今回はものすごおおくはっきり、清々しいくらい、言い訳事項が存在します(^^;)
↓の中で、ICPO(インターポール)の新しい事務総局を現在のリヨンから同じ市内の別の場所へ移築する――という設定が出て来ますが、言うまでもなくそんな計画はございませんww
ここが当然、740%、完全完璧フィクションであるというのが今回の一番の言い訳事項なのですが(汗)、だったらなんで、こんなあってもなくてもどーでもいい描写のために、そんなエピソードを入れたのかというと……実際のとこ、アトゥー氏が<世界的建築家>であるという、何かそれっぽいエピソードを入れることさえ出来れば――まあ、正直なんでもよくはあったのです(^^;)
んで、いつものようにこのあたりを書いてる時……「そうねえ。アトゥー氏がケン・イリエと顔を合わせるコンペねえ」とぼんやり考えつつ、ふと脳裏を、現在リヨンにあるICPOの、あのとても有名な総ガラス張りの建物のことがよぎったというか。。。
「そういえばあの建物って、誰がデザインしたものなんだろう?」というのが第一の疑問であり、第二に、デザインしたのが誰であれ、「どういった形でいつ誰が誰に依頼したのか」ということが気になりました。というのも、ICPOの総会等で相談して決めたにしても、特にフランス国内では公的建物を建設するに当たっては、必ずコンペにかける……ということがあるらしいので、国際機関という公平性のことを思ってみても――というか、加盟国の分担金によって運営されている国際機構なのに、まず公平にコンペにかけないはずがないと、そう思ったんですよね(^^;)
かといって、↓のように、世界中で名の知れた建築デザイナーに声をかけ、その全員をパーティに招くとか、なんかありえない気がしますし(自分で書いておいてなんですけど・笑)……こうした建築関係者らに順にプレゼンしてもらい、それをICPOの総裁や副総裁、事務局長やその他執行委員などがじっくり聞いて決める――とかっていう、本当にそんな感じなのかどうか、そのあたりのところがよくわからないわけです
まあ、べつにこのあたりのことはわたしもテキトー☆に書きましたし、お話全体のエピソードとしても軽く読み流す程度な感じ……と自分でも思ってたりして(笑)、間違ったこと書いたりしてるかもしれませんが(汗)、何かそんな感じでよろしくお願いしますm(_ _)mm(_ _)mm(_ _)m
で、ですね。
わたし、自分で他の小説書くのにICPOのことは以前調べたりしてたので、その時に購入した本を今回も参考にさせていただいたというか
それが『国際犯罪と戦う~インターポール警察局長体験記~』(川田晃先生著/サイマル出版会)と、『インターポール~国際刑事警察機構の歴史と活動』(マルク・ブラン著、北浦春香さん訳/白水社)という本の、二冊です。
それで、『国際犯罪と戦う~インターポール警察局長体験記~』のほうは、1993年出版なのですが、著者である川田晃先生がインターポールに出向して、当時「赴任後、こうしたことで困った」といった、奥さまや娘さんを含めた生活面でのことも読んでいて興味深かったのですが、実際にインターポールの職員として働くこと、また組織の内幕等についても面白いと感じるのと同時――偶然、川田先生がインターポールで働かれていた当時、インターポールの事務総局がそれまであったパリ郊外サンクルーから、リヨンへ移転する時期だったようなのです。
>>リヨンの新本部ビル
事務総局がパリ郊外のサンクルーからフランス中部のリヨンに移転したのは、1989年5月から6月にかけてだった。私が事務総局勤務を三年半ほどこなしたころのことだ。リヨンへの移転の方針が最終的に決まったのは、私の事務総局勤務が発表になった85年の年次総会だったが、この移転問題はそれより数年前から検討されていた。
【中略】
そんな情勢の中で、南仏マルセイユと並んでフランス第二の都市を誇る(市内人口では負けるが、周辺経済圏を含めた人口ではマルセイユよりも大きい)リヨンが、「国際都市」化をめざしているところから、国際機関の本部を誘致したいと考えた模様で、「土地を提供するからリヨンに移転しないか」とインターポールに働きかけてきた。
後に事務総局の新しい建物が作られることになるリヨン市北端のローヌ川沿いの土地は、それまで国際見本市会場に使われた所で、新しい見本市会場を郊外に建設したため、市当局はこの土地に国際機関の本部、多国籍企業の本社・支社、国際会議施設、大型ホテルなどを誘致し、市の名物となるような「国際都市」と称する区画を作る計画を立てていた。
【中略】
最終的には執行委員会と総会がリヨンへの移転を了承し、インターポールはリヨン市との間に99年の土地無償借り受けの契約を結び、その敷地上に独自予算で建物を作ることにしたのだった。新築移転に要する費用は、増築を前提に積み立てていた資金に、サンクルーの土地と建物の売却代価を加え、さらにフランス政府、リヨン市などからの助成金も出たから、ほとんど借り入れなしですませられ、資金的にはきわめて健全な新本部ビル建設となった。
【中略】
全体で地上6階・地下1階の中庭のある四角い建物になることはわりに早くから聞いていたが、建物の骨格に関する青写真(フロアプラン)を受け取ったのが完成予定の約2年前、次いで1年半前になってようやくオフィスの区分について相談があった。こういう話も各局ごとにくるので、自分の入る階の部屋割りは頭に入ったのだが、よその階がどのように準備されるのかは、できあがるまでわからずじまいだった。
とくに事務総長の執務室と公邸が設けられる最上階については、最初にもらったフロアプランには含まれていたから、これを持っている私は基本的な配置を想像できたが、どう手直しされたのかは厳重な緘口令が敷かれ、わからない。移転後も許可なくこの階に上がることは禁じられたので、呼びつけられたり会議に参加したりするチャンスのある者を除いて、普通の職員にとっては謎の階になっている。
(『国際犯罪と戦う~インターポール警察局長体験記~』川田晃先生著/サイマル出版会より)
……などなど、なかなかというか、かなりのところものすごおおく、個人的には面白いお話だなって思いました♪(^^)
また、「そもそもインターポールの事務総局って、なんでフランスにあるの?」と不思議に感じられる方もおられるかもしれません。移転する際に当たって、フランス国内ではなく、国際機関として他の国へ移転することが検討されなかったのかどうかとか……このあたりについては、もう一冊の『インターポール~国際刑事警察機構の歴史と活動』のほうに詳しく書いてあるので、こちらを読むと「あ~、なるほど……」と合点がゆかれることと思います。
なんにしても、御興味のある方はどうぞ……ということで!
