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【薔薇を持つマリー・アントワネット】エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン
今回もまた、ここの【21】と次の【22】でひとつの章だったりするんですけど、例によってgooblogは30000文字以上入らないので……以下略☆問題ということでよろしくお願いしますm(_ _)m
さて、今回の前文は……どうしようかな~♪と思ったんですけど、小説のほうに入りきらなかったエピソードについてでも、と思います(^^;)
そのですね、アトゥー氏の天敵(?)のおねいさんである美夏さんなのですが、美夏さんは本当に(お話全体として)ほんのちらっと出てくる程度しか出番ないので――もし書けそうな余地があったら書こうかなと思ってて、結局書くスペースなくて見送ることになった設定についてでも、と思いました(だからほんと、なんかどーでもいい話・笑)。
アトゥー氏が女性嫌いになったのは、お母さんの耀子さんとお姉さんの美夏さんが原因……みたいに語られているのですが、美夏さんが幼少時、ダ・ヴィンチのモナ・リザのこと以外でどんな嫌がらせを弟にしていたかというと、美夏さんはとにかくホラー映画とかホラー漫画が大好きなんですよね
で、幼少時のアトゥー氏というのは今と違って(?)繊細だったので、姉の美夏さんのこのホラー・コレクションを目に入れるのも嫌だったらしく……でも、美夏さんは君貴くんの弱点がわかると容赦ない人だったので、無理やりホラー映画鑑賞につきあわせたり(「へえ。こんなもの怖いなんて、あんたほんとに男?」、「ホラー映画と男らしさは関係なんてないっ!」、「ふう~ん。なんだかんだ言って結局怖いんだあ。肝っ玉のちみっちゃい男!」、「み、見ればいいんだろ、見ればっ!!」――結局夜眠れなくなって後悔)とか、そうかと思えば、『恐怖のゴキブリ女』というホラー漫画の一番怖いページを開き、無理やり見せてトラウマを負わせたり(目や口からゴキブリがぞろぞろ出てくる女性の顔のドアップ☆)、あとは昆虫図鑑の気味の悪い昆虫写真のページを「おらあっ!」、「うらあっ!」と叫びながら体中にこすりつけてきたり……「うわああっ!やめろおっ。やめてくれえっ!!
」と、泣きながら怖いおねいさんに懇願する幼き君貴くん……そんなこんなで、すっかり心の根本のところで女性を受け付けなくなってしまったんですねえ(え?そんな理由??
)
それで、ですね。美夏さんの美夏という名前は、お母さんの耀子さんとお父さんの貴生さんが、一流の指揮者とピアニストを目指してお互いを励ましつつ、夏には必ずヨーロッパでバケーションしてたことと、あとは美夏さんの生まれたのが美しい夏の日だったことから……「そんな夏の美しい日々に恵まれた子に育ちますように」という願いを込めてつけられたものの――まあ、ピアノの英才教育を強制されたことから、美夏さんとお母さんの間には確執が生まれてしまったんですよね。。。
母親の若い頃ほどの美貌もなければ、プロピアニストとして抜きんでた才能があるわけでもない……それなのに、何故こんな苦しみを娘に強要したのか?といったようなことなんですけど……また、弟の君貴くんのほうがピアニストとしての天分があったことから、お姉さんの美夏さんはアメリカ留学中、「もうピアノなんかどーでもよくない?」というくらい、向こうで羽を伸ばしていたのに、そこへもってきて君貴くんがピアノをやめてしまったらしいと聞くわけですよ。
美夏さんにしてみれば、お母さんの三人いる姉弟のうちから最低ひとりはプロのピアニストにしたいという願いは、弟が叶えればいいというものだった。ところがこうなると「自分がやるしかない」ということになり、再び音楽大学で真面目に勉強をはじめる美夏お姉さん……チャイコフスキー・コンクール第二位、エリザベート・コンクール第一位、ショパン・コンクール第三位――君貴くんはどういう意味でおねいさんに対して「才能ない」と言ってるのかわかりませんが、これだけでも間違いなく物凄い経歴だと思います。
ところがやっぱり、母親の耀子さんに比べてどうこう……みたいな世間の声や一般的評価というのがあって、美夏さんは「どんなに努力しても正当に報われない」という虚しさをピアノに感じていたんですよね。そんな時、のちに旦那さんになるプロのヴィオラ弾きの安藤修司氏と知りあいます。安藤氏とは結構年離れてるのですが、同じクラシック業界にいて、自分と母を比べたりしない彼に惹かれ、美夏さんは結婚することに……。
ところがこの修司さん、やっぱりプロの音楽家だからでしょうか。結構気難しいところがあったり、子育てにも家庭のことにもあまり協力的でなかったりと、美夏さんは毎日夫に対する欲求不満を募らせつつ、わんぱくなふたりの息子たちを一生懸命育てるといった日々で……時々、「もう離婚してやろうかしら」と思うこともあるものの、かといって「絶対にもう離婚してやるううっ!
