこらへんはあまり興味がなかったのです(^^;)

 

 もちろん、ウテナやアンシーが似て非なる、また少しずつ設定の違う中で鳳学園なる舞台設定の中にいるから、アンシーの性格が前とは違ったりとか、そうした事柄も容認の範囲ということになるのだとは思う。でも、TV版にはない、ウテナとアンシーのもう少し密接な百合的描写も出てくるものの――わたし的には「そういうことじゃないんだよなあ」という、ここも何かちょっとポイントを外された感じだったんですよね。。。

 

 なので、これからさいとうちほ先生の漫画を今度は読もうと思っています

 

 あ、そんなに長く語る必要のない映画のために文字数だけ無駄に費やしてしまいました。ここからは、わたしがTV版のウテナ見た、前回書き忘れたことの続きです(=だから、わたしの読みは基本的に外れてるってことなのだと思います^^;)。

 

 デュエリストとして勝ち残り、「薔薇の花嫁」とエンゲージした者は、あの逆さまのお城で永遠を手に入れることが出来るということらしい……でもわたし、「世界の果て」が暁生のあれというか、天ぷらのあらすじのところにそもそも、暁生自身が「世界の果て」だと書いてあるんですよね。だから、「永遠が手に入る」とか、「永遠を見ることが出来る」ということも……そもそも、哲学的な意味としてそんなに深い何かがあるわけじゃないんだろうなって思ってました。

 

 でも、永遠はあった。もちろん、映画版見るとここが意味違ってきちゃうんだけれど、わたし自身はTV版の最終回見る限り、ウテナが女の子であるにも関わらず、王子さまになったことこそが革命だと思ったし、革命を起こしたウテナは奇跡の力=永遠を手に入れたということなのだと思いました(というのが、わたしの個人的な解釈です)。

 

 永遠とは何かというと、かつてディオス王子が堕落したルシファーのようになる前に持っていた、王子さまとしての力なのだと思います。そもそも、あれだけ多くの人たちがひとりしかいないディオス王子の元に押し寄せて来て、「王子ならうちの娘を救ってくれえっ!」、「助けてくれえっ!」って、おかしな話ですよね。そのせいで王子は力を使い果たしてしまい、病気か何かによって死にそうにすらなっている……そこで、アンシーが自分の兄であるディオス王子を救うために、押し寄せる群衆の前に出ていくと、彼女は魔女と罵られ、彼ら全員から剣によって処刑されることになる。

 

 このあたりの設定も、「なんだかトートツだな」と思った方は多いはずですし、「こういうメタファーなのだよ。えっへん!」という隠れた設定があるのだとしても、わたし自身は「それでも流石に無理がある」と思いました。でも、その点について前回突っ込もうと思わなかったのは、それがアンシーが現実の痛みとして感じていることなのだろうし、その痛みを感じなくなるために、彼女はああした「何も感じていない」、「本当の感情がない」振りをするのが究極的なまでに高まった性格になってしまったのだと思う。

 

 わたしも、アニメの最初の数話を見ていて、アンシーがどういう子なのかわかりませんでした。かといってウテナもウテナで、何かこう明るく健康的で一本調子というか、わたし的にキャラクター的にそんなに共感しなかったんですよね。男っぽい性格の女の子って、漫画に出てくると大抵共感できる場合が多いんですけど、ウテナは途中までアニメ見てて、珍しくそれほどでもなかったというか(^^;)

 

 しかもアンシーって、七実がそう指摘してるみたいに、「怖い子」ってことに最終的に落ち着いちゃいそうなところがあって、ほんと、結局のところ最後どういう展開で終わるんだろうなって思ってました。

 

 でも、ウテナはただ「薔薇の花嫁」とエンゲージした者としてずっとアンシーと一緒にいたわけではなかった。普通に友達として、一緒にいたかったから一緒にいたというそれだけ……最終回でアンシーはウテナのことを剣で刺しますが、結局のところ彼女では世界を革命できない以上、なるべく早くこの欺瞞から解放し、楽にしてあげたかったのではないでしょうか。

 

 わたし、ここのシーンすごく重要だと思うんですよね。一本の剣に刺されただけでもこんなにも痛くて苦しかった。それなのに、アンシーはあんな何百万本もの剣に貫かれる痛みに耐え続けている……その誰も知らない痛みを、ウテナはわかってくれた。でも、一緒に耐えてくれとは言えない。ただ、わかってくれたという、それだけでアンシーには十分すぎるほど十分だった。そして、それが姫宮アンシーという女の子の、本当の素顔だったと思うわけです