それではまた~!!
ピアノと薔薇の日々。-【20】-
(まあ、そのうちどこかで顔を合わせる機会があったとして……『俺の女に手をだすな』と釘を刺すっていうのもおかしな話だ。そもそも、ケン・イリエのほうではマキが俺の内縁の妻だなんてこと自体、知らんのかもしれんのだしな)
ところで、君貴と入江健はこの二週間後、フランスのリヨンであった国際コンペティションにて、顔を合わせるということになる。インターポールの事務総局が、リヨン市内に新たに建物を移築するとのことで、この国際コンペに参加する関係者がホテルのほうへ招かれ、パーティが開かれることになっていたのである。
招かれた建築家の顔ぶれは、君貴も含め世界的に名を馳せている建築デザイナーばかりだったと言ってよい。言うまでもなく、インターポールというのは、世界各国の警察機関が連携している国際組織である。おそらくそのせいもあるのだろう、コンペに招聘された建築家の顔ぶれも、韓国、アルゼンチン、アゼルバイジャン、パラグアイ、サウジアラビア、エジプト、ナイジェリア……と、なかなかに多彩だった。君貴としては、自分以外の誰かのデザインが選ばれるのだとしても、まるで構わないとの考えの元、今回のコンペには参加していたものである。これは何も、彼が自分の建築デザインに自信がなかったからではない。誰が、というのか、どの国の建築家のデザインが選ばれるにせよ、単にその出来の良し・悪しだけが結果に結びつくわけでないことを、彼自身よく知っているためだった。
何分、その時の各国の政治情勢や経済状態など、色々なことが絡んでくるため、仮にそのすべてのデザインを君貴が目を通すことが許されたとして――極端な話、ロシア人や中国人の建築家の出したデザインがどれほど素晴らしくとも採用されないということはありうる……というのは、誰もがわかる話だろう。そうした意味で、自分の提出した建築デザインが採用されなくとも、落ち込む必要はないと彼自身は考えていた。
ところでこの日、ホテルの大広間で、インターポールの総務局長と君貴は少しばかり話し込むことになった。というのも、彼は日本人だったのだが、君貴の母であるピアニスト、阿藤耀子の大ファンだということだったからである。もちろん彼は、『もうあの鬼母とは絶縁状態で、何年も会ってないんですよ』といった話はおくびにも出さず、ただ適当に相槌を打ち、相手の話に調子を合わせておいた。
「阿藤さんのお母さんの弾くショパンはもう、天下一品ですからな。パリでコンサートが開かれる時などは、妻とともに必ず馳せ参じることにしているのですよ」
「それはどうも……母に次に会った時にでも、その嬉しいお言葉、必ず伝えておきましょう」
このあと、インターポールではどのような仕事をしておられるのかといった質問をして、君貴は興味深く耳を傾けていたわけだが――君貴は話を半ばほども聞かぬうちから、インターポールという組織に幻滅の思いを抱きはじめていたといえる。というのも、ニュースなどで「インターポールは△□を国際指名手配した」と聞いたりすると、何やら格好よく聞こえるが、インターポールというのは結局、そうした情報交換や国際事務手続きに終始するだけの存在に過ぎないようだったからだ。
「まあ、アメリカのFBIが州境を越えて捜査活動するように、我々ももっと国境を越えて活動できるといいんですがねえ。昔からヨーロッパ統一警察(Europol)という、構想自体はあるんですよ。これはヨーロッパ全域で国境を越えて権限行使できる統合警察組織を設けようというものなのですが、いまだに実現していませんね。やっぱり、各国の法制度が異なることと、その国家の主権の下、警察組織というのは機能しているものですからな。また仮にユーロポールというものが実現して、生え抜きのエリートばかりが捜査官として揃ったにしても……行った先の地元警察との縄張り争いだなんだ、色々とまた別の問題がでてくるでしょうしな」
「なるほど。こう言ってはなんですが、映画のような面白いお話ですね。国境を越えた麻薬の売買、美術品の盗難、銃器類の運搬、マネーロンダリングやサイバー犯罪、国際テロ事件などなど……ICPOが犯罪データバンクとしても、非常に重要な機関であることがよくわかります。また、損得を抜きにした相互扶助の善意の精神がいかに世界平和の実現のために必要かということも……」
「そうなのです。先ほどもご説明しましたとおり、ICPOの加盟国には、NCB(国家中央事務局)という部署がありまして、普段はこの部署が国際犯罪の情報交換などを行っています。日本では、その事務は警察庁の組織犯罪対策部国際捜査管理官が所轄しているのですが……」
このあと、総務局長は国際犯罪と戦うにあたり、国際公務員である職員たちの品位、あるいは国を代表する警察機関の人間としての誇りと善意がいかに大切かについて説明しようとしたのだが――他の幾人もの招待客に取り囲まれてしまったせいもあり、一旦この話は中断されることになった。
君貴は特段、自分の母のファンだという総務局長の話の続きは気にならなかったかもしれない。そこで、総務局長を囲む招待客らの輪から離れると、シャンパンを片手に思わず溜息を洩らした。