」というくらいの強い動機が存在しているわけでもなく、「どこの夫婦も子供がふたりもいればこんなものかしらね
」と、諦めの溜息を着いているといった感じの美夏さん。。。
ゆえに、弟の君貴くんから見て、姉の美夏さんの結婚した安藤修司さんというのは――「驚くべき殉教者的精神の持ち主」ということになるらしいのですが、実際のふたりの結婚生活というのは……お互いに欠点に当たる部分がありつつの、どちらが悪いとも言えないような、よくあるそうした夫婦生活なんじゃないかなと思ったりします(^^;)
あと、美夏さんは小さい頃からサッカーでもバレーでも水泳でも、なんでも得意だったので、実はピアノの練習よりもそういうスポーツ系というか、体を動かすことのほうに天分のある女性だったんですよね。だから、活発に友達と遊んだりしたいのを押し殺しつつのピアノの練習だった……ということもあり、美夏さんの場合もお母さんに対する潜在的な恨み(?)が結構あるという、「なんか面倒くせえな、阿藤家☆」的な、本編であんまし書くことの出来なかった裏設定といったところです。。。
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【21】-
ここで、話のほうは君貴が飛行機でロサンジェルスへ発つ前のことに、少しだけ戻る。君貴が去っていってしまうと、マキはやはり心許ないような不安な気持ちになった。
「君貴が、帰っちゃって寂しい?」
玄関口のほうから戻ってくると、マキがなんとも言えない複雑な表情をしているのを見て――レオンはそう聞いた。
「そりゃあね。っていうか、いつもはこんな気持ちになったりしないんだけど……どっちかっていうと、お仕事だから仕方ないと思って、諦めちゃってる感じかな」
「僕も、君貴に言ったことあるよ。ピアノなんて辞めて、君貴が仕事であちこち行く後ろをついて歩きたいって。そしたらあいつ、『ついて来てもいいが、すぐ嫌になるぞ』だって。なんでかって聞いたら、自分はその間仕事のことしか考えてないし、僕がいても透明人間みたいに見えてないも同然の態度しか取れないからだって。あと、飛行機の移動時間も長いとなったら……まあ、君貴はその間も人と連絡取りあったりだのなんだの、仕事してるからいいにしても、放っておかれた僕のほうは『こんなんなら、ピアノでも弾いて人に聞かせてたほうがなんぼかいいや』みたいになるからだって」
「そうよね、わかる」
マキは、食後のデザートとして切った、林檎を齧って笑った。
「君貴さん、言い方は違うけど、意味としては大体同じようなこと、わたしにも言ってたものね。でも、次に来たら――二人目の子供のことも考えるのに、少し話し合おうって」
もちろん、君貴はそんな言い方はしていない。けれど、マキとしてはそうした言い方をすることで、遠まわしにレオンのことを牽制しておきたかった。つまり、すべては次に君貴がやって来るまでの間、延長しておく……といったように匂わせておきたかったというべきだろうか。
「いいよ、マキ。そんなふうに予防線張らなくったって、僕にもわかってるから。マキは、君貴との間にならふたり目の子供が欲しい……というか、いてもいいなと思ってる。でも、僕との子は欲しくないってことなんでしょ?」
「違うわ。わたし……あのね、レオン。貴史を生むの、初産だったせいもあって、本当にすごく大変だったの。もちろん、出産経験のある人からは、ふたり目はひとり目に比べて楽だったとか、聞いたりもするんだけど……またあんなに大変な思いをすると思ったら、まだ心の準備が出来てないっていうか。だけど、君貴さんが……えっと、わたしとそういうふうに……子供が出来るようなことをして、それで結果として出来たとするでしょ?そしたらね、やっぱり覚悟を決めて産もうっていうことになるだろうなっていう、これはそうした話なの」
「…………………」
特別カマトトぶってるというわけでもないのだが、マキは性的な話をする時、ほとんど自分のほうを見ないとレオンは知っている。今もちょうどそうで、彼女は恥かしそうに睫毛を伏せていた。
「ごめんね、マキ。なんか僕、無神経なこと言っちゃったみたいで……でもべつに、そういうことなら君貴に避妊してもらったらいいんじゃないかな」
(僕だって、そうしてもいいし)とまでは、流石にレオンにも言うことは出来ない。
「なんていうか、わたし、そういうタイプじゃないの。だから、君貴さんがもし、子供なんてひとりいるだけでも十分なのに、ふたり目なんてもっといらないっていう考えだったら……わたしのほうでピルを飲むとか、少し考えなくちゃと思ってて」
(もっとも、それ以前に君貴さんにはもうわたしに対してそういう気持ちもないみたいっていうのが一番問題なんだけど……)
「そっか。でも君貴はマキがそんなに色々自分ひとりだけで考えてるって知らないんだね。こんなこと言ったら、マキは気味悪がるかもしれないけど、もし君貴との間にふたり目の子が出来たとして――その時はマキが妊娠してる間から、僕が支えるから大丈夫だよ。何もかも全部、マキのことを第一に考えて、僕がなんでもよくしてあげる。それだったら、安心でしょ?」
「でもレオン……やっぱり、いつまでもこのままってわけにはいかないわ。君貴さんにも話したんだけど、あなたはまたピアノか、あるいはピアノじゃなくても、それ以外のことで忙しくなると思うの。そしたら、わたしのことや貴史のことなんて……ううん。それが当たり前のことだから、レオンのこと責めてるってわけじゃないのよ。ただ……」
「わかってるよ。ようするにマキは、君貴と僕とふたりの間でシェアされるとか、そういうのが耐え難いんだよね?でも、もし仮にマキと僕がそういう関係になっても、君貴はどうとも思わないとか、これはそういう話じゃないよ。どう言ったらいいのかな。君貴はマキのことを僕に対するのとは別のところで物凄く愛してる。ほら、僕がマキと君貴のことを強引に別れさせようとしたあと……あいつ、言ってたからね。『次に他の女と同じことをしたら絶対許さない』って僕が追い詰めるように言ったら、『俺の中で女はマキがひとりだけいればいい』って。その時は、それはそれですごーく腹が立ったけど……今は君貴が何を言いたかったのかが、僕にもよくわかる」
