(問)入信10年20年30年表彰に
ついてですが、宗教の世界での表彰という
ことはいかなる意味があるのでしょうか。
(答)まあ人間というのは誉められたら
嬉しくって、貶されたらこの野郎って想う
のが人間でね。ただ一つの、何か白光なら
白光というものを信じて、おめでとう
ございますというのはおかしな話なんですね。
10年であろうと5年であろうと1年
であろうと、変わりはないんですよ。確かに
変わりはないんです。
ところが、何か人間というものの性格の中
には、例えば5年とか10年とかいうのは
一つの区切りでしてね。そこで大きな変化が
あっても無くても、人に誉められ
なくてもですよ、そこで10年来たなあとか、
どこかで振り返ると。
例えば、20の人が30になった時にね、
やっぱりああ30になったなあという感慨が
あると思うんですよ。そこでやっぱり
振り返るんですよね。その振り返る時に、
自分の一人だけの想いに浸るとか、自分勝手に
一人よがりに振り返るというのは、なかなか
人間って弱いんですよね。出来にくいんです。
しかも信仰なんていうものは、それぞれ
神様の話をしても、幽体霊体は別として肉体の
世界に生きている我々だったら、色んな生活を
している人がいますし、色んな環境に生まれて
いる人があるから、神様は愛ですよと
言ったって、愛の受けとり方が人によって
違うんですよ。愛ですよと言ったってなあ
と思う人だっているし、そりゃあその通りだ
と思う人だっているし、その人の状況によって
皆違うんですよね。
それでもみんな、白光はいいなあと信じて
下さって、あるいは他の宗教でもいい
ですけれど、そこで何年か来た時に、自分の
信仰の歩み、自分が神様というものに出会って
何年か来た、そういう事に対する一区切りが
来た時に、こちらの方からああ10年
経ちましたねご苦労様という、あるいは
表彰状は出さないけれども、1年経ちました
ご苦労様、50日経ちましたねご苦労様
というのは、こっちから幾らでも言って
いるんですよ。毎日言っているんですよ。
でもそれで表彰状を出していたら、紙が幾ら
あっても足りません。白光が破産しますからね。
一応5年なり10年なり区切りをつけて
どっかで振り返りたいと思う時に、あんな時に
拍手なんかされたら面映ゆいし気恥ずかしいし、
そんな事いやだと思う人は沢山いるしね、又
そう思う人の中にも、自分なりに10年
振り返り、表彰状をもらわなくても、ああ俺も
10年だなあ、私も10年だなあ20年だ
なんていう人も一杯いると思うんですよ。
要するに、自分が神様に出会って、その後
どうだったかというのを振り返る場合に、自分
一人で振り返るというより、ああいう中で
皆の中で振り返ると何がいいかというと、皆の
守護霊さんが一緒になって祝福しますからね。
本当にそうなんです。あそこにいる人たち
だけじゃなくて、それこそ白光の一万何千人の
人達の守護霊守護神さんね、その人達の
ご親族や、本当世界人類の守護霊さんが、
良かったですね一区切りですね、〇〇さん
ご苦労様でしたというのを後ろが言うんですね。
後ろが言って励ますというね。それは別に
聖ヶ丘に行かなくても、表彰を出さなくても、
こちらから幾らも言ってますし、あの人は
10年だなあ、この人は20年だなあ、
次の年で10年だなあと判る訳です。こっち
からは。誰かさんみたいに出さなくっても、
あそこに行った人も行かない人も、皆
同じように、守護霊さんが皆寄って良かった
ですねと肩をたたいている訳ですね。
人間というのは、ああいう中で拍手されると、
ああ自分も来たか、こんな晴れがましい
所だけど、という想いが湧きあがって、又
新たに神様の愛の下やっていこうという
区切りがつきますよね。そういう意味で、
励ますという意味であって、10年の人を
30年の人を特別にして、その人達だけが
おめでとうじゃないんですよ。一日の人だって
おめでとうございますですよね。本当に
そうなんです。ただ、そうやっていたら、皆が
みんなやっていたら本当にどうにもならなく
なっちゃうんで、ああいう形にしてあります