(まあそりゃ、MI6におけるジェームズ・ボンド、あるいは銭形警部のような国際捜査官がいるわけじゃないっていうのは知ってたが、直接話を聞いてみると、インターポールっていうのは諜報好きがまったくもって落胆せざるをえない組織だということだな……)
何より、インターポールという組織は、あくまで人権を基礎とし、政治・宗教・人種に加え、軍事に関わる案件については制限が加えられている。だが、こうした憲章第3条に抵触する要件であっても、たとえば国際テロ犯の国境を越えた犯罪歴や、その人物像といった情報についてであれば、ICPOの犯罪データバンクにも詳細なものがあったに違いない。そして、こうした犯罪に関して必要な情報については惜しみなく各国のNCB(国家中央事務局)を通して提供もしようが、政治が絡んだ場合には外交ルートが主体となる場合が多く、その他宗教や人種、軍事に関わる案件に関しても――インターポールは扱う案件の適用外であるとして、基本的に動くことはない。
たとえば、どこかの国で他国の要人を人質とした、誘拐引きこもり事件が起きたとしよう。こうした場合、その要人が政治家か、それとも軍人か、あるいは国民的に知名度の高い有名人か……などによっても異なってくるが、政治や戦争といった軍事問題、あるいは宗教問題や人種問題が関わってくるなら、原則としてICPOは主体として動いて指揮を執ることはない。だが無論、事件が起きた国の国家警察機関、NCBの職員とは情報交換その他の点で援助を惜しむことはなく、人質救助に至るまで最大限協力は続けるといった、そうしたスタンスを取るということである。
だが、なんといっても映画的なイメージとしては、政治や宗教や人種、戦争といった軍事問題の枠さえ越えて、事件を解決してゆくスーパー捜査官を誰もが期待とともに連想してしまうものなのだろう。ICPO、インターポールという、正義の名の下に設立されし、この国際警察機関には……。
そして、君貴がシャンパン片手に、これまでの間にICPOが解決へと導いた比較的大きな国際事件のことに関し、思いを馳せていた時のことである。同じようにシャンパングラスを手にした、エルメネジルド・ゼニアのスーツを着た男が、彼のそば近くまで優雅な足取りで近づいてきたのである。
「やはり、芸能一家に生まれつくと、何かと有利なのでしょうな」
引き続き、英語ではなく日本語で話しかけられ、君貴は驚いた。まわりの人々は大抵が英語かフランス語で話していた、そのせいである。
「……どういう意味だ?」
相手が入江健であることがわかるなり、君貴は露骨に顔を歪めた。マキのことが一瞬脳裏をよぎるが、今はまだ軽はずみなことを言うべき時ではない。
「いえ、そのままの意味ですよ。お父上は一流の指揮者、お母上は一流のピアニスト、姉君もまたプロのピアニストで、弟君も同じく一流のヴァイオリニストときたら……クラシック音楽好きの人々が集まるコンペでは、大変有利なのではないかと申し上げているだけです」
この瞬間、君貴の背中に虫唾が走った。マキは入江氏のことを評して「普通のおじさん」と表現していたが、入江健は四十五歳という年齢の男性としては、なかなかダンディでハンサムだったというべきだろう。もっとも、マキの場合はそもそも二十歳も年が離れているわけだから、「(異性として意識することはない)普通のおじさん」という、そうした意味だったのかもしれないが……。
(こいつ、周囲に日本語を理解する奴がいないのをいいことに……というより、こんなことを口にしてくるあたりからして、よっぽど腹に一物が溜まってるってことだな。慇懃無礼にもほどがある)
「俺の母親の阿藤耀子は、確かに一流のピアニストなのかもな。だが姉と弟に関しては、せいぜいのところを言って、親のセブンライツを受けた二流の音楽家なんじゃないのかね。とりあえず、世間一般ではそんな話だがな」
「またまた、ご謙遜を……単に、ご自分が音楽の道で挫折されたから、お姉さんや弟さんのことが羨ましいというだけなのでは?」
(こいつ……!やっぱりあれだな。あの気味の悪い蘭の花攻撃は、俺に対する間接的な嫌がらせか)
「ハハハッ!そう腹黒いと、嫁さんにも逃げられるわけだよな。なんだ?次は随分若い花屋の店員にちょっかいを出しているようだが」
君貴がズバリ核心を突いたのには理由がある。入江健の前妻はコロンビア大卒の才女である。そうしたある種のブランド指向を持つ男が、小さな花屋の店員など、愛人にしたいという以外で用があるとは思えなかったというそのためだ。
「あなたの内縁の奥さんのことですか?最近、金髪に青い瞳の男性がよく出入りしているようですが……間男にだけはなりたくないものですな」
ここで、君貴は切れた。大切なコンペがあるのは明日だ――そのことを思えば、トラブルを起こすのは賢い選択ではない。だが、君貴は先ほど総務局長の話を聞いて興醒めしたせいもあり、もはや自分の建築案が選ばれなくとも、まるで構わないといった気持ちになっていたのである。
「ハッ!くっだらねえ嫉妬で、人の身辺かぎまわりやがって……上品な言葉遣いの薄汚ねえ犬野郎が。てめえのデザインが選ばれねえのはな、たぶん総合力で何かが頭一個分足りないんだろうよ。今の陰険なやり口と慇懃無礼な態度で、そのことがよくわかったぜ!」