レオンの意外な言葉に、(君貴さんが、本当にそんなふうに……?)と思い、マキは少しばかり感動した。もちろん、レオンに追い討ちをかけられて、苦しまぎれにそう言っただけかもしれなくても――マキにとってはとても嬉しい言葉だった。
「あと、君貴は自分で、ほんとにそうなのかどうかはわかんないけど、自分では生まれつき女運が悪いと思ってるみたい。耀子さんみたいな素敵な女性がお母さんで、何が不満かって僕は思ったりするんだけど……まあ、君貴は三歳頃からピアノを始めてるわけだよね。で、最初のうちは結構先生任せらしかったんだけど、小学三年生とか四年生くらい?そのくらいの頃からお母さんのピアノを教え込む厳しさが常軌を逸したようになっていったんだって。その中でも結構有名なエピソードが、布団はたきっていうの?お母さんはそういうので、後ろから背中をバシバシ叩いてきたらしい。もちろん、痛くはなかったらしいよ。最初のうちは「そうじゃない!」とか、「もっと力強く!」とかって怒鳴る中で、究極的に腹が立った時には太腿あたりをつねってきたってことなんだけど――君貴曰く、このままじゃ体罰を働いてしまうと感じたらしいお母さんは、布団はたきを使いだしたんだって。「もう一回最初からやり直し」バシッ!、「音が飛んだ!」バシッ!、「もっと速く弾くところよ、そこは!」バシッ!……耀子さんは布団はたきで叩くことによって適度にストレス解消が出来て、ちょうどいいみたいな考えだったんだろうね。ところがある日、子供のあまりの出来の悪さに腸が煮えくり返って、布団はたきを真っ二つにへし折ったって話。ほら、僕もそうだけど、ピアニストやヴァイオリニストって、見た目は繊細そうに見えたにしても、指や腕の力は結構あるからね。耀子さんも、毎日ダンベルで腕を鍛えてるって言ってたし……お母さんを本気で怒らせたら、自分たちもああなると思い、君貴とお姉さんの美夏さんは、その後は必死で練習したらしいよ」
「やっぱり、レオンのほうが君貴さんのこと、本当に色々知ってるのね。わたしは君貴さんの家族の話って、あんまり聞いたことないから……」
「ああ、そうそう。そうだった。でね、このお姉さんの美夏さんっていうのが、弟の君貴のほうがピアニストとして天分があるってわかってて、小さい頃から色々意地悪してきたらしいんだよね。お母さんはピアノの妖怪みたいに怖い、姉の美夏さんは嫉妬の怪物みたいにしつこく意地悪してくる……まあ、異性の身内から受ける影響っていうのは、意識できない無意識の底に沈殿していくようなところがあって、君貴の話によると彼が女嫌いなのは、このふたりの影響が大きいってことだった。ほら、君貴って建築家として建築現場を見て歩くのが大好きだろ?それで、今も建築現場っていうのは女性の出入りが少ない、基本的には男が支配する世界、みたいなところがあって――その雰囲気が凄く好きらしいんだよね。女が一切自分の仕事の中に存在しない世界っていうのが。だけど、そんな君貴もマキと出会っちゃったわけだ。あいつ、言ってたよ。『女が視界にいないと安心だ』ということは、裏を返していえば、それだけ普段から女を意識してるっていうことだって。でも、マキに会う前まではそんなことにも気づかなかったんだって。でね、マキと愛しあえば愛しあうほど、自分の中の歪んだ女性イメージが直っていくようなところがあって……それがたぶん、自分がマキに夢中になってる理由だとかって」
「…………………」
君貴が、そんなに自分のことを色々考えてくれているとは思わず、マキは胸の奥が熱くなるのを感じた。立ち去り際、彼が強引にキスしてきたことを思いだし、マキは微かに震える手で自分の唇に触れていたほどだった。
「だからさ、君貴は子供を生んだマキにはもう興味ないとかじゃなくて……愛してるんだよ、ちゃんと。だけど、貴史のことは可愛いがれない。なんでだろうね。僕が思うには、たぶん――君貴は三歳くらいの自分のことを、貴史を見るたびに思いだすんじゃないかな。今はまだ無条件に『可愛い、可愛い』でいいにしても、そのくらいになってきたら、何をやらせるかで将来が決まってきちゃうところがあるわけだろ?もしピアノを厳しく教え込むとしたら、お母さんの二の舞に自分もなるわけで、そうしたら、耀子さんの自分に対する育て方は正しかったということになる。一方、子供がなんの特技もない、凡庸な子に育った場合……君貴の中では、この凡庸っていうのはどうも、お姉さんや弟さんのことを指すらしいんだけどね、それもやっぱり、お母さんの教育の正しさの証明みたいになるんだと思うよ。なんでって、自分は子供に嫌われるのを承知の上で、最大限出来る限りのことはやった――その結果については、ようするに今見てのとおりってことなわけだろ?」
「うん……わたしもね、君貴さんのそういう気持ち、なんとなくわかる。わたしも、貴史のことを生んでから、よく死んだお母さんのことを考えるの。お母さんもわたしを生んだ時、こういう気持ちだったのかなとか、そういうことなんだけど……毎日、前以上によくお母さんのことを考えてて――せめて、貴史っていう可愛い孫の顔を見せてあげられてたらよかったのにって」
この時、マキは涙を流していた。レオンが赤ん坊の頃に母親が自殺していることや、君貴の自分に対する想いや……その他、自分が今いかに恵まれているかということなど、色々なことがないまぜになった涙だった。
「マキ、泣かないで……」
レオンにしても、マキが何故泣いているのかはよくわからなかった。けれど、ある種の優しさや健気さ、繊細さによるものだとは感じていたので、ソファの上で彼女を抱きよせると、自分に寄りかからせた。