けどね。
ついてですが、宗教の世界での表彰という
ことはいかなる意味があるのでしょうか。
(答)まあ人間というのは誉められたら
嬉しくって、貶されたらこの野郎って想う
のが人間でね。ただ一つの、何か白光なら
白光というものを信じて、おめでとう
ございますというのはおかしな話なんですね。
10年であろうと5年であろうと1年
であろうと、変わりはないんですよ。確かに
変わりはないんです。
ところが、何か人間というものの性格の中
には、例えば5年とか10年とかいうのは
一つの区切りでしてね。そこで大きな変化が
あっても無くても、人に誉められ
なくてもですよ、そこで10年来たなあとか、
どこかで振り返ると。
例えば、20の人が30になった時にね、
やっぱりああ30になったなあという感慨が
あると思うんですよ。そこでやっぱり
振り返るんですよね。その振り返る時に、
自分の一人だけの想いに浸るとか、自分勝手に
一人よがりに振り返るというのは、なかなか
人間って弱いんですよね。出来にくいんです。
しかも信仰なんていうものは、それぞれ
神様の話をしても、幽体霊体は別として肉体の
世界に生きている我々だったら、色んな生活を
している人がいますし、色んな環境に生まれて
いる人があるから、神様は愛ですよと
言ったって、愛の受けとり方が人によって
違うんですよ。愛ですよと言ったってなあ
と思う人だっているし、そりゃあその通りだ
と思う人だっているし、その人の状況によって
皆違うんですよね。
それでもみんな、白光はいいなあと信じて
下さって、あるいは他の宗教でもいい
ですけれど、そこで何年か来た時に、自分の
信仰の歩み、自分が神様というものに出会って
何年か来た、そういう事に対する一区切りが
来た時に、こちらの方からああ10年
経ちましたねご苦労様という、あるいは
表彰状は出さないけれども、1年経ちました
ご苦労様、50日経ちましたねご苦労様
というのは、こっちから幾らでも言って
いるんですよ。毎日言っているんですよ。
でもそれで表彰状を出していたら、紙が幾ら
あっても足りません。白光が破産しますからね。
一応5年なり10年なり区切りをつけて
どっかで振り返りたいと思う時に、あんな時に
拍手なんかされたら面映ゆいし気恥ずかしいし、
そんな事いやだと思う人は沢山いるしね、又
そう思う人の中にも、自分なりに10年
振り返り、表彰状をもらわなくても、ああ俺も
10年だなあ、私も10年だなあ20年だ
なんていう人も一杯いると思うんですよ。
要するに、自分が神様に出会って、その後
どうだったかというのを振り返る場合に、自分
一人で振り返るというより、ああいう中で
皆の中で振り返ると何がいいかというと、皆の
守護霊さんが一緒になって祝福しますからね。
本当にそうなんです。あそこにいる人たち
だけじゃなくて、それこそ白光の一万何千人の
人達の守護霊守護神さんね、その人達の
ご親族や、本当世界人類の守護霊さんが、
良かったですね一区切りですね、〇〇さん
ご苦労様でしたというのを後ろが言うんですね。
後ろが言って励ますというね。それは別に
聖ヶ丘に行かなくても、表彰を出さなくても、
こちらから幾らも言ってますし、あの人は
10年だなあ、この人は20年だなあ、
次の年で10年だなあと判る訳です。こっち
からは。誰かさんみたいに出さなくっても、
あそこに行った人も行かない人も、皆
同じように、守護霊さんが皆寄って良かった
ですねと肩をたたいている訳ですね。
人間というのは、ああいう中で拍手されると、
ああ自分も来たか、こんな晴れがましい
所だけど、という想いが湧きあがって、又
新たに神様の愛の下やっていこうという
区切りがつきますよね。そういう意味で、
励ますという意味であって、10年の人を
30年の人を特別にして、その人達だけが
おめでとうじゃないんですよ。一日の人だって
おめでとうございますですよね。本当に
そうなんです。ただ、そうやっていたら、皆が
みんなやっていたら本当にどうにもならなく
なっちゃうんで、ああいう形にしてあります
けどね。