そう吐き捨てると、君貴はシャンパングラスの中身をケン・イリエの顔とエルメネジルド・ゼニアのスーツにぶちまけてやった。それから誰になんの断りもなく、そのままホテルの大広間を出、ロビーを抜け、エントランス前でタクシーを拾った。彼の後ろを秘書の岡田が慌てたように追いかけてくる。
「遅かったな。何してた?」
「何してたって、仕事に決まってるじゃないですか!インターポールの事務総長や副総裁にゴマすりまくってたっていうのに……これでいくと、徒労に終わりそうですよ」
君貴は運転手に、ポール・ボキューズのレストランへ行くよう頼んだ。そこで美味しい物でも食べれば、岡田の徒労も少しは報われるだろうと思ってのことである。
「まあ、今回のことが仮に俺の悪評に繋がって、暫く仕事が来なかったとしてもいい。とりあえず、ひとつのことがはっきりわかっただけでも、五日分の宿便が一気に出たくらいのスッキリ感があったからな」
「なんのことですか?」
早速とばかり、岡田はスマートフォンでスケジュールをチェックしている。もし明日、コンペに参加しないのだとしても、理由を説明し、とにかく関係者各位に平謝りに謝らなくてはならない。
「俺の内縁の妻をあいつが誘惑しようとしてたってことさ。まったく、薄汚ねえ根性の尻なめクソ野郎だ!あの廊下に並んだ趣味の悪い蘭の花は全部、マキに処分させよう。あいつ、あんな程度のプレゼントで、俺のマキがよろめくような安い女だとでも思ったってのか?」
意味がわからないながらも、岡田もようやく(ははーん)と理解できてきた。入江健→マキさんに蘭の花を贈って口説こうとしたらしい→自分に対する嫌がらせとわかり、ボスはイライラ→尻なめクソ野郎はゼニアの高級スーツにシャンパンを食らう……おそらくはそんなところだったのだろう。
「まあ、今回のコンペは、建築デザインを提出した時点で仮に選ばれなかったとしても、その分のお金くらいは出ますが……明日、誰かパリから呼んで、代わりにコンペに参加させますか?」
「いや、いい。ケン・イリエの奴の策略にはまった俺がバカだったというそれだけの話だ。なんにしても、あいつだってあれでクライアントの心証のほうは悪くなっただろうからな。俺としては、入江健の奴のデザインさえ選ばれなけりゃそれでいい」
このあと、ポール・ボキューズの店で食事をし、すっかり気分のよくなった君貴は、翌日にはパリへ向かった。アール・ヌーヴォーとデコ建築のホテルを新しくショッピングセンターに生まれ変わらせるというプロジェクトに携わっているのだが、こちらの進捗状況のほうは概ね順調だった。とはいえ、そのうち何やかや当初のデザイン案では配管がどうの、電気工事がこうのと、必ずどこかで文句が出るだろうとは予期していたものの。
また、この数日後――岡田はインターポールの建築デザイン案が阿藤君貴に決まったとの連絡を受け、携帯を切るなり快哉を叫ぶということになる。どうやら、入江健は自ら辞退したらしいのだが、君貴のデザイン案はテロ攻撃を受けた場合を想定して設計されたものであったため、その点が最も評価された点らしかった。もっとも、君貴は外観デザインについては、オスマン式建築にインスピレーションを得ていたため、その点は多少皮肉と言えなくもなかったが。
「だがまあ、これから細かい点について詰めていかなきゃならないだろうな。今の総ガラス張りの鏡のようなインターポールの建物は、一度中を見学させてもらったが、総務局、連絡・犯罪情報局、法務局、技術支援局……といったように分かれてる。事務総長の執務室と公邸のほうが最上階に設けられるだろうことに変わりはないだろうが、前以上に快適なオフィスで仕事をしてもらうためには、彼らの意見をよくよく聞かなきゃならんだろうし。何分、世界中の警察のトップクラスのエリートしか、インターポールには勤務なんて出来ないわけだからな……」
「まあ、なんにしても明日、もう一度リヨンへ飛んで、まずは直接詫びを入れるとしましょう!」
「そうだな」
またひとつ、長期に渡る案件を抱えることになり――君貴は我知らず溜息を着いた。この間の夜も考えていたのだが、『内縁の妻』などという言葉は、口に出して言ってみると、なんとも女性を馬鹿にしている感じがした。とはいえ、君貴としては「仮にマキと結婚したところで、長い時間を一緒に過ごすことが出来ない以上……今と同じく結婚生活などないも同然の状況であることに変わりはない」としか思えないのだった。そこへ、「女と結婚するくらいなら、おまえと結婚する」と約束していたレオンが、マキと彼女の息子にすっかりメロメロになっているという今の状態がある。
君貴は、秘書の岡田と仕事の打ち合わせののち、彼がホテルの部屋から出ていくと――まずはレオンに電話することにした。ケン・イリエの不気味な蘭攻撃については一応ケリがついたと、教えてやらねばなるまいと思ってのことだった。
『ああ、マキ?まだ仕事で帰ってきてないよ』
「パリと東京は、今七時間の時差があるんだっけか……まあ、それはどうでもいいとして、入江健の奴とは決着がついたよ。やっぱりあいつは俺に対する嫉妬か腹立ちから、マキが俺の内縁の妻だと突き止めて――彼女のことをなんとかしたかったのかもしれん。単にもともと好みのタイプだったのかとか、そういうことはよくわからん。とにかく、あいつには『人の身辺を嗅ぎ回る、薄汚ねえ犬野郎め!』と言ってシャンパンをぶっかけてやったよ」