「きっと、マキのお母さんは天国から貴史のことを見て、十分満足してるんじゃないかな。君貴は、耀子さんとは絶縁状態かもしれないけど、お父さんとか、お姉さんの旦那さんとか、弟さんとは仲いいんだよ。なんだっけな。お姉さんの旦那さんは、一流オケに所属するプロのヴィオラ弾きなんだけど……『妻という災厄と結婚生活という試練に日々耐えているだろう彼のことを思うと、同情を禁じえない』とかなんとかって。弟の崇くんのことは、お姉さん以上に凡人だってよく言うんだよねえ。僕も、仕事で会ったことあるんだけどさ、地方とはいえ、自分の名前を冠した音楽祭を毎年開いてるなんて、凄いことだと思うよ。ただ、君貴が言うには、『あいつは周囲に媚を売るのがうまいだけだ』とか、そんなことになるんだね。『結婚して子供もいるから、どうかお願いしますう、僕に仕事ください』って印刷した名刺を四方八方に配って頭を下げまくったからどうにかヴァイオリンで食っていけてるんだって……僕はね、君貴ほど穿った見方はしてない。今の時代、人間力のない音楽家に仕事は来ないっていうのは、僕自身ものすごく感じてることだからね。才能より人間力で仕事を取れるっていうのは、ある意味すごいことだよ」
「そうねえ。わたしも音楽番組なんかで、君貴さんの弟さんを見たことあるけど……ようするに、君貴さんはそういう意味で不器用な人だから、世渡り上手で器用な弟さんを批判したくなるってことなんじゃないかしら」
「そうだよ、マキ!さっすが、わかってるねえ」
レオンはマキのことを抱き寄せたままの姿勢で、彼女の頭のつむじあたりにキスした。マキとしては落ち着かなかったが、慰めようとしてくれているのに、彼のことを突き放すことも出来ない。
「他に、何か君貴の家族のことで聞きたいことなんてある?もっとも、僕もそんなに色々知ってるってわけじゃないけど……」
「レオンは?」
マキは、おずおずとそう聞いた。
「その……もちろん話したくなかったらいいの。中国の引き取られた先のご家族のこととか……あと、音楽大学で楽しかったこととか……」
「僕に関心を持ってくれるの?でも、残念ながら僕は、君貴ほど面白い人生を歩んできてないんだよね……でもまあ、雑誌のインタビューなんかでは無難なことしか絶対言わないから、そのあたりの本当のことについてなら話してもいいよ。たとえば、僕がイギリスから中国人の大富豪の家に引き取られたのが八歳くらいの頃だったわけだけど、正直、中国語がさっぱりわからないもんだから、なんで自分がその家に引き取られたのか、ちんぷんかんぷんだったんだよね。僕を引き取ってくれたルイ・ウォン氏には、奥さんとの間に息子と娘がいたんだけど……中国語をある程度覚えてからだね。ただ単にミスター・ウォンが奥さんに対する当てつけのためだけに、僕を引き取ったらしいってことがわかったのは」
「……どういうこと?」
揺りかごの中で、微かに身じろぎする貴史のことを見つつ、マキはレオンに寄りかかったまま聞いた。
「んー……なんかねえ。金持ちの家っていうのは複雑なのかね。ミスター・ウォンには奥さん以外にも愛人がいたんだ。それもひとりふたりじゃなくね。で、奥さんのほうは北京大学を出てる才女で、仕事のキャリアなんかも諦めて、若くしてウォン氏と結婚したらしい。ミスター・ウォンは成り上がりでお金は持ってるけど、奥さんが持ってるような家柄の良さといったものはなかったから、もともとちょっとそういうコンプレックスとか、実家の権威を笠に着るプライドの高い奥さんに対して面白くないものを感じてたっていうのかな。僕的にはね、もしそうだったとしても、愛人がいるんだから、それでもう十分じゃないかっていう気がするんだけど……ある時、たぶん何かのことで喧嘩したんだね。夫婦喧嘩。で、ウォン氏はどこかから孤児でも引き取って奥さんに育てさせようとしたんだ。なんだっけ。なんかねえ、『あなたみたいな男に本当の愛なんてわからない』とか、『百人の女と寝ようと、あんたみたいな男には本当の愛なんてわかりゃしない。可哀想な人』みたいに言われたらしい。で、激怒したウォン氏は奥さんにこう言った。『孤児院から可哀想な子供を引き取ってきたから、おまえに本当の愛とやらがあるのなら、この子に十分な愛情を注いで育ててみろ』みたいに」
「そんな……」
マキから同情の気配を感じ、レオンはマキのこめかみあたりにまたチュッとキスした。
「べつに、マキが僕を可哀想がる必要はないよ。なんにしても僕は――子供を育てる気満々なのに、不幸なことに子供の出来ない円満家庭にではなく、お互いに愛情の冷め切ってる夫婦の元に引き取られてきたわけ。里親になるための審査とか、結構厳しいはずなんだけど、たぶん金の力にものを言わせたのかな、ウォン氏は……すでに血の繋がった九歳の長男と七歳の長女がいるわけだから、奥さん――というか、僕にとっては義理のお母さんだけど、イーランさんにとって、僕は最初からまったく必要のない、邪魔なだけの存在だったわけ。結果、義理のお母さんからは透明人間のように存在を無視され、義理の兄のハオランもまた、僕のことを最初から敵視していた。まだたったの九歳なんだけど、妹のヨウランも英語の家庭教師がついてるから、一応英語のほうは向こうもしゃべれたんだ。で、初めてハオランに会って言われたのが、『おまえがいると将来自分の受け継ぐはずの財産が減るから、早くここから出ていけ』ってことだった。妹のヨウランのほうは、性格が内気でね、金髪の外人の子が怖かったのかどうか、かなり長い間話をすることすらまったくなかった」
「つらい思いをしたのね……」
頬のあたりにキスし返してもらえて、レオンは嬉しくなった。こうしていると、なんだかまるで本物の恋人同士であるように錯覚してしまう。
