大阪・京橋 カンタービレ声楽教室のブログ

レッスンの話題を中心に書いています。

教えること、学ぶこと

2015年12月07日 | 音楽
マニフィカ カンタービレ声楽教室



カンタービレ声楽教室も産後2年間のお休みを含めて考えると8年、でもその前から個人的に教えていたので、「先生」と皆さんに呼んで頂くようになってそこそこの年数を経たなと思います。

声楽という世界に足を入れたことを考えると…人生の半分以上の年数を越しちゃってるなー(苦笑)

産後、教室を再開してからというもの、自分の歌に関して大きく色々なことが変化しました。

2015年より前から始まったことでしたが、ここ一年は特に自分の心の中に大きなことが起こりました。

自分の歌が変わるということで、基本的な考えが変わった訳ではありませんが、教えることについても見えてくることが拡がったように思います。



そんな中で時々「教える」ってなんだろうなーとふと考えます。

私はHPにあるように、「その方が自由に歌えるお手伝いをしたい」、その気持ちが変わったことはありません。

ただ、私の思うその方の「自由」と相手の方の思い描く「自由」の形は往々にして違うことがあると思うのです。



どちらかが正解で、どちらかが間違いとは思わないのですが、「レッスンする」という時に私が伝えられるのは私自身の中にあるものだけな訳です。

では、その私の中の物ってどういう時に伝わるのかというと、生徒さんが受け止めてくれる時、とも言えるんですよね。

もちろん、「私が伝わるように伝える」っていうことを忘れている訳ではないですよ。

だけど本当に思うんです。

受け止めて下さるから、なんだなと。



このニュアンス、伝えられているかなぁ…。



私も先生歴より生徒歴の方が長く、生徒の立場にもなるから言うんですが、一度まな板の上の鯉になることが大事なことの一つというか。

本当に目の前の先生の持つ何かを得たいと思うのなら、まずは得た物を飲み込む前に取捨選択するのではなく、全てを飲み込む。

これが必要だと思うのです。

だって、今の自分にはいらないものに見えても10年後の自分には必要なものかもしれませんよね?

だから今の自分が判断するのではなく、とにかくストックしておくんです。捨てないで。



これって、できる人には簡単かもしれませんが、できない人には結構な壁だと思います。

まな板の鯉って腹の中も見せろって言っているようなものですからね。

だけど、特に表現することを生業にしようという方には絶対に必要だと思います。

先生に見せられない人が舞台でさらけ出すことができるのでしょうか?

受け取れない人が観客の心を得ることができるか、という風にも言えないでしょうか?



生徒としては相手を信頼することが必要ですし、逆に信頼できない先生からは、その先生がいくらえらい先生であっても、得る物は少ないか全くないと言っても過言ではないかもしれません。

逆に先生という立場で考えると、受け止めてくれないと何も伝えられません。



なので、意外と「先生」というものは何もできないものなのかもしれません。

生かすも殺すも「生徒」次第かと。

(余談:「自分の先生を選ぶ」というのもすごく大事な作業ですが、これも「生徒次第」ですよね。)



それでも考えるのは、信頼したくなる、受け入れてみたいと思わせるような何かのきっかけを産む先生にはなれるかもしれないな、と。

自分自身の歌が変わってきてものすごく前進しているんですが、その中でこういうことを考えさせられる出来事があり、先日、娘に相談したのはこのことだったんですが(もちろん噛み砕いて話しましたよ)、結局ここに戻ってくるんですよ。

歌うしかないって。(そう、だから娘はものすごく私を分かってくれている。)

あ~、歌って私の人生を作ってくれている。大好きだ~っ!



生かすも殺すも生徒(私)次第って言葉は皆さんに書いているようだけど、自分に言っています。

もっともっと自分は歌えると思っていて、とにかくこの欲が半端ないです。



と、たまにこんな熱くて真面目なことも考えているのですが、レッスンではとにかく楽しく歌いましょうね!




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