『へええ……なんだか、劇的な展開だね。じゃあまあ、その点についてはもう心配しなくていいのかな。蘭の花は送られてこなくなったとはいえ、たまにマキが残業で遅くなったりすると、やっぱり心配でね。実はいつもGPSで追跡してるんだー。そしたら、そろそろ駅に到着したなとか、色々わかってやきもきせずに済むだろ?あっ、でもこのこと、マキには絶対言っちゃダメだよ。ストーカーの金髪ブタ野郎とか言われて、ここから追い出されたりしたら困るもん』
「まあ、マキはレオンが『ケン・イリエのこともあるし、マキが心配だったんだ』って言いさえすれば、許してくれるさ。それより、その後どうした?うまくいったか?」
君貴は内心で溜息を着いた。ふたりが最終的にそうした関係になるのだとしたら、むしろ早くそうなって欲しかった。そうすれば、自分は仕事にだけ集中することが出来ると、そう思っていた。
『んー……まあ、僕は気長に待つつもりではいるんだ。マキの心の準備が出来るまでね。あとマキ、次に君貴が来たら、ふたり目のことを彼とも話しあいたいとかって。おまえ、帰り際にマキに何か言ったんだろ?』
「ああ。マキがあんまり可愛いことを最後に言ったもんだから……次に来た時には子作りしようみたいな意味のことは言ったさ。けど、それは単なるマキの逃げみたいなもんだ。レオンが次の女に行くための自分は中継点で終わるとか、何かそんなふうに思ってんだよ。つまり、そんなことでおまえと気まずくなりたくないんだとさ」
『えーっ!?なんだよ、それ。僕なんか毎日、禁欲生活を耐え忍んでるっていうのに。この間もさ、マキがバスルームから出てきたところに行きあっちゃって、あれはほんとヤバかったよ。むしろマキのほうが「あっそう」みたいな、素っ気ない感じなんだ。君貴からもそのうち遠まわしに、僕が理性をすり減らしてるとでも言っておいて。あと、僕のほうでは君貴が帰ってきた時にマキとホテルかどっかへ行ったとしても気にしないし、貴史と大人しくお留守番ってことで全然構わないんだからさ』
「それが、おまえと俺とマキの違いってやつだよ。あいつはたぶん、ひとりの男に対して身持ちの堅い貞淑な女だってことにしておきたいんだろうな。まあ、もし何か進展したら連絡してくれ。何分、レオンとマキがうまくいったとしたら、俺は暫く仕事に集中したいと思ってるもんでな」
『どうだろ。僕も一生懸命がんばってるんだけどさあ。マネージャーが毎日電話かけてきて、何がどうでも僕に仕事させようとするんだよね。あいつ、もしかしてマゾなのかな。自分で仕事取ってきて、僕が渋々受けて、でも渋々だからいつもブツブツ文句言ったりなんだりで、僕の我が儘にうんざりさせられるってだけなのにさ』
「まったく、ご愁傷さまだな」
レオンとアメリカ人マネージャーのルイス・コーディの関係性がどのようなものかを知っている君貴は笑った。(確かにあいつにはマゾヒストの気があるんだろうな)と、ほぼそう確信しているくらいだった。
『君貴は、どう思う?ほら、僕とマキの関係性ってなんか逆転してるだろ?彼女のほうが週に六日、へとへとになるまで働いて、僕のほうが家事や育児をほとんどやってるっていう……マキにとってはそういう男はただ女々しいだけで、やっぱり君貴みたいにバリバリ働いてる男のほうに頼り甲斐を感じるってことなのかなあ』
「それは関係ないよ。マキはただ、経済的なことで俺に頼りきりになるのが嫌だから働いてるっていうそれだけなんじゃないか?住宅費がかからないだけで十分すぎるくらい毎月貯金も出来るとか、そんなふうにしか言わない女だからな。俺はそばにいてやれない分、マキがジャクリーン・ケネディばりに浪費してようと、頬をこけさせるだけで、それ以上何も言えないとしか思ってないんだがな」
『なんだよ、それ!』
今度は、レオンのほうが愉快そうに笑った。
『まあ、ジャッキーも、ケネディが浮気性だったから、お金を浪費することでしか、心にぽっかり空いた穴を埋められなかったんだろうけど……マキはそういうタイプの女じゃないよ。彼女、色んな柄のタンガリー・シャツを持ってるだろ?で、どこそこで半額だったとか言って、大体似たようなのをまた買ってくるんだよ。千五百円とかそこらでさ。あとはそれにジーンズを合わせて毎日出勤してくって感じ。カバンは穴が開くまで同じのを使ってるし、靴も1,980円のが半額だったとかいうスニーカーを洗って履き続けてるんだからな。僕さ、よっぽどそういうの全部捨てちゃって、新しく買ってあげようかと思うんだけど……やっぱり、余計なお世話だと思う?』
「そうだろうな。あいつは自分が貧乏人だってことに、誇りを持ってるんだろうよ。じゃなきゃとっくに俺のほうで『こういうものを着ろ!』と言って着替えさせてるさ。だがまあ、妊娠してマタニティ・ウェアを着るようになってからは、暑い日はワンピースを着たりもするようになったな。まあ、それだって全部、ファストファッションの安物だがな」