「そうでもないよ。その前にいた児童養護施設っていうのがひどいところで……存在を無視され続けたにせよ、三食ちゃんとごはんが出て、おやつまであったんだから、僕は環境的には少しは良くなったと子供ながらに思ってたくらいだった。ただ、中国語を覚えるのは拷問に等しかったな。学校のほうは、ハオランやヨウランが通ってる中国人の学校じゃなくて、インターナショナル・スクールのほうへ通わされたから、そこがすごく良かった。みんな英語がしゃべれるし、同級生だった子たちとは、今もすごく仲がいい友達なんだ。僕は今じゃ七カ国語しゃべれるにしても――最初に出会った他言語である中国語は覚えるのが本当に嫌になったね。まず、第一に使う必要性を感じない。イーランさんは家政婦さんに命じて僕が飢えないようにとか、ちゃんとした衣服を着せて学校へ行けるようにとか、そういうふうにはしてくれたけど……僕の顔を見てもほとんどいないかのように無視してたし、ハオランとヨウランは一応英語が理解できる。唯一、ウォン氏に会う時だけ、どの程度中国語をしゃべれるようになったか調べられるから、そのために一生懸命覚えようとしたもんだよ。あと、中国語を教えてくれた教師がさ、ハオランとヨウランに英語を教えてるイギリス人でね。中国語・日本語・イタリア語・フランス語・ドイツ語が話せて、異様なくらい人に言語学を教えることに熱中してる男だったんだ。もっとも、優秀な教師だったにしても、教え方はひどかったけどね。ちょうど、君貴にピアノを教え込んだ耀子さんと一緒だよ。『どうしておまえの舌はこうも発音が下手くそなんだっ!』て言って、よく僕のほっぺをつねってきた。『おまえの舌をペンチでねじって引っ張ってやりたい。そうしたらおまえのまずい発音も少しはマシになるだろう』なんて、イライラしながらしょっちゅう言ってたもんだよ。スタンフォード先生ならやりかねないなと僕は思い、最初は恐怖、そのあとスタン先生の言語学に対する情熱に打たれるような感じで、僕は少しずつ中国語がうまくなっていったんだ」
「ピアノは……九歳の頃からはじめたんでしょう?」
そんな過酷な環境の中で、レオンにとってはピアノだけが救いだったのだろうか――マキはそんなことが気になって、ふとそう聞いた。
「まあ、相当遅咲きだよね。普通、ピアノのコンクールを目指してるような少年・少女は、君貴や彼のお姉さんみたいに、三歳とか四歳、あるは五歳とか、そのくらいから始めるっていうもんね。そこんとこいくと、僕なんか九歳だもんね。僕がピアノに初めて興味を持ったのは、ヨウランが弾いてたピアノの音色によってだった。兄のハオランのほうはヴァイオリンを習ってたんだけど、イーランさんには特に自分の子供をプロにしようという意向はなかったみたいなんだ。とりあえずひとつの教養として習わせておこうみたいなね。僕はヨウランのピアノの先生に掛け合って、自分にもピアノを教えて欲しいと言った。もっとも、僕はその時点で楽譜を読むことも出来なかったし、彼女は今も言ってるよ。『レオン・ウォンにピアノの天分があるとは、最初の頃はまったく思いませんでした』ってね。とにかく僕は、ピアノという楽器が好きだったんだ。一生懸命ピアノに打ち込んでると、過去にあった嫌なことを忘れることが出来た。だから、反復練習がまったく苦じゃなかったんだよ。で、音楽と何かの言語を覚えることっていうのが、どう関連づけられるものなのか、僕にもわからないんだけど……なんでも、嫌々ながらしつこく繰り返すうちに、ある瞬間に臨界点を突破する地点のようなものがあるんだろうね。中国語を覚えるのが苦痛でも、そのあとにピアノっていうご褒美があると思えば、前以上に集中して勉強することが出来るようになった。あと、僕はかなり早い段階からソヴィエト・システムっていうものに対して、本で読んで強い憧れを持ってたんだ」
「ようするに、ピアノやヴァイオリン、あるいはスケートでもなんでも――何か突出した才能のある分野に関して、国がお金を出してくれて、その才能を伸ばすようにさせてくれる制度のこと?」
この時、マキの頭にパッと思い浮かんだのは、ピアニストのスタニスラフ・ブーニンやウラディーミル・アシュケナージ、あるいはオリンピック金メダリストのエフゲニー・プルシェンコのことなどだったろうか。
「そうそう。エリザベート・コンクールで一位になったエフゲニー・モギレフスキーなんて、コンクールの前に卓球してたっていうくらいだからね。ようするに、国の威信がかかってたり、家族も経済的なことを含め、そこにすべてを懸けてるわけだから、本人に失敗は許されないわけだろ?だから必死に練習するし、そのための環境もすべて最高かそれに近いものを与えられて、ピアノならピアノだけ、陸上なら陸上競技だけに集中できるようにさせられるわけだから……逆にいうと、本人に他にやりたいと思うことがあっても、そうした自由はないわけだよね。僕にはそういうプレッシャーは何もなかったけど、ソ連時代の芸術家はみんな大変だったんだ、それに比べたら僕なんかなんだと思って、とにかくピアノに熱中した。正直、今も僕自身よくわからないんだよね。僕の演奏で、なんであんなに聴衆が熱狂してくれたのかが」
天才、と呼ばれる存在は、案外そんなものなのかもしれない――と、マキはレオンを見ていて思わなくもない。レオンは、マキの持っている彼のCDジャケットを見て、『絶対こいつナルシストだって、マキも思っただろ?』と言って、笑っていたものだ。『でも、実際の僕って案外普通だと思わない?ファンの子たちはみんな、僕がピアノを弾く以外のことは召使いにさせてるみたいなイメージらしいんだけど、料理だってすれば洗濯だって自分でするしさ、実際は全然普通だよ』と。
「でも、ピアノを子供たちに教えてる先生たちにとっては、レオンのピアノ技術はやっぱり驚異以外の何ものでもないんじゃないかしら。三歳とか四歳くらいからピアノをはじめる子たちっていうのは、たくさんいると思うけど……九歳でピアノをはじめて世界的なコンクールで優勝してしまうだなんて、審査員の先生の言い種を真似るとしたら、誰にとっても『アメージング!』としか言いようがないことのような気がするんだけど」
