さりげなさ
というのがいいですね
大げさ
というのは
さりげなさの反対だけれど
つい
人間というのは
大げさに
自分をふりむいてもらいたくて
色々いったりするでしょ
何だ何だ
とおもってきいてみると
あんまり内容が
なかったりする
自分が充実して
たしかに生きているなと
おもえる瞬間が
ないんですね
いそがしすぎるんです
たしかに
自分が生きてる
というより
時間に追われて
生きてるっていう
感じですよね
だから
今の世の中で
じっくりとさりげなさが
いいなあ
と感じるゆとりを持ってる
人は
すくないんです
けれど
その人が
感じるとか感じないとかより前に
さりげなさってのは
いのちのすがたの本質
なんですね
いのち
というものを
考えてみると
いのちそのものは
何の自己主張も
しない
ただ
あるがままに
そのすがたのままに
ながれてゆくんです
〝逝く河の流れはたえずして〟
っていう
あれですよね
草にしたって
樹にしたって
みずからの声を
あげずに
そのままの
自分自身のすがたで
すっと立ってるでしょう
ああいうすっきりした
いさぎよさ
というものが
ひとつの
いのちの本質なんです
ながれのままに
というと
自己がないみたいだけれど
そうじゃない
草花なら草花
樹なら樹は
自己のすがたをしって
そして
そのすがたのまま
すなおに
生きてるんです
だから
すっきりした
いさぎよさを
ささえているものは
さりげなさなんですよ
自分のいのちのすがた
というものを識ってるんです
だから声高にならない
なる必要がないんです
本当は
人間だってそうなのです
もともとが
神様からわかれてきた
いのちですから
自分のいのちというのが
自分の想いにかかわりなく
本来
さりげなく
すっきりしているものなんだ
ということがわかると
こんな楽なことはないんですけど
なかなかそうはいかなくて
苦しむ
しかし
それはみなさん自身が
苦しむのではなくて
過去世からの
みなさんのおもいが
あらわれて
消えようとするときに
苦しむんです
だから
自分自身(本体、本心)は
ちっとも苦しんじゃいないんです
ですけど
永年の習慣で
そんな風には
おもえないから
いかにも自分が苦しんでいるように
感じてしまう
実際
色々なことが
生活してると起こったり
ふりかかったり
してきますからね
だけど
そのおもいに
とらわれていたら
いつまでも
おんなじ所を
ぐるぐる廻ることになるんです
そうすると
せっかく
本来のいのちの相(すがた)というものを
持ちながら
いつまでも
それが発揮できずに
おわってしまう
いのちというものが
人間というものが
本当は
どういうものなのかが
わからないままに
おわってしまう
こんなもったいないことはないですよ
そこで
いのちや人間の
本当のすがたというものを
我々が
無理なく悟ってゆく
しってゆくために
世界平和の祈りというものが
できたんです
世界平和の祈りのなかに
自分を入れてみると
まず
時間に追われている
自分
あくせくとこの世に
生きている自分
ではなくて
その自分のおくにある
しずかな
祈りたがっている
本当の自分をしりたがっている
こころ
というものに
気づいてゆくのであります
そしてさらに
この自分がどこからきて
どこへ行こうとする存在なのか
自分のいのちの
ありか
といいますか
居場所
といいますか
その出発点をしらされて
そしてだんだん
自分が光明体なんだ
ということを
祈りのうちに
しらされてゆくのであります
つまり
自分のふるさとが
神であり
我々は
そこに帰ってゆくのだ
ということを
祈りのなかで
たしかめてゆくことに
なるのであります
いのちの相を
あきらめて(明らめて)ゆくもの
それが
祈りだということができるでしょう
世界平和の祈りを祈って
ゆくと
自分がかがやいていること
明るいことがわかってくるんです
心うれしくなってくる
何もいわなくても
満たされてくるんです
いのちの自然な相へかえるんです
さりげなく祈るということが
光になることだと
誰に教えられるわけでもなく
心にしみ込んでくる
そういうことなんです
平成2年1月12,13日