『そっかー。僕も変なこと強制して、マキに嫌われたくないからなー。僕は今のところどうにかピアノや仕事から逃げてるけど……ほんとはさ、もしマキと結婚できたら、色々ラクになるんじゃないかと思ってたりするんだ。そしたら、暫く子育てや何かでコンサート活動その他についてはお休みしてるってことで、十分通るだろ』
「そりゃ、マキには別の意味で過酷で耐え切れないかもな。あのレオンさまがご結婚ってことになったら、相手はどんな女性だのなんだの、マスコミに追われることになるだろ?あとは、おまえの狂信的なファンにある日突然刺されるとか……」
『やめてくれよ!あーもう、わかった。結局僕は君貴ともマキとも結婚できない運命なんだろうな。でもそのかわり、今すごく幸せなんだよ。貴史はちょっと機嫌が悪かろうと、オムツにうんちしてようとなんだろうと可愛いしさー、マキは僕のやることなすこと全部やたら有難がってくれて、すっごく優しくしてくれるしさ。だから、そういうのをつい勘違いしちゃうんだよなー。マキもきっと僕と同じ気持ちなんじゃないかな、みたいに』
「まあ、がんばれ。マキには理解できんだろうが、俺はレオンとマキがうまくいって結婚しても構わないと思ってる。俺は建築っていう仕事と結婚してるようなもんだし、それはこれからも変わらないだろうからな」
『あ、でも僕も、マキには言っておいたよ。「君貴は君貴なりに、マキのことを間違いなく愛してる」みたいに』
「俺のことはいいから、おまえは自分のことだけ考えろ。じゃ、そろそろ仕事しなきゃならんから、切るぞ」
――君貴は電話を切ったあと、珍しく重い溜息を着いた。君貴は、マキと同じくらいレオンのことも愛していた。そして、それは彼のほうでも同じなのだろうとわかっている。ただ、君貴にもマキのことはわからなかった。もちろん、自分の体に対するコンプレックスがレオンを拒む最後の防波堤になっているのだとしても……一度その部分を乗り越えてさえしまえば、レオンとの間に第二子が出来るのは時間の問題だろう。
確かに、三人の間でふたりがうまくいき、ひとりが締め出されるのだとしても――それが自分であることに、何故か君貴は安堵してもいたのである。君貴はこれまで、レオンの人生にも、マキの人生に対しても自分は責任があると心のどこかで思っていた。だが、このふたりの心から愛する人間を同時に幸せにすることは不可能だと思っていただけに……マキとレオンが男女としての関係を持ち、幸せになるのだとしたら、ある意味その責任から彼は解放されるということになるだろう。
もちろん、だからとて、胸が痛まないというわけではない。寂しいと感じる気持ちもある。だが、君貴には仕事があった。彼は毎日多忙に過ごしてさえいれば――どんなことに対しても(なんとかなる。どうにか感情を処理して前に進める)自分を知っていた。けれど、こうなってみて初めて、『建築という仕事がいかほどのものか』といったようにも、初めて思っていたのである。
君貴は、建築のデザインをし、それが採用されたとして『じゃ、あとは任せますんで、さようなら』とは言えない仕事の方式を自分自身に課している。ゆえに、『ここをこういうふうに変えて欲しい』、『やっぱりああして欲しい、こうして欲しい』といったオーナーやクライアントの意見を取り入れつつ、現実の工事現場のほうとも折衝し、すべての人間を納得させる方向性で物事を進めていかなくてはならないのだった。
正直、彼自身、自分でも(よくこんなことやってるもんだな、俺も)と、時々失笑してしまうことがある。何分、何かひとつの建物が建て上がる際には、馬鹿高い金がかかるだけに――そうした利権といったものを取り巻く環境に敏感な人間が、より多く利益を得るためだけに、君貴にとっての「純粋な仕事にして、芸術作品」にあれこれ横槍を入れてくることなどしょっちゅうなのである。
だが、今では君貴も、あのままプロのピアニストにならなくて自分は良かったのだろう……と思うことがひとつだけあった。もちろんピアニストにも、オーケストラとの協奏曲など、『ひとつの曲を一緒に作り上げていく』という過程はあるにせよ――建築というのはあまりにも大人数の人間が関わるゆえに、「自分ひとりの力」などというものは極めて小さく、人同士の協力なくしては何もなしえないということ……そのことを身をもって学べたということが、彼にとっては「ひとりの力によってピアノを弾く」ことよりも、人間として大きな器として成長する機会となることだった。
(まあ、元の性格がなんでもひとりでやるのが好きな、人と協力できない器の小さい人間だったという、本人がそのことに気づいてさえいなかったということだからな、俺の場合……)
建築現場には、女性も多少出入りはするにせよ、基本的にはいまだに男の世界、男が主体となっている場所である。君貴は大学時代の夏休み、建築現場で実際にアルバイトしたことがあるが――現場の基礎工事というものが、あれほど体力的にキツく、大変なものだとは思ってもみなかったものである。毎日、朝から晩まで働き、家に帰ればただ寝るというだけの生活……そんな時、君貴がその後どうしたかと、母親としてやはり心配だったのだろう。ボストンでコンサートのあった耀子が様子を見にきたことがある。