「まあ、僕にはそもそも失うものなんて何もなかったからね。コンクールの様子を小刻みに震えつつ見守ってくれる家族もなかったし、とにかく僕が意識してたのは自分とピアノと、コンクール前に卓球してたっていうモギレフスキーのことだけだった。もっとも、僕には卓球する精神的余裕なんてなかったけどね。ミスター・ウォンの病状が悪くて、優勝できたらウォンさんが喜んでくれるだろう――っていう気持ちは多少あったけど、ちょうど、最終審査の時だね。僕がショパンのピアノ協奏曲を弾いてる時に亡くなったって、あとから聞いて知ったんだ。変な感じだったよ。僕はもし自分がプロのピアニストになることさえ出来れば、これからはウォン家に頼らなくても独りで十分やっていかれるってことにすべての望みを託してたのに……彼は、最後まで奥さんに対して面白くない感情を抱いてたのかどうか、ハオランやヨウランよりも僕に一番多く資産がいくよう遺言してたんだ」
マキはこの時、以前君貴が言っていたこと――『あいつはピアニストなんか辞めても、十分食っていけるだけの資産があるからな』といった科白を漠然と思い出していた。ゆえに、今は気が向いて赤の他人の子を育てるのに熱中していても、確かにそうした意味で困ることはないのだろう。
「まあ、ウォンさんは確かに変わってたよ。言ってみれば、今の君貴と一緒だ。奥さんよりも愛人のうちの誰かにいつも熱中していたし、ふたりいる子のうち、どちらにも愛情を抱いていなかった。しかも、僕にピアノの才能があるらしいとわかるやいなや、『あの豚児どもも、君みたいに何かの分野で才能があればよかったんだが』なんて言うんだぜ?まったく、ひどい父親だよ。で、事業のほうはいずれハオランが継ぐようにってことで、いわゆる帝王学っていうの?そういうことも教え込んでたらしいんだけど、最後に会った時、彼はこう言ってたよ。僕のほうがよほど事業家として才覚があると思うって。でも、奥さんとの約束でそういうわけにもいかんとかなんとか……だから、僕も結構困っちゃうんだよね。中国人に引き取られたからって、僕には中国のことなんて今もさっぱりよくわからないのに――中国が何かのことで槍玉に挙げられたりすると、『母国の現状についてどう思われますか?』なんて聞いてきたりするんだから。僕にしてみたら、『ただのピアノ弾きの僕に、政治のことなんか聞くなよ』っていう感じなんだけど、香港や台湾、チベットやウイグル問題のこと以外では、割と曖昧にぼかした言い方をしたりね。なんかそんな感じ」
レオンはウイグル問題のことでかなり厳しく中国を批判するコメントを出したことがあり、なおかつ、台湾や香港の立場を擁護し、そのためのチャリティー・コンサートを開いて拍手喝采を浴びたことがある。中国当局はこのことを受けて、レオン・ウォンを監視しているのではないかという噂があるのだが、真偽のほどはわからない。
「レオンは、立派な人だわ。十分すぎるくらいの資産があって、それを世の中のために役立てたり、今までだって数え切れないくらい、災害のあった国でチャリティー・コンサートを開いたり……」
「まあね。マキは僕のこと、天才だとかいい人だとか、色々褒めてくれるのは嬉しいんだけど……結局、男としては見てくれてないってことなんだろうね。確かに僕はその後、ジュリアードに進んで、ピアノの学士号と修士号を取りはしたけど――その間も、結構モテることにはモテたんだよ。だけど、女性とは誰も、そうした関係にはならなかった。その僕が、こんなに頼んでるのに……」
不意に、ぐっと腰に回された腕に力がこもり、マキも少しばかり慌てた。彼自身が自分でも言っていたとおり、レオンは細身で繊細そうに見えるのに、確かに腕力だけは相当あるようだった。
「れ、レオンっ!貴史が見てるし……ほらっ!よ、よくないわ。子供の前でこんな……」
ソファの上に押し倒されても、マキはどうにか首を逸らせて、レオンにキスさせようとはしなかった。貴史はぐっすり寝ているので、彼女の言っていることはただの言い訳にすぎない。けれど、レオンはふっと力を抜くと、マキの体から離れた。そもそも最初から、彼にもマキに対し無理強いする気などない。
「わかってるよ。僕はね、一応マキがその気になるまで、待つつもりでいるから……どうせあれだろ?君貴には、僕がそのことでぶんむくれてても放っておけとでも言われてるんだろ?あいつ、それ以外にも僕のことで何か言ってた?」
「ううん。特には……あっ、でも、もしレオンが出ていったとしても、追いかけたり心配したりしなくていいとかって、それは言ってたような気がする。あとね、わたしが今こんなふうに言うのは、レオンに出ていって欲しくないからなの。もし、レオンが出ていくとしても、ちゃんと話しあって、またいつでも気兼ねなくここに遊びに来れるような形でって、そう思ってるから……」
レオンは、また元の通りの彼に戻ると、マキの肩を抱きチュッとこめかみのあたりにキスした。
「優しいね、ほんとにマキは……普通は、『そんなことするんなら出てって!』って怒って言うところなのにね。あと、君貴が言ってたあれってほんと?僕が天使みたいに見えるから、セックスの対象としては見られないだとかっていう話」
マキは頬を赤らめて、また睫毛を伏せた。こういう時、男のほうでは最高にそそられるということを、彼女は理解してないのだろうと思うと、レオンとしては何か堪らなかった。
「う、うん……だって、レオンったら、家のことはなんでもやってくれちゃうし、わたしにとってはほんとに完璧な家庭の天使みたいに見えるんですもの。それなのに、それ以上何かだなんて――あっ、あとね、君貴さんも言い方悪かったと思うの。わたしが言ったのは、わたしとそんなことになっても、レオンががっかりして気まずい思いをしてここから出てくだけだっていう、そういうことだもの。貴史の面倒は見たいけど、わたしとは別れたいみたいな?お互い、そんなふうになったりするより、今のままでいたほうがいいんじゃないかなと思って……」