というのがいいですね
大げさ
というのは
さりげなさの反対だけれど
つい
人間というのは
大げさに
自分をふりむいてもらいたくて
色々いったりするでしょ
何だ何だ
とおもってきいてみると
あんまり内容が
なかったりする
自分が充実して
たしかに生きているなと
おもえる瞬間が
ないんですね
いそがしすぎるんです
たしかに
自分が生きてる
というより
時間に追われて
生きてるっていう
感じですよね
だから
今の世の中で
じっくりとさりげなさが
いいなあ
と感じるゆとりを持ってる
人は
すくないんです
けれど
その人が
感じるとか感じないとかより前に
さりげなさってのは
いのちのすがたの本質
なんですね
いのち
というものを
考えてみると
いのちそのものは
何の自己主張も
しない
ただ
あるがままに
そのすがたのままに
ながれてゆくんです
〝逝く河の流れはたえずして〟
っていう
あれですよね
草にしたって
樹にしたって
みずからの声を
あげずに
そのままの
自分自身のすがたで
すっと立ってるでしょう
ああいうすっきりした
いさぎよさ
というものが
ひとつの
いのちの本質なんです
ながれのままに
というと
自己がないみたいだけれど
そうじゃない
草花なら草花
樹なら樹は
自己のすがたをしって
そして
そのすがたのまま
すなおに
生きてるんです
だから
すっきりした
いさぎよさを
ささえているものは
さりげなさなんですよ
自分のいのちのすがた
というものを識ってるんです
だから声高にならない
なる必要がないんです
本当は
人間だってそうなのです
もともとが
神様からわかれてきた
いのちですから
自分のいのちというのが
自分の想いにかかわりなく
本来
さりげなく
すっきりしているものなんだ
ということがわかると
こんな楽なことはないんですけど
なかなかそうはいかなくて
苦しむ
しかし
それはみなさん自身が
苦しむのではなくて
過去世からの
みなさんのおもいが
あらわれて
消えようとするときに
苦しむんです
だから
自分自身(本体、本心)は
ちっとも苦しんじゃいないんです
ですけど
永年の習慣で
そんな風には
おもえないから
いかにも自分が苦しんでいるように
感じてしまう
実際
色々なことが
生活してると起こったり
ふりかかったり
してきますからね
だけど
そのおもいに
とらわれていたら
いつまでも
おんなじ所を
ぐるぐる廻ることになるんです
そうすると
せっかく
本来のいのちの相(すがた)というものを
持ちながら
いつまでも
それが発揮できずに
おわってしまう
いのちというものが
人間というものが
本当は
どういうものなのかが
わからないままに
おわってしまう
こんなもったいないことはないですよ
そこで
いのちや人間の
本当のすがたというものを
我々が
無理なく悟ってゆく
しってゆくために
世界平和の祈りというものが
できたんです
世界平和の祈りのなかに
自分を入れてみると
まず
時間に追われている
自分
あくせくとこの世に
生きている自分
ではなくて
その自分のおくにある
しずかな
祈りたがっている
本当の自分をしりたがっている
こころ
というものに
気づいてゆくのであります
そしてさらに
この自分がどこからきて
どこへ行こうとする存在なのか
自分のいのちの
ありか
といいますか
居場所
といいますか
その出発点をしらされて
そしてだんだん
自分が光明体なんだ
ということを
祈りのうちに
しらされてゆくのであります
つまり
自分のふるさとが
神であり
我々は
そこに帰ってゆくのだ
ということを
祈りのなかで
たしかめてゆくことに
なるのであります
いのちの相を
あきらめて(明らめて)ゆくもの
それが
祈りだということができるでしょう
世界平和の祈りを祈って
ゆくと
自分がかがやいていること
明るいことがわかってくるんです
心うれしくなってくる
何もいわなくても
満たされてくるんです
いのちの自然な相へかえるんです
さりげなく祈るということが
光になることだと
誰に教えられるわけでもなく
心にしみ込んでくる
そういうことなんです
平成2年1月12,13日