おそらくその時彼女は、信じられない光景を目の当たりにして驚いたに違いない。MITの建築科で学んでいることは父親経由で聞いていたとはいえ――息子が灰色の作業着姿で、全体的に薄汚れて見えるだけでなく、そのピアノを弾くはずの手もまた黒ずみ、爪の中まで汚れていたとすれば、無理もないことだったろう。
しかもこの時、建築現場の仲間たちと、彼が話していた内容も悪かった。君貴はその工事現場において、冗談で『先生』と呼ばれていた。今はアルバイトの下っ端でも、いずれ大学を卒業した頃には自分たちを顎でこき使うんだろうな……よう先生、といったような意味で、『先生』と呼ばれ、からかわれていた。
『先生は、女のほうはどうなんだい?その顔じゃ、さぞやおモテになることじゃないのかね』
『いや、二年くらい前に振られて以来、もう女はこりごりだと思って……』
ここで、5~6人の男たちの間から、ヒュウヒュウと口笛が吹かれた。君貴自身は、こうした多少馬鹿にされるような空気が、決して嫌いではなかったのだ。むしろ、慣れてくると居心地いいくらいだった。何より、女がいないという職場環境が、彼にとっては楽しいものだったといえる。現場の他の作業員のほぼ全員が、その逆のことを考えていたにも関わらず。
『なんだね?先生くらいの色男でも、振られることがおありになるのかい?』
『そりゃ、その女の頭がおかしかったんじゃないか?俺たちの先生を振るだなんて、たぶん脳味噌にキノコでも生えてたんだろうよ』
『それで、何が原因で振られたのか、俺たちの後学のために教えといてくれませんかね、先生』
『その子がヴァージンじゃなかったから、俺のほうからフッたのさ』
君貴ももう、自分が何をどう言えば受けるか、わかっていた。それで、そんな言い方をしたのだが――思ったとおり、その場にいた全員が大爆笑していたものである。
もっとも、母親がそんな会話を聞いているとあらかじめ知っていたならば、君貴もそんなことを言ったりはしなかったろう。建設現場の人間=体力自慢の荒くれ者……といったイメージが強いかもしれないが、実際は見た目はどうあれ、気のいいおじさん・兄ちゃん連中ばかりだったのだが――『適度に経験のある女のほうが俺は好きだね』、『先生にとっちゃ、結婚する時にはヴァージンっていうのは絶対条件なのかい?』だのと、彼らが引き続き煙草やコーヒー片手にしゃべり続けていた時のことだった。
『君貴っ!あんた、こんなところで何してるのっ!?』
突然、上品な雰囲気の、ブランド物の服に身を固めた女性が間に割り込んできたもので、一同は一瞬唖然としていたものだ。それでも、君貴が(あ~もう、やめてくれ……)といった顔で天を仰いでいるのを見、誰もが彼女と彼の関係性について理解したようだった。
結局このあと、工事現場の外で、君貴は自分の母親と大喧嘩した。『こんな小汚いアルバイトでもしないと、生活していけないのっ!?』といったことにはじまり、『あんたはピアニストになるんでしょ?それなのに、その泥で汚れたような手は一体なんなのよっ』、『母さん、あんたにこんな惨めな仕事をさせるために、今まで苦労して育ててきたんじゃないわっ!』などなど、前から、顔を合わせたとすればそう言うだろうと君貴にはわかっていた言葉のオンパレードだった。
対する君貴も負けてはいなかった。『俺は人間を職業で差別するような奴は嫌いだ』ということにはじまり、『そりゃあんたは、ここまで育てたあんたのコピーのようなピアノの才能が惜しいのかもしれない。だが、ピアノのために家で料理もしないような女の生き方がそんなに偉いのか!?』、『これが本当の人間の労働ってもんだ。一生そんなことも知らずにピアノだけ弾いてる生活なんか、俺はもう真っ平ごめんなんだよっ!!』――最後にトドメとして、『とにかく、俺はあんたが北極の氷を斧で全部打ち砕こうがどうしようが、もうピアニストにはならない。そのことがわかったら、とっとと帰ってくれ!!』……この時の、母・耀子が浮かべた顔の表情を、君貴はこれから先も決して忘れることはないだろう。
いや、無表情というのではなく、顔から表情がなくなるというのは、ああした顔のことを言うのだろうと思った。耀子はショックのあまり蒼白となり、次の瞬間には震えだしていた。まだ7月のことだったが、彼女はもしかしたら君貴の言葉通り、心は北極にいたのかもしれない。
『あんたかなんか、もうわたしの子じゃないわ……うちの実家の敷居を跨ぐようなことは、今後絶対許しませんからねっ!!』
今度は、流石に君貴も言い返す気になれなかった。自分の母親があまりにも憐れだったし、すでに言い過ぎたと思い、反省してもいたからである。
こうして、実際には性格的によく似たこの親子は、仲違いして以降、二度と会ってはいない。もっとも、父親からは時折連絡があったし、姉の美夏の夫の安藤修司とは、君貴は昔から仲が良かった。また、弟とも電話で話すことがあるため――家族全員と絶縁状態というわけではなかったにせよ、君貴は自分の母親とはすでに十年以上にも渡って口も聞いていなかったのだ。
けれど、厄介なことには、一度自分に子供が出来てみると……以前から『自分は親不孝な人間だ』との思いはあったものの、よりその反省の気持ちが深まり、貴史の顔を見るたび、君貴は何故か母親のことを考える機会が多くなった。とりあえず、君貴は自分の息子にピアノを教え込むつもりはない。教養程度に教えれば十分だろう、といったように思っているが、阿藤家には音楽の分野で傑出した才能を持つ人間が多かったため、遺伝的な意味で(それで本当にいいのだろうか)と迷う部分もあった。