(そんなことにはならないと思うけど)と、レオンはこういう時、マキが自分のほうを見ないとわかっているため、彼女の横顔をじっと見つめていた。(可愛い、マキ……最初の頃は、君貴が清らかだなんだとかって言うたびにむかっ腹が立ったもんだけど、今は僕にもよくわかる。僕のほうが天使っていうんじゃなくて、マキのほうが天使のような清らかな眼差しで僕を見るから、そういうふうに見えるんだろうなっていうことがね)
けれど、持久戦続行ということになっても、レオンはまったく望みを捨てていなかった。むしろ、今まで彼に秋波を送ってきた数々の女性のことを思うにつけ、彼にとってマキはそうした女性たちとはまったくの別格といってよかった。レオンにとって女性というのは、大体のところ二種類に分けられる。彼と交際する・(最終的に)結婚する・(一夜限りでも良いから)セックスしたい……といったことをはっきり前面に押しだしてくる女性と――もうひとつのタイプはファンの女性に特に多いのだが、レオンのことをほとんど神格化したような存在、あるいはアイドルと考えており、まさしく偶像として拝むが如く接し、握手しただけで倒れるばかり……といったタイプの二種類である。つまり、そのちょうどいい『間』の普通に接してくれる女性というのに、レオンはあまり会ったことがない。いたとすれば、中国にいた頃、インターナショナル・スクール時代を共に過ごしたクラスメイトくらいなものだったろうか。
そして、レオンにとってマキはこの中のどこにも該当しなかった。あまりグイグイ来る女性にはどん引きしてしまうし、そもそもファンの子に手を出すなど論外ではあるのだが、それでもあんなに崇め奉られる対象として見られるということ自体、レオンは今もどこか重荷に感じるところがある。そもそもレオンは、女性全般に対し、誰に対しても平等に優しかったので――おととしの冬、大晦日に彼がマキに対してやってのけたことは、例外中の例外だったといえる。だがその後、カールから色々と事情を聞くにつけ、自分が大人しい犬に対して虐待を働いたような、苦い後悔の思いを味わうことになった。その上、もう二度と会うこともないだろう……と思っていたのに、何故今こんなことになっているのか、レオンとしても不思議で仕方がない。
「あのさ、マキ。君貴にスイッツァランドの話をしたことあるだろ?」
そんなことまで知っているのか……そう思い、マキはまた顔を赤らめた。彼らは一体どこまでお互いに情報を共有しあっているのだろう。
「ええ。わたしの空想上のスイスの話なんだけど……簡単にいえば天国というか、理想郷というか、何かそんなところなの」
「その話を聞いてて思ったんだ。君貴はさ、だからスイス人はみんな、天国に住んででもいるように善良なんだ……なんて、そんな十字架背負わされても、スイス人だって困っちまうよな、なんて笑ってたっけ。でも、マキはもうすでにスイッツァランドに住んでるんだよ。そのこと、知ってた?」
「え~っと……」
レオンが何を言いたいのかがわからず、マキは戸惑った。
「つまりさ、ここ日本こそが、世界の多くの人たちにとってのスイッツァランドってことなんだよ。アフリカの発展途上国へ行くと、そのことがよくわかる。日本からやって来た人たちが運営してる孤児院とか学校とか病院とか……そうした活動をしてる日本人を見て、たぶんそんな素晴らしい人ばかりがひしめいてると思うんだろうね。一度でいいから日本へ行ってみたいって子供たちが言うのを、そういうところではよく耳にする。もちろん、わかってるよ。実際に日本へ来て住んだら、彼らはこの日本にも日本人にも失望するんじゃないかって思うだろう?でも、やっぱり僕は日本っていうのは特別な国だと思う。ほら、ヨーロッパの中で、イギリスだけヨーロッパじゃないみたいに感じるように――日本はアジアの中の一国って感じじゃない。他のアジア諸国とはまた別個の、別格の国だみたいに感じる人は多いんじゃないかな」
マキには、レオンが何を言いたいのかわからなかったが、とりあえずただ黙って聞いていた。君貴にも大体似たようなところがあり、テレビのニュースを見ながら、彼はほとんど独り言のように自分の政治的意見を述べたりしていたものだ。
「そうよね。そりゃ、スイスの人たちが困惑するのは当然よね。わたしだって、そこまで何か高い道徳的人格みたいなものを求められたりしたら、なんだか重荷だもの。ただ、わたし……小さい頃に公園のトイレで女の人が首を吊って自殺してる遺体を見てしまったことがあるの。でね、まだ八歳とかそのくらいだったから、そのことがすごくショックで、どこの誰かも全然知らない女性だけど、そんな素敵な天国みたいなところに彼女の魂がいるといいなって思うことにしたっていうか」
「それは……すごくショックだっただろうね。一種のトラウマだ。どうやって乗り越えたの?」
「うん……その頃はまだお父さんとお母さんが離婚してなくて、お父さんが少し、参考になるような話をしてくれたの。お父さんが大学生だった頃、偶然交通事故の現場を見ちゃって、それが相当ひどい現場だったらしいのね。道路で車に跳ね飛ばされた男性が、ぽーんってゴム鞠みたいに飛んできたかと思ったら、お父さんのすぐそばでグシャッと脳天が潰れて即死したっていうことで……その時のカッと両眼の見開いた恐ろしい顔をまともに見ちゃって、その場でおえっと吐いちゃったんですって。そのあと二、三日は食欲なかったけど、大体二週間くらいしたら、だんだん事故の記憶も薄まってきて、どうにか日常生活に戻れたって……」
「でも、大学生と八歳の子供じゃ、負った心の傷の大きさが違うよ。児童精神科医に見てもらったりした?」
マキは、物凄く真剣な眼差しで見つめられて、この時もドギマギした。こんな話、君貴にもしたことはなかったし、大体マキは彼がその時々に応じて話したいことを頷きつつ聞いていることが多い。
