生命を生き生きと生きること、これが
人間の本来の姿であります。
ところが、この世の中にくらして
おりますと、なかなかいつも生き生き
というわけには参りません。
腹の立つことも、かなしいことも
起こって参ります。
普段、何もない時は、神様、世界人類が
平和でありますようにと祈れるけれども、
辛い悲しいことが起こってくると、
なかなか祈れない。
そして、良心の鋭い人であればある程、
自分を責め抜いて、自分の光を
弱めてしまうということに
なるのであります。
わたくしは、この感情と申しますか、
心の、気持ちの起伏ということを
認めた上で、しかし、人間の本来は
生き生きとしたさながらの生命、光
そのものなのだと申し上げている
のであります。
人間の本体というものは、何が
あろうと動かされることなく、光って
いる、光明体、白光そのものなのだ
と申しているのであります。
これは、誰かれの区別なく、人間は、
一人のこらずそうなのである。
なぜなら、私どもは、神から分かれて
きた生命、神の光の一筋だからで
あります。
世の中を生きてゆく上で、さまざまに
悩んだり、苦しんだりするのは、それは、
教義にも説いておりますように、
過去世の業が、時を得てあらわれ、
そして、消えてゆく姿であって、
思い悩む自分が、真実のあなた自身
ではないのであります。
けれども、私は、人間の心という
ものを否定致しません。
私もまた、人間に生まれて、種々の
よろこびとともに、かなしみや
寂しさを味わい尽くしてきた一人
であるからであります。
人間の心というものは、自然を感応
出来るようにつくられております。
もろもろのいのちの呼び声に対して、
感動し、また対話を重ねてゆくことが
できる微妙さをそなえております。
なぜ、私どもの心に、かなしみや
さびしさがたくわえられているのか
といえば、この自然の、もろもろの
生命の呼び声に対して、心耳を澄まし、
とけ合い、それらの生死と一体となって、
ついに神をたたえるそのゆたかさの
ためにたくわえられているのであります。
まことに、我々は自然の一部であります。
が、この種々の感情は、人をはなれたもの
ではありません。
我々は、幾人幾十人の人と心の機微を
かよわせてこそ、生きているということが
いえるのであります。
かなしみや寂しみは、この心の通い合いの
なかで、やさしさと愛をはぐくむ源と
なってゆくものであります。
誰一人として辛いこと、悲しいことを
歓迎する人間はおりません。
しかしながら、人の痛み、負った傷、
また負わされた傷の深さをはかって、
真実に、人間本来が持っております愛と、
そして、やさしさを発揮するためには、
時に耐えがたいかなしみや、寂しみ、
また怒りすらも味あわされる。
これは、業ではなくて、あなたの
守護霊、守護神が、その魂の成長の
ためにおいたつまづきの石である
のであります。
業とは、すべてのことにとらわれ、
こだわりつづけることであります。
よいことであれ、わるいことであれ、
とらわれつづける時、我々は、我の
世界におちこむのであります。
わがままと申しますが、これは、我の
ままに動かされる人間のすがたを申した
ものだといってもよいでありましょう。
かわいらしいわがままもありますが、
自らのいのちのすがたに気付かず、
それを歪めてゆくというのは、これは
最大のわがままであります。
いのちのすがたというものは、先にも
申しましたように、何物にもとらわれず、
動かされず、あるがままのすなおな光
そのものであるのです。
私どもは、この生命を持って生きている。
この生命によって生かされているので
あります。
このいのちがなければ、私どもの肉の身は、
とっくの昔にほろんでおりましょう。
そして、このいのちとは、神の愛と
智恵とやさしさにほかなりません。
私どもは神からながれてくるこの三つの
ものによって、瞬々刻々、この生命を
生きているのであります。
神の愛という神の息吹きのながれを
受けなければ、私どもの生命は、全く
その流れをとめてしまうのであります。
このように、神の愛によって生きている
私ども、生かされている私どもの生命が
歪められてそのまま、不幸の唯中に
つきおとされるということはあり得ない
のであります。
私どももこの愛のなかに生きている、
私どもは光の住者なのであります。
神の愛というものは無限に深いもの
でありまして、その働きは人智を
越えております。
神様は、守護霊は、守護神は、我々
一人一人のいのちをすこやかに
みちびくために、ひとときも、あなたの
そばをはなれることがありません。
どうぞ、世界平和の祈りによって、
かなしみの唯中にあるあなたのこころを、
私に、神に預け、おまかせのいのち
となって祈り一念におすすみ下さいます
ように。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久
