宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

老人の生き方について

2012-10-01 08:23:02 | 祈り
 (問)老人の生き方についてお尋ねします。


 (答)この頃は、若い人があんまり長く
生きたくないとか言う人が多いですよ。
 誰かさんもどこかでそんなことを言ってた
けれども、何で生きたくないかというと、
どこかでね老醜を晒すという恐怖、それから、
体が弱くなってくるという、それを認めて
いかなくてはならないでしょう。老いる
ということはそういうことですよね。

 老いるということは、体力的な気力的なものの
衰えというものを認めてゆかなければならない。
 つまり、記憶もなんか悪くなってきたとか、
そういうマイナスの部分を認めてゆかなければ
いけない。だから切なさとの戦いですよね。
 本当にそうなんです。60になったら60に
なった途端全部忘れてしまっちゃって、今
聞いたこと全部忘れちゃって、又最初から
読まなけりゃならない、人の話も又最初から
聞かなけりゃ分からないというように
なるんですよ。本当にそうなるんですよ。
 70になったらもっとひどくなるんですよ。皆
そうなんです。で、その一つ一つがね、自分に
とって恐怖なんですよ。

 又、老いると、人を容れるという寛容の心が
失せてしまう訳で、その寛容でなくなる
というのは、これはその人の性格というよりも、
その人の生きて来た年令がもたらす生理的な
もので我慢できない。気を長くしようと思っても、
その人のその時の体力とか生活状態とか色んな
ことで、生理的にもう我慢ができなくなって人を
怒鳴っちゃうとかね、そういうことがあるんです。
 そういうものが正しく自分自身である
という風に、ある一瞬間でも見なければならない。
 それが随分辛いんですよね。それが恐怖に
なってゆくんです。それは60に70に
なった人が恐怖だというよりも、20代でも
30代でも40代でもですね、ああこの辺が我慢
できなくなっているなっていうことになると、
人間って愕然となるものですよね。結局のところ
そのあたりのことなんですよね。それでは、
生きてゆく限り皆老人になっていく訳ですから、
老いていくということをどういう風に考えて
生きて行くかということはこれは永遠の課題
なんです。
 けれどね、生きるということは結局、生かされ
ているということなんですよね。自分が生きる
というよりも万物に生かされているというね、
その生かされているところへ自分の意識をもって
いくと、それが全部感謝に変わっていく筈
なんですね。
 祈りによって感謝になってゆく。とても感謝
しきれない事もあります。悔しい事も情ない事も
生きている内に色々ありますよね。ただ感謝
しなけりゃいけない、いけないいけないと思って、
無理に感謝していくと今度は病気になりますよね。
 ですから、私がそのまま悔しい事悲しい事を
お祈りの中へ入れなさいと言うのはね、
ありがとうございますと言うのが言い難い、
言い難ければ、それはそのままで、五井先生
お願いします神様お願いしますと言えば、守護の
神霊がそのまま祈って下さる訳ですから。

 若い時には、あの祈りは大調和の祈りですから、
ああいいなあと思っている。ところが、歳を
重ねる毎に、あの祈りは難しいなあと思う筈
なんですよ。つまり、すべてにありがとう
ございますでしょう、ありがとうございます
どころじゃない気持ちの人達がね、世の中に一杯
いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、息子と
うまくいかない、孫が自分と離れていく、子供が
自分の思うような方向にいかないと、自分が
生きて来た人生は何だったろうと思う時にね、
ありがとうございますとはなかなか言えない
訳でね、そのありがとうございますと言えない
部分が増えてゆく訳ですね。だけれども、それが
何故そうなってゆくかというと、その人が生きて
段々歳を重ねていって、人生というのは一面から
観れば、喜びや楽しみよりも何か寂しさと
悲しみの方が多いということを、自分の経験で
知っていく訳ですよね。
 ですから、その経験で計る以上は、何となく
虚しい寂しいのそっちの方が勝って、なかなか
ありがとうございますと言えなくなるんです。

 ですけれども、そこでじゃあどうしたらいい
のかというと、それでも生命というのは生きる
事を止めないという、その事実なんですよね。
 みんな生命というものは、一つとして、
この人の生命は要らない、この草木の生命は
要らない、この大地の地球霊王の生命は要らない
というものは何一つとしてないんですよ。神様の
目から観ると。この人は有用で尊い高い魂だから、
こういう人には生きててもらわないと、優れた
人を見ると皆そう思いますよね。ですけれども、
黙って意見も言わないような、居るか居ないか
分からないような人を見ていると、なんか尊敬
する気にもなれないし、その人が何十年も
生きていると、何をうすぼんやり生きているん
だろうと、別に残酷な意味ではなくても皆
思うんですよ。ところがね、こっち側から観て
いますと、さっきの話の続きじゃないけれど、
やっぱり誰一人として神様の光を出さない人間
なんていないんですよね。そういう人程ね、
つまり、何も主張せずぼんやり生きているように
見えるけれども、その中の火は燃えているという
ような人、その人程本当に素直に生かされている、
生命のままに流れのままに生きるということに
なるんです。