「ううん。お母さんはね、そういうところに相談に行こうと思ってたみたいなんだけど、わたしもね、最初は物凄くショックで寝込んじゃうくらいだったにしても、すぐ学校にも通いはじめたし、完全に忘れたとか、最初のショックがなくなったわけじゃなくても――まあ、日常生活は支障なく過ごせるような感じだったから」
「そっか。つらい思いをしたんだね……」
レオンがあまりに真摯な様子で、また自分を抱きしめてきたので、マキはうまく茶化そうとした。
「ついでに、少し変な話してもいい?わたし、ここに引っ越してくる前まで、築四十年くらいの古いアパートに住んでたの。でね、君貴さんに最初、マンションを用意してやるから、腹の中の子と一緒にそこへ引っ越せって言われたんだけど……すぐには承知しなかったの。貴史のことは自分ひとりで育てるつもりでいたし、君貴さんにそんな形で迷惑かけたくなかったっていうのがあって。でも、すごく君貴さんに説得されたのね。その時、『前から言おうと思ってたんだが、マキのその部屋で、絶対誰か人が死んでるんじゃないかと俺は睨んでる』って言われて……確かに、真下の階にはおかしな人が住んでばかりいるから今は空室になってるけど、わたしの部屋では変なことなんて起きたことないってきっぱり言ったの。だけど……」
レオンは、その件についても君貴から聞いていたが、あんまり『あれもこれも知ってる』なんて言うと、マキが気味悪がるのではないかと思い、ただ黙って彼女の話を聞いていた。
「そしたら君貴さん、バスルームが綺麗すぎるなんて言うの。確かにね、古いアパートかもしれないけど、内装のほうはわたしが入った時から新品みたいにすごく綺麗なところだったの。特にバスルームの壁が、すごくお洒落な透かし模様が入ってたりして……君貴さん、下の階はどうなってるんだと思い、鍵も開いてたから中を見てみたんですって。そしたら、話にもならないくらいひどい有り様だったっていうの。『そりゃもう何年も人が入ってないんだから、そうでしょうよ』なんて言い返したんだけど……『俺は幽霊の類については信じないが、人を変な気にさせる部屋のようなものは確かに存在すると思ってる』って、君貴さんは言うのね。その時はわたし、少し意地になってたこともあって、『とにかく君貴さんのお世話にはならないから、放っておいて!』みたいに言って、ガッチャリ電話を切ったの。でも、そのあとからなんとなく気になってきちゃって……こんな話、馬鹿みたいだってレオンも思うと思うけど……」
「いや、マキのことを馬鹿だなんて、僕は全然思わないよ。なんだっけ。下の階のほうは、家賃踏み倒して夜逃げしたり、自殺未遂騒ぎを起こしたりするような、そういう人ばっかりが住む宿命にあるような部屋だったんだよね?君貴はね、実はマキの住んでる部屋でそういうことが色々起きてたんじゃないかって疑ってたみたい。だから、そんな場所にマキのことを置いておくのが心配だったんだよ」
「うん。わたしも、可愛くないわよね。結局、こんなふうに住むことになるんだったら、最初から『はい。ありがとうございます』って言ってれば良かったのに……でも、君貴さんにそう言われてから、なんだか落ち着かなくなっちゃったの。わたしね、友達のひとりが物凄い占い好きで、すごくよく当たる占い師がいるって聞いても、絶対そういうところに行きたくないのよ。なんでって、自殺した女性の霊が憑いてるとか、そんなこと言われたりしたら――なんだかすごくいやだなと思って」
「なるほどね」
レオンはまたマキのことが可愛くなって、彼女のほっぺのあたりにチュッとキスした。もちろん彼にはわかっている。その頃はまだマキと自分は今のような関係性ではなかったから、彼女は気を遣ったのだ。そんな愛人にマンションを与えて囲うような真似をして、恋人である自分が喜ぶはずがない、といったように。
「確かに、僕も占いの類や幽霊といった話は信じないけど……でもこれは、占いは当たらないし、幽霊は存在しないって言ってるんじゃないんだよ。まあ、占いについてはせいぜいのところを言って参考程度、幽霊はいたにしても、死後の霊の世界がどうこうとか、いくら研究したところでわかるってわけじゃない。でも、僕も君貴と同じでね、人に変な気を起こさせるというのか、そうした部屋というのは存在するっていうのはわかる気がする。ほら、僕のこの仕事だと、世界中のホテルにあちこち泊まらなきゃならない。それで前に一度だけね、僕もおかしな経験をしたことがあるんだ。ロンドンにあるホテルでのことだったんだけど……夢の中にね、中世のドレスを着た女性が出てきたんだ。マリー・アントワネットとか、クイーン・エリザベスⅠ世とか、大体ああいう肖像画に描かれてるのに近いような衣装の女の人。で、べつに何か向こうから話しかけてきたわけではないんだけど――すごく、何か言いたげなんだよね。気配としては物凄く悲しげな雰囲気で……次の日、クローゼットとかバスルームとか、戸棚とか、扉や引き出しという引き出しが全部開いてたんだ。かなりのところぞーっとしたね。一応、隣の部屋にいたマネージャーにも話を聞いたけど、自分は何もしてないっていうし、ホテルのマスターキーを持った人が夜中にそんなことをするはずもない。僕は幽霊の仕業みたいに今も思ってるけど、かといってそれを証明することも出来ないっていうか」
突然、マキがレオンにひしっ!と抱きついてきたので、彼は驚いた。彼女はいつも、レオンが抱きしめても、キスしても――そういう意味ではないとわかる時しか、抱きしめ返したり、キスし返してきたことはないからだった。
「あれ?もしかしてマキ、幽霊の話とか、そういうのに弱いほう?」
「う、うんっ!わたし、ホラー映画とかもまるっきり駄目なの。怪談なんて聞いた夜には、トイレに行くのが怖いってタイプ」
「そっか。ごめんね。怖がらせちゃった」
レオンはマキのことを胸に抱くと、彼女のつむじのあたりにまたキスした。(こうしてると、本当の恋人同士みたいなのにな)と、『気長に待つ』と先ほど思ったばかりなのに、その決意が揺らぎそうになってしまう。
>>続く。