 

 アンシータイプの子って、大体学校にはひとりくらいいますよね。で、いつもニコニコ「うんうん」言うこと聞いてくれるけど、宿題見せてって言ったら見せてくれて、掃除当番代わってって言ったら代わってくれるけど、なんか「本当の友達」というふうには何故かなれないというか……結局のところ「あの子、何考えてるのかわかんない」って感じで、孤立しちゃったり、いじめにあったりしちゃうという。

 

 そして、ウテナタイプの子もいる。アンシータイプの子がいじめられてるのを見て、助けてくれようとする優等生。でもこういう子って本当はいじめられてる子の本当の悩みの深さを理解してなかったりもして、表面的にただわかったようなこと言ったりして、いじめられっ子のほうでは「本当の意味では理解されてない」と絶望しつつも、とりあえずニコニコ笑って「ありがとう」なんて言ってみたり。。。

 

 でも、ウテナとアンシーの関係はそんなうすら寒い、嘘くさいものではなかった。そして、本当の友情の絆でふたりが結ばれた時――間違いなく奇跡は起き、ウテナは本当の王子さまとして永遠を手に入れたのだと、そう思いました。

 

 永遠とは何か……というのは、ほとんど変幻自在な無限の力なのではないでしょうか。もちろん、アニメの中ではそんなことを示唆するような場面はないかもしれません。でも暁生がやってる鳳学園という舞台設定の世界――あれが実はまったく同種のものなのだと思う。ただ、彼の場合だんだん王子として歪んでいってしまい、映画設定も合わせていうと、鍵を失った状態に陥ってしまった(せっかくの奇跡の力である永遠を正しく使えないようになってしまった)……それならば、暁生自身が世界の果てだったという意味もわかります。

 

 それでいった場合、わたし自身はウテナって、暁生と同じことをしそうにはまったく思えないし、その必要性もないことから――現実世界のほうで、自分が幼い頃王子さまに救ってもらったように、その永遠の力によって今度は自分が王子さまとして女の子を助けている……いや、もしかしたら男の子もかな、なんて思ったりするわけです(^^;)

 

 王子さまとしての奇跡の力=永遠というのは、変幻自在の無限の力なので、正しく使いさえすれば、それは永遠に続く……でも、ディオスのあの消耗具合を見ると、限界があるようでもあるし、そこで再び魔女となる者が必要となるのであれば、同じことの繰り返しとなることでもある。たぶん、映画版はTV版の続きということなんでしょうけど、わたし自身は自分の妄想世界でまったく別のウテナとアンシーが再び出会う世界を思い描きたいと思っています。

 

「姫宮……よく僕がここにいるってわかったね」、「んもう、探したんですよお、ウテナさまあっ!!」、「ごめん、ごめん。王子のぼくと一緒にいるとさ、また姫宮が苦しい思いをするんじゃないかって心配で……あと、もうさまはよせよ」、「じゃあ、ウテナっ!これからはわたしたち、ずっと一緒ですよ。あとチュチュも」、「あ、チュチュも久しぶりだなあ。大丈夫だよ、姫宮。これからはずっとぼくたち一緒にいられるよ」、「ウテナさまったら……」、「またさまつけてるよ、姫宮……」(泣いてるアンシーの瞳にキスする)、「じゃあ、ウテナもこれからはわたしのこと、アンシーって名前で呼ぶって約束してくださいね」、「うん、そうするよ。アンシー」――まあ、といったような妄想世界です(でもきっと同人世界には似たようなお話がごろごろ転がってそう・笑)。

 

 なんにしても、わたしにとって一番大切だったのは……

 

 

 というような、ふたりのOPシーンを見ても、特にどうとも思わず、「絵が綺麗だな」くらいな感じで途中までやって来たのに――39話の最終回を見終わった今では、ウテナとアンシーがふたり並んでいる何かを見ただけで胸が熱くなるという、そうした意識の永遠変化が起きたということです

 

 それではまた~!!

 

 

P.S.『アドゥレセンス黙示録』を見た直後は、「なんかちょっとがっかり」と最初は思ったんですけど、実はあれめっちゃ正しい<解>なんでしょうね(笑)。TV版見て「ここおかしくない?」と思った点について、すべて正確に落とし込まれてるんだなってことに、ここ書いて一晩寝たら、すべてストンストンと辻褄が合うことに気づいて驚きました(^^;)

 

 

 


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