 老人が生きるのが何で難しいかというと、
そこの所に鋭さが鈍くなっていませんとね、
自分の経験によって生きて来た世界によって、
虚しさの方が多いじゃないかと観てしまい
ますからね、そこで負けてしまうんです。その
自分の経験の中に引き込まれちゃうんです。で、
それを跳ね返す力が弱くなるんですよね。
 ところが老人というのは、人間世界から観た
年令のことであって、これが魂の側から観れば、
魂の古い新しいはありますが、しかし、生まれて
くる生命の中には古い新しいというものは無い
訳です。みんな同じ資質といいますかね、神の性
といいますか、違いはありますが、そういう
ものを持って生まれて来ているんですよ。
 だから、この世的に60になろうが70に
なろうが、その人の魂が、やっぱり自分は
生かされてる、体が動かなくても、何かしたい
何かやりたい何か役に立ちたいという風に思って
いる限りは、その人の魂は若いんですよ。
 ただ非常に難しいのは、老人というのは、
我というのが強くなるんですよね、自分の
生きて来た経験ではこうだからこうじゃないか、
これは間違っている、これはおかしいと思うん
ですよ。無理はないんですけれどそうなんです。

 それがね、それが人間の我だって気づいて
それを直してゆくということは、なかなか
難しいんですよ。
 それが凝り固まってゆくと意固地になり頑固
になり、喧嘩ばかりしているというようになる。
 そこに、自分一人じゃない、自分は生かされて
いるという想いがあるということになってくれば、
自分だけの世界に閉じこもらないで、歳とっても、
もっと広い神様佛様の光の世界があるということ
になってくれば、本当に生命が朗らかになって
くるんですよ。だから何も宗教だけがいい訳じゃ
ないんです。広い意味で、いい音楽を聴いても
いい絵を観ても、いい本を観て感激する感動する
ということは、それだけ心が若くなって心寛やか
になってくる。それは宗教と同じ、根は同じ
なんですよ。

 皆さん縁あって白光を知り五井先生という人に
出会って、そこから神様という階段を昇り始めた
人達というのは、それで尚かつ歳をとっている人
というのは、何に気をつけなければいけないか
というと、自分が素直になるって事と我を出すっ
ていう事の違い。そこを区別してゆくのはとても
難しいけれどね。素直になるというのは、ただ
単に自分の思うように生きたらいいというもん
じゃないんです。これは若い時から気をつけ
なければいけないんだけど、思うようにそのまま
生きていったら皆我が儘になるんですよ。

 神様の流れのままに生きるということは、私は
よく書きますけれど、その神様から来る流れの中
では色んなものがあるんです。調和している
ものもあれば、一見して不調和のものもある
訳です。大波小波もある訳なんです。だから、
流れのままに生きる事は、その大波小波に覚悟
していけますよという、そういう事なんですよ。
 そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈して
いると、悪いとみえるような事があった時に、
何で神様がいるんだろう、何で佛様がいるん
だろうになっちゃうんです。ところが、その流れ
というのは、本質的には人間を良くしよう、
もっと調和させてやろうという神様の心
ですからね。それに本当に乗っかって任せきって
いればですね、必ず光も送るし、必ず道が
開けるんですよ。そこの所で、ああ本当に私は
生かされている、本当に祈りがある、本当に
ここで任せて任せて任せ切っていったら、自分の
生命が開くんだっていう風に信じ切って
下さればね、そこで人間の持っている老人の
持っている我なんて、ふっ飛んじゃうんですよね。
 70幾つの人が生きてる、60幾つの人が
生きてるというよりも、その人の天命自身が
輝くんですよ。

 ですから、素直になるっていうのはね、
あくまで神様に素直になるという事であって、
自分の我がでてくるという事じゃないですよね。
 ただそれだけに私生活が非常に難しい。
 だから、自分が非常に腹が立ったり切なかっ
たりした、そういう気持ちを味わった時に、
まてよこれは私の我なのかなあ、それとも神様
から来ている流れの中で覚悟しろということ
なのかなあ、ということを考えながら、
世界人類が平和でありますようにとやってゆくと、
お祈りの中にこめられてる愛念がですね、
そりゃあお前さん我だよとか、そうじゃない、
そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して
受けなさいって事は、後ろが教えてくれますよ。
 自分が考える事じゃないですよね。後ろが
教えてくれますから、自分が想い悩み始めたな
と思ったら、とに角、祈って、五井先生に聞いて
神様に聞いて、これどっちなんでしょうと、
こっちに預けてくれたらですね、こっちが
ものすごく知らせやすいんです。

 それを皆預けきらないものだから、これはどう
なんだろうか、ああなんだろうかと想い悩んで、
あれはおかしいこれはおかしいとなっちゃうん
です。あれはおかしいこれはおかしいという事は、
神様の世界には一つとしてないんですよ、完全
ですからね。ですから、あれはおかしいこれは
おかしい、これは苦しいですよ先生、という時
にはこっちへ駆け込んで来ればいい訳なんです。
 まだみんな駆け込み方が足りないんです。

 そういう事ですから、若者も老人も
ひっくるめて、生命に素直になって生きるって
いうことは大変なことですけれど、そこを
目指して、光に満ちた人が出来上っていくように、
こっち側から応援していますから、そんな風に
生きていってもらったらと思います。