人間の本来の姿であります。
ところが、この世の中にくらして
おりますと、なかなかいつも生き生き
というわけには参りません。
腹の立つことも、かなしいことも
起こって参ります。
普段、何もない時は、神様、世界人類が
平和でありますようにと祈れるけれども、
辛い悲しいことが起こってくると、
なかなか祈れない。
そして、良心の鋭い人であればある程、
自分を責め抜いて、自分の光を
弱めてしまうということに
なるのであります。
わたくしは、この感情と申しますか、
心の、気持ちの起伏ということを
認めた上で、しかし、人間の本来は
生き生きとしたさながらの生命、光
そのものなのだと申し上げている
のであります。
人間の本体というものは、何が
あろうと動かされることなく、光って
いる、光明体、白光そのものなのだ
と申しているのであります。
これは、誰かれの区別なく、人間は、
一人のこらずそうなのである。
なぜなら、私どもは、神から分かれて
きた生命、神の光の一筋だからで
あります。
世の中を生きてゆく上で、さまざまに
悩んだり、苦しんだりするのは、それは、
教義にも説いておりますように、
過去世の業が、時を得てあらわれ、
そして、消えてゆく姿であって、
思い悩む自分が、真実のあなた自身
ではないのであります。
けれども、私は、人間の心という
ものを否定致しません。
私もまた、人間に生まれて、種々の
よろこびとともに、かなしみや
寂しさを味わい尽くしてきた一人
であるからであります。
人間の心というものは、自然を感応
出来るようにつくられております。
もろもろのいのちの呼び声に対して、
感動し、また対話を重ねてゆくことが
できる微妙さをそなえております。
なぜ、私どもの心に、かなしみや
さびしさがたくわえられているのか
といえば、この自然の、もろもろの
生命の呼び声に対して、心耳を澄まし、
とけ合い、それらの生死と一体となって、
ついに神をたたえるそのゆたかさの
ためにたくわえられているのであります。
まことに、我々は自然の一部であります。
が、この種々の感情は、人をはなれたもの
ではありません。
我々は、幾人幾十人の人と心の機微を
かよわせてこそ、生きているということが
いえるのであります。
かなしみや寂しみは、この心の通い合いの
なかで、やさしさと愛をはぐくむ源と
なってゆくものであります。
誰一人として辛いこと、悲しいことを
歓迎する人間はおりません。
しかしながら、人の痛み、負った傷、
また負わされた傷の深さをはかって、
真実に、人間本来が持っております愛と、
そして、やさしさを発揮するためには、
時に耐えがたいかなしみや、寂しみ、
また怒りすらも味あわされる。
これは、業ではなくて、あなたの
守護霊、守護神が、その魂の成長の
ためにおいたつまづきの石である
のであります。
業とは、すべてのことにとらわれ、
こだわりつづけることであります。
よいことであれ、わるいことであれ、
とらわれつづける時、我々は、我の
世界におちこむのであります。
わがままと申しますが、これは、我の
ままに動かされる人間のすがたを申した
ものだといってもよいでありましょう。
かわいらしいわがままもありますが、
自らのいのちのすがたに気付かず、
それを歪めてゆくというのは、これは
最大のわがままであります。
いのちのすがたというものは、先にも
申しましたように、何物にもとらわれず、
動かされず、あるがままのすなおな光
そのものであるのです。
私どもは、この生命を持って生きている。
この生命によって生かされているので
あります。
このいのちがなければ、私どもの肉の身は、
とっくの昔にほろんでおりましょう。
そして、このいのちとは、神の愛と
智恵とやさしさにほかなりません。
私どもは神からながれてくるこの三つの
ものによって、瞬々刻々、この生命を
生きているのであります。
神の愛という神の息吹きのながれを
受けなければ、私どもの生命は、全く
その流れをとめてしまうのであります。
このように、神の愛によって生きている
私ども、生かされている私どもの生命が
歪められてそのまま、不幸の唯中に
つきおとされるということはあり得ない
のであります。
私どももこの愛のなかに生きている、
私どもは光の住者なのであります。
神の愛というものは無限に深いもの
でありまして、その働きは人智を
越えております。
神様は、守護霊は、守護神は、我々
一人一人のいのちをすこやかに
みちびくために、ひとときも、あなたの
そばをはなれることがありません。
どうぞ、世界平和の祈りによって、
かなしみの唯中にあるあなたのこころを、
私に、神に預け、おまかせのいのち
となって祈り一念におすすみ下さいます
ように。
世界人類が平和でありますように
合 掌
昌 久