『君貴のお母さんはすごいね』
阿藤耀子のピアノ・リサイタルを見てきたあとで、レオンはそう言っていたことがある。
『日本で大きなピアノの賞を取った時……天才美少女ピアニストなんて騒がれてたのに、すぐヨーロッパに渡っちゃったんだってね。ほら、耀子さんは背も低くて、日本人の中でも小柄なほうじゃない?だから、世界に通用するくらいの力強い演奏技術を身に着けるために、一からピアノの弾き方をそのあと矯正したんだよ。血を吐くような、地獄の苦しみだったろうね。ほら、一度ついたコンクールで賞を獲るためのピアノの弾き方っていうのは、早々簡単に直せるものじゃないからさ』
他に、『その頃、君貴のお父さんもヨーロッパにいて、耀子さんがパリ、お父さんがイタリアにいたりすると――大体その真ん中あたりで落ち合ってデートとかしてたんだって』などと、君貴すら知らないことを言ったため、彼は当然『何故そんなことを知ってる?おふくろから聞いたのか?』と尋ねた。実はレオン・ウォンと阿藤耀子は音楽雑誌の対談などを通して知りあい、今ではお互いのメールアドレスまで知っているくらいの仲だったのである。
『それはね、耀子さんの本を読んだからだよ。って言っても、耀子さんが書いたわけじゃなくて、インタビューで聞いたものを本の著者の人があとからまとめたみたいな感じのものだけどね。そういえば、君貴のことも書いてあったよ。三人いる子供の中で一番才能があると思ったから、一番厳しくピアノを教えこんだって。でも、それが仇になってピアノをやめた時は残念に思ったけど、今は建築家の息子を誇りに思ってる……みたいな内容だったよ』
もちろん、君貴にはわかっている。レオンはおそらく、『小さい時にお母さんが死んじゃった僕より、今も生きてる、あんなに素晴らしいお母さんがいるだけでも君貴は幸せなんじゃない?』と、遠まわしにそう言いたかったのだろう。
姉の美夏には、現在ふたりの男の子がおり、弟の崇にも、よく出来た嫁との間に三人も子供がいる――だから、今孫がもうひとり増えたところで、母は大して喜びもすまい……君貴はそう思っていた。だがもし、姉の美夏も弟の崇も音楽家として芸術に身をすりへらすあまり、今も結婚していないか、あるいは結婚していたにせよ、子供がなかったとすれば――十年以上も昔に喧嘩したことも忘れ、自分は両親に孫の姿を見せにいったろうとは、君貴にしても思うのだ。
(そして、その時には俺も、『二度と実家の敷居は跨ぐなと言ったでしょ!』と言われようとどうしようと、『赤ん坊の顔に免じて許せや』といったようにしか思わなかっただろうな……)
レオンの言っていたとおり、君貴は彼なりにマキのことを愛していた。貴史と彼女のことを連れて、一度両親に会わせるべきかと考えたこともある。若かった頃は特に、『あのままプロのピアニストになるより、自分は絶対有名な建築家になってやるぞ!』くらいの思い上がった気持ちというのは、心のどこかにあったに違いない。けれど、最近君貴が思うのは全然別のことだった。実の息子に会ってもろくに相手すらしないにも関わらず、『自分の子が生まれた』ということは、君貴をして彼の人生や生き方そのものに、大きな影響を与えることだったのである。
たとえば、今から二十年して貴史が大きくなった頃……どんな景観の街並みなら、彼が「理想的」と感じたり、「幸せ」を覚えたりするだろうと、君貴は最近、かなり先の未来から現在を見て、都市計画的なものを俯瞰的に考えることさえあった。そして、そんなことを考えながら、今から五年後、イギリスで開催される予定の<SFパビリオン>の建物の設計をし――それからマキのことを思った。
君貴は近ごろ、仕事で疲れて帰ってくると、単に自分が癒しと安らぎが欲しいと感じているだけであることに気づいていた。それから、(自分も年をとったってことなんだろうな)と感じる。ほんの三年ほど前、マキと出会った頃、彼は三十七歳の独身男性が大抵そうであるように、自分はまだ二十七くらいだ……といった年齢感覚で生きていた気がする。けれど、子供が出来た途端、実年齢がイコール本当にそのままの年齢、といったように追いついてしまったのである。
それから、今ごろになって(ケン・イリエにも悪かったな)と、君貴はふと思った。マキのことを利用しようとした彼のことは許せないが、それでも納得した形で仕事が出来ず、フラストレーションが溜まっていたところに、妻との離婚といったことまで重なってしまったのかもしれない。しかも、君貴は彼の離婚理由については、手に取るように理解できた――おそらくは忙しすぎて、家庭を顧みているような余裕もなかったのではないだろうか?
そうした意味では、自分も彼と同じ穴のムジナだ……という気がした。さらには、次に会った時には自分からあやまってもよいといったような寛容な心持ちにさえなっていたのだから不思議なものである。そして、彼自身、以前はなかったそうした心境をもたらしたものが何なのか――この時はっきり自覚してもいたのである